「…ねぇ、純也」
「ん?」
「…………」
「……何だよ。ハッキリ言えよな。…お前らしくない」
「…あのさ」
「ああ?」

「結婚しない?私と」

がっしゃん。
「わ!?ちょっ…ちょっとー!コーヒー!こぼれた!!」
「………うを!?だ、ちょっ…!!」
手から落ちたマグカップを慌てて起こし、テーブルを伝って床に垂れるコーヒーを慌てて拭く。
……その時、当然と言えば当然のように、俺の視線は目の前の彼女へと向かった。
「…ったくー。子供じゃないんだから」
「……………」
「…ちょっと?聞いてるの?」
「あ?…あ……ああ。聞いてる」
怪訝そうな顔を見せた彼女に慌てて首を振り、大きく頷く。
…夢?
それとも、何かの悪い……いつもの冗談?
「……………」
先程言われた短い言葉が、頭に再び蘇る。
…結婚、とか言ったよな。
ホントに?
……っつーか、俺…と?
これまで、付き合っても居なかった、彼女。
ただ、昔から知っているというだけで、決して『男女の関係』には進む事も無かった。
…好き、ではあった。
この、彼女の事を。
だけど、そんな気持ちを口にしたりしなかった。
だから――……
「…マジかよ」
今でも、正直言って信じられない。
結婚?急に、どうして?
…だけど。
「……何だよそれ…」
そう言いながらも、俺にはしっかりと笑みが浮かんでいた。

「………おい!もう朝だって!」
「…うー……」
「…ったく。おい、絵里!お前、いい加減起きろよ!朝だっつってんだろ!?」
「うー……んん……眠いぃ…」
「だーかーらー!!」
本日、3度目の起床コール。
まずは、俺が起きた時。
次は、飯の支度を始める時。
………で、今。
「…あーもー……」
コイツと違って、飯はしっかりと準備が整ったにも関わらず、絵里は相変わらずベッドから起き上がろうともしなかった。
…三度とも、同じ格好で寝ていやがって。
…………しかも。
「…ったく。寝相直せよ…」
ボタンが外れて、丁度良く目に入る柔らかそうな白い肌。
そこから少し下へと向かえば、今にも見えそうになっている胸元があって。
…当然、どうしたって目が行くわけで。
…………はぁ。
俺って、本当に健気だと思う。
毎日飯を作ってやって、朝は時間通りにちゃんと起こして、夜はたとえ深夜まで残業でも、帰ってくるまで起きててやって。
…これじゃあまるで、今流行の『主夫』みてーじゃねぇか。
「…はー…」
だけど、『主夫』と決定的に違う点が1つある。
それは――…俺たちが、『夫婦』じゃないという事。
「…………」
相変わらず気持ち良さそうに寝ている絵里を見ながら、ベッドへもたれる。
――…そう。
俺は、コイツの旦那じゃない。
ただの、『同居人』。
…約束を交わしたから、一緒に住んでいるだけ。
「……はぁ」
頭をベッドの縁へもたげると、ため息が漏れた。
何度と無く、この事を考える度に出てしまう、ため息。
…それはあの衝撃的な告白があったあの時から、ずっと変わる事無く続いたままだった。

『結婚しない?私と』

絵里が言ったあの言葉は、実はホンモノじゃなくて。
…むしろ、その『ホンモノ』ってヤツを手に入れる為の、手段でしかなかったらしい。
先日、あの仰天発言をする前に発覚した、絵里の両親にとっての仰天発言。
それが、見合いを薦められた絵里が暴露した、本命ってヤツの存在だった。
…で。
今回の事は、見合いを断ってまでその男と結婚すると言い出した絵里に、両親が提示した条件だったそうだ。

『1ヶ月。純也君と一緒に暮らして、手を出さなければお前の好きだという男性を連れてこい。その人との結婚を考えているのなら、手を出さないことくらい簡単だろう?』

コイツには悔しいかな『本命』がちゃんと居て。
俺は、絵里にとってみれば、与えられた試練のうちの1つ。
…っつーか、むしろ『障害物』みたいなモノだった。
「……………」
今更、この状況を疎ましく思ったりしない。
例え、どんな理由であれども――…今一緒に暮らしている事に、変わりないんだから。
これまでと同じ日常が続いていたら、絶対にありえなかった事。
…俺は絵里にとってただの『幼馴染』で、『彼氏』なんかには絶対になれなかった。
「……おい、そろそろ起きろよ」
「むー……眠い…」
「俺も眠いし」
「…うぅ…」
はぁ、と大きくため息をついてから立ち上がり、絵里の頭をくしゃくしゃっと撫でてやる。
短くて指通りのいい髪が、さらさらと心地よく通った。
「…起きたか?」
「………起きた」
ようやく合った瞳で顔を近づけると、小さく頷いてから大きな欠伸を見せた。
「…ったく。とっとと起きねーと遅刻だぞ」
「分かってるもん」
「分かってねーだろ」
「……うるさいなぁ、もー…」
眠そうに瞳をこすってから、伸びを見せる仕草も。
欠伸をした後で潤ませた瞳も。
「…ん?」
「おはよ」
「…おせーよ」
「細かい事は、いいの」
わざわざ目を合わせて、にっこりと微笑む……その顔も。
どれもこれも、俺に向けられる回数は後僅か。
……一ヶ月なんて、あっという間だ。
その後は、俺が知らない男へ向けられる。
「…………」
俺は、色んな意味で健全で、色んな意味で不健康だと思う。
目の前には、ずっと昔から好きだった女が居るのに。
この家には今、俺達二人しか居ないのに。
……手を出せないだろ、当然。
『好きな男が居る』なんて面と向かって宣言されたら、余程浅はかな男じゃない限りは、きっと――…
「…おー。凄い、美味しそう」
リビングから聞こえてきた声で彼女を見ると、満足げな顔をしてから、こちらに歩いて来た。
「……何の真似だ」
「あら、褒めてるんじゃない」
「…あーそー」
「もっと喜んでいいわよ?」
「結構だ」
身長に差があるクセに、絵里が思い切り手を伸ばして頭を撫でた。
…俺はガキか。
まるで言い付けでも守った事への褒美のようで、苦笑が浮かぶ。
………だけど、俺はやっぱり単純だから。
初めて絵里にそうされた時、馬鹿馬鹿しく思いながらも、素直に嬉しかった。
頭を撫でて貰えた事じゃない。
そうじゃなくて……自分を、認めて貰えた事が。
そして、その時に絵里が見せてくれた、笑顔が。
「それじゃ、頂きます」
「おー」
椅子に座って早速フォークを伸ばした絵里に、ミルクを注いだグラスを渡す。
「…うん、美味しい」
「そりゃどーも」
「ほら、純也も食べなさいよ」
「……わーってるよ」
言われるままに向かいへ座り、同じようにフォークを手にする。
――…あと、僅か。
こうして同じ食卓を囲むのも、同じ飯を食うのも。
そして――……
「あ、今日は金運がいいんだ。…らっき」
無邪気に笑う笑顔を、俺だけが見れる事も。
「……………」
…もう、じきに訪れる『別れ』という現実。
それを考えないようにしながらも、どうしたって、時間は過ぎる。
……嫌だ、なんて駄々こねるガキみてーな事出来るワケがない。
微かな音を立てて進んでいく時計を見ながら、何とも言えない気持ちが身体中に広がっていった。


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