保健室に着くと、実験室とは違った薬品の香りに出迎えられた。

保健室のドアには「ただいま外出中」の札が下げられていたが、どこになにがあるのかだいたい把握しているし、絵里ちゃんの口調からすると「話し合え」と言っているように聞こえたので、とりあえず鍵を閉めて、所在なさげにうろうろしている尋未に座るように促した。

 

「……」

「……」

 

二人で、保健室にある長椅子に座ると、沈黙が訪れた。

なんとなく、気まずい。

さらにシチュエーションがシチュエーションだ、今朝は彼女の制服姿を見て我慢できなくなりそうになり、今は今で、そんな制服の彼女と保健室というかっこうの場所にいる。

なんだか、今朝からずっと神様に虐められてるような気さえしてきた。

 

「………尋未…?」

 

ついに沈黙に飽きたのか、尋未が腕に体を押しつけてきた。

 

「先生…」

 

下から見上げられて、今朝のように甘い声を出されてしまった。

本気で困るが、とりあえず瞳を見ないようにして「どうした?」とだけ返した。

 

「……変」

 

言うに事欠いて「変」ときたか…。

まぁ、彼女にしてみれば俺が急に「何かしら」の変化が起きていると思ってるんだろうな、朝から変だったのは確かだし。

 

「…変じゃないよ」

「でもっ………、朝から変でした…」

 

強く縋る瞳で一度こちらを見上げたかと思うと、自信なさげに下を俯いてしまう尋未。

いつもは結構強引に俺の気持ちや、俺のことを聞いてくるくせに、なにを不安に思っているのか、とても元気がないように見えた。

 

「…俺よりも、尋未は…大丈夫か…?」

「…え…?」

「…絵里ちゃんが体調悪いって言ってたし、それに、顔色だって悪いぞ?」

 

俯く額にそっと手を当てると、彼女の体温が伝わってきた。

裸の彼女を抱きしめてるような感触。ダイレクトに伝わってくる彼女の体温に、本気で欲情してしまった。

いきなりこれぐらいのことで欲情するなんて、俺自身もどうかしている。

けれど、これ以上は彼女に触れていられなかった。

 

「……せんせ…」

 

驚きに目を向ける彼女の瞳がうっすらと滲んでいるのが解った。

しまった。

直ちに弁解するべく口を開けたが、彼女の瞳はなにも聞いてくれそうにないぐらい涙で溢れていた。

 

「…私、家に帰ります」

「……」

 

この場合、「家」っていうのは彼女の「実家」を示してるんだろうな。

悲しみの海にたゆたう瞳を見ながら、俺は妻から「実家に帰ります」宣言を受けた夫のような気分で、彼女を見つめた。

 

「…先生、私がいると眠れないみたいだし、……様子おかしいし、………朝は普通だったのに学校に来ていきなり態度おかしいし…!」

 

この泣き方、言い方からすると、そうとう切羽詰まってたんだな、と思う。

 

「…だ、だから…、夏期講習期間中は、……家に、帰ります」

 

ぽろぽろと涙を流しながら抗議するその姿は可愛くて、愛しくて、俺の態度が変わることでこんなにも心乱してくれる彼女を抱きしめたくて、……けれど、自分にそんなことをする資格は、残念ながらない。

 

「………そうか。それじゃ、家まで送ろう」

 

抱きしめたい衝動を一心に押さえつけ、切なく歪む心臓の音に無視して、俺は立ち上がった。

今この場で抱きしめて彼女を宥めてしまえば、止まらなくなる。

自分の衝動を押さえきる自信がまったくない。

しかし、ほっとしている自分がいることも知ってしまった。

彼女の言葉に頷いてしまうのは、彼女の勉強を案じ、また、…自分の衝動を押さえつけられない駄目な俺に対する良い自粛にもなるだろう、と。

 

「……良いです。バスで…、帰る…」

 

それが、大きな間違いだった。

 

「でも…」

「結構です」

 

ぴしゃり、と言い放たれた言葉を向けられるまで気付かなかった。

馬鹿だ。

普段の自分だったら、自分に言い訳するよりも前に、どんな理由があろうと彼女を引き止めていたはずだ。

だが、今あっさりと了承してしまった。

彼女にとって、これ程裏切られた気持ちで一杯になる事は無いのに。

 

「尋未、俺は…」

「──聞きたくない……。…──」

 

そう言うと、尋未はすぐに保健室のドアを開けて走り去ってしまった。

走り出す前に彼女が零した「どうして引き留めてくれないの…?」の一言が強く強く頭に残る。

俺は、とんでもない間違いを犯してしまったんじゃないだろうか?

 

「……尋未、ごめん…」

 

自分の衝動を押さえつけられなくて、彼女を傷つけてしまうよりかは、こうして自分自身を責めて、なじってくれていた方がまだ良い。

自分が罪悪感で苦しめば良いんだ。

 

しかし、後にこれが大きな思い違いをしていたことに気付く。

俺は、彼女を傷つけまいとしていた行動が、別の意味で彼女を傷つけている、ということに全く気付かなかった。

自分と同じ思いを、相手だってするということを、忘れていた─────

 

 

 

「──はぁ」

 

 

 

真っ暗な部屋に明かりを灯す。

なんつー一日だったんだ、と悪態をつくが、それは全て自分の原因なので上手に消化できない。

家に帰って、抱きしめる存在もいないことを実感すると、無性に怒りがこみ上げた。

自分のせいでこうなったのに、まだ彼女を求めている。

そんな浅ましい自分に嫌気がさした。

さすがに壁だと穴があくので、ベットに拳を叩き付ける。

こんなことをしても意味はない、解っていても、なにかに自分の気持ちを叩き付けないことには、自分を許せそうになかった。

尋未を傷つけてしまった事実は相変わらず自分の心に根付いている。

 

「……明日から、どうしよう…」

 

二、三発ほどベットに拳を叩き付けると、多少気持ちが楽になったので、仰向けで横になった。

人間、一度経験してしまうとやはり贅沢になるらしくて、今の状況は大変不満だった。

昔は一人のほうが気楽でいいと思っていたのだが、彼女と過ごしてみて、それは一変した。

隣に、見えるところに、手が届くところに彼女が居ないと、どうも落ち着かない。

体の一部が不自由になってしまったような、そんな感覚に陥りそうになる。

…羽をもがれた鳥っていうのは、こういう気分なのかもな。

 

「………」

 

制服姿の彼女を見ないで済むというのは、正直ほっとしていたのだが、こんなにも彼女の居ない部屋に居る事がキツイという事が分かり、いたたまれなかった。

しかも、自分から追い出したようなもの。それで追い出した本人が参っているんだ、情けない男だ。

 

そんなことを考えながら、その日はシャワーも浴びずに夕食を食べることも忘れ、そのまま寝入ってしまった。

 

朝起きて、自分の腕に彼女の感触がないことに気付く。

一瞬、寝ぼけた頭で「どこに行ったんだろう?」と考えるが、すぐに昨日の出来事を思い出して、今、彼女がうちにいないことを自分に思い知らされる。

わざわざ傷口に塩を塗り込むことなんてしたくなかったのに、寝ぼけた頭が憎らしかった。

とりあえず一日の始まりは朝食から、というCMのフレーズの通り、寝ぼけた頭を起こしてパンをトースターに突っ込んだ。

その間に今日の講習の準備を済ませ、焼き上がったトーストにマーガリンを塗って、マーマレードのジャムを付ける。

甘酸っぱいはずのマーマレードが、なぜか酸っぱく感じた。

最後にコーヒーを流し込み、なんとか朝食を胃に収めた後は、シャワー。

浴室でシャワーに打たれると、寝ぼけていた頭が徐々にはっきりとしてきたので助かった。

いつまでも腑抜けた状態でいると、純也さんに喝を入れられるからな。

 

「……さて、と」

 

スーツを着て、身支度を済ませれば、丁度良い時間。

俺は鍵と携帯、それから鞄を掴むと、誰もいない部屋に「行ってきます」とだけ残して学校に向かった。

愛車のセリカに乗って、滅入る気分をどうにかしようとラジオをかけると「今日のテーマは、失恋!」という景気の良いDJの声が聞こえて、すぐにラジオを切った。

朝からなんつー不吉な単語を言うんだ。

と、内心なぜか冷や冷やしながら車を運転していると、やっぱり自分は神様に見捨てられたんだと思う。

 

「───くそっ」

 

イライラしている自分を滅するために悪態をつくが、それぐらいで収まるようなもんじゃない。

なんでこういう日に限って車が混んでるんだろうか。

やっぱり嫌がらせだ。

最悪だった。

気分も、自分も、なにもかも全てが。

顔を隠すようにシートに体を完全に預けている俺に、助手席側の窓をコンコンと叩く音が聞こえた。

 

「っ!?」

 

いきなりのノックに驚いてそちらを見ると、そこには驚かされる人物がいた。

 

「さ、…里美さんっ!?」

 

慌ててロックを解除すると、その見知った女性は車に乗り込んできた。

「おはよー」といつもみたいに軽快な声に合わせて。

 

「はー、朝から暑いわね、雅都くん」

「……はぁ」

「あ、それよりも久しぶり、が先だったかしら?」

 

嬉しそうに俺の隣りでくすくす笑う里美さんが、悪戯っぽく笑んだかと思うと、するりと腕を絡めてきた。

 

「……なんでここにいるんですか?」

「あら、いたら困ることでもあるの?」

「いや、別にそういうわけじゃなくて…」

「仕事のことなら大丈夫。今日は、有給だから」

「……そうですか」

「ちなみに、この道、当分動かないわよ」

「え!?」

 

唐突に言われた、死刑申告に近い発言を聞いて驚きを隠せない。

 

「木材積んでたトレーラーから荷物が散乱。今、警察も手伝って片付けてるけど……しばらく無理ね。量がハンパじゃないし」

「………めんどくせぇ」

 

小さく漏らした言葉をしっかり聞いていた里美さんが、からかうように俺の鼻の頭を指でつついてきた。

俺は子供か!

 

「ね、良いこと教えてあげるから送ってくれない?」

「………良いこと…、ですか…?」

「そうよ。そこの抜け道から一本向こうの通りへ出られるのよ」

「……あ、そうか」

 

そう言えば、以前こうして道が動かなかったときもどうにかこうにか抜け道を見つけたことがあったっけ。

そうか、この道か。

素直に里美さんに「ありがとう」を言おうとした時だった、彼女は間髪入れずに綺麗な笑顔と共に脅迫にも似た迫力でこう言った。

 

「ね、良いこと教えてあげたから、駅まで送って? たまには付き合いなさいよ」

 

相変わらず、人懐っこくて、物事を断れなくする雰囲気は変わっていない。

彼女は、中川里美(なかがわ さとみ)。

祖父の会社で秘書をしている女性だ。

年は俺よりも三つ上で、常に姉のように振舞われてきた。

初めて見たとき、悪い人じゃないっていうのはすぐに分かったし、あまりにも人懐っこくてとても年上とは思えない言動と雰囲気だから、俺も強くは出れないんだけど。

それでも信頼できるうちの、一人だった。

 

「……ね、雅都くん」

 

ここを曲がれば駅に着くぞ、というところで隣の里美さんに声をかけられた。

 

「なんですか?」

「……随分とイライラしてるみたいだけど、彼女と喧嘩でもした?」

 

サイドミラー越しに見えた彼女の笑顔は、昔から見せる「姉」の笑顔だった。

 

「…里美さんには、なんでも解っちゃうんですね」

「昔から言ってるでしょ? 相談事は遠慮なく言ってね、って。私、お姉ちゃんなんだから」

 

嬉しそうににっこり先ほどとは違う純粋な笑顔を向けられて、こちらもほんの少し笑顔が零れた。

 

「……遠慮、ですか…」

「雅都くんは言葉が足りなさすぎるところあるし、他人に一歩踏み込めないところもあるから、……彼女にしてみれば不満になることもあるでしょう」

 

…うーん、的確にポイントをついてくるなぁ。

 

「そこんとこ、ちゃんと解ってあげないとね? 女の子は、時に男からも甘えられることを望んでるのよ?」

 

駅前のロータリーに車を停めると、彼女は颯爽と助手席から降り、会話出来るように開けた窓から上半身を覗かせると、

 

「ま、言いたくなったら実家に寄りなさいな。煮詰まると、つまらない答えしか出ないからよけい彼女不満にさせるわよ?」

 

とだけ言うと、付け加えたように「送ってくれてありがとう」と言い残して駅の改札に消えた。

 

「…煮詰まる、ね…」

 

バックミラーで覗いた自分の顔を見て、もう十分煮詰まってることを確認した俺は、学校へ車を走らせた。



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