「…キスは、好きな人とするんじゃないんですか?」
「……そう…だね。間違ってないと思う」
「………それなのに、私の事は…嫌い…?」
「…だから。嫌いなんて一度も言ってないだろ?」
ぽつりぽつり、と視線を落とした彼女が囁くように呟いた。
音が無い部屋とは言え、小さな声は響きにくい。
――…それなのに。
なぜか俯いたままの彼女の言葉は、不思議な響きを持っていた。
「……それじゃあ、どうして?」
「…え?」
「どうして……私のこと、避けるの?」
「避けてなんか――」
「もう……独りぼっちなんて、やなのに…!」
首を振って、否定しようとした時。
彼女が、それまで伏せていた顔を上げた。
「…違う。そんな事は…」
「……違わない…っ…」
情けなくも、声が掠れる。
…大きな瞳が潤んでいるのは、当然涙のせいで。
……しかも、俺が原因という最悪なもの。
「……違う」
それなのに、何とも言えない気持ちが身体から湧く。
護ってやりたいとか、そんな生半可なモノでも表面的なモノでもなくて。
…もっと――…奥底からの欲求のような、何かが。

「祐恭さんも、私のこと――…置いていっちゃうんですか?」

「ッ…!」
その言葉が、決定打になった。
「…っ…」
上目遣いに見上げていた彼女の顎を取り、唇を塞ぐ。
いつものような『挨拶のキス』なんかじゃなくて。
…彼女の言葉を借りるならば、これこそまさに『好きな人とするキス』ってヤツだろう。
「ん…っ…」
一度唇を離してから再び口づけ、深くまで舌で撫でる。
…こんなキス、許されるのか?
穢れない瞳で『キスは嫌いな人とはしないんですよね?』なんて聞いてきた、健気な彼女と――…交わしても。
「…ん…ん……っ…」
苦しげに時折漏れる声を聞きながら、それでもまた求める。
…悪いヤツ。
我ながら、そんな事は重々承知で。
……だけど、やっぱり止められなかった。
これまで触れていなかった期間がそうさせたのか、はたまた――…ずっと渇望していた事なのか。
そのどちらかは分からないが、今の俺には自身をセーブするだけのタガが外れてしまっていた。
「…祐恭…さ…ん?」
ぱさ、と彼女の髪がベッドに広がる。
そんな光景の1つ1つを見たままで彼女を身体の下に捕え、手を突いてもう片方を頬に当てる。
滑らかな、柔らかい肌。
自分とは何もかも違っていて、本当に……女性らしい特有の感触に、改めて彼女が『一人の女』なんだと実感してしまう。
…だから。
自分は、間違いなく男だから。
「っ…ぇ…」
彼女を見つめたままで、頬に当てていた掌をいつしか下方へ移動させていた。
「……祐恭さん…?」
不安そうに、揺れる瞳。
僅かに動く、白い喉。
どれもこれもしっかりと見えているのに、今となっては全てが俺を煽る材料。
……ああ。
やはりあの時した自分から彼女を離す術は、間違いを犯す前に必要な事だったんだな。
どうしようもなく彼女を欲する自身の衝動に、小さくため息が漏れた。
「…理性って知ってる?」
「え…?」
感情というモノが無くなってしまったかのように、無表情のまま言葉が出る。
すると、少し視線を逸らした彼女が、改めて小さく頷いた。

「…それじゃ、羽織ちゃんの事好きだって知ってた?」

無表情に対して、うるさい位の鼓動が耳に届いた。
「……え…?」
一際大きく、丸くなった瞳。
…まるで、『信じられない』とでも言わんばかりの顔だ。
だけど、そんな彼女を見ていたら、なんだか笑みが浮かんできた。
別に、可笑しいからなんかじゃない。
そんなんじゃなくて。
……こんな自分にも素直な部分があったんだなって事と、彼女のあまりの驚きようが、何となく微笑ましく思えたからだ。
「…うそ…」
「何で嘘なんかつく必要がある?何のメリットも無いのに」
「そ…れは、そうですけど…」
ふるふるっと彼女が首を振ると、その度にさらさらと音が聞こえた。
その音の元は、勿論――…彼女の髪。
「…………」
「…え…?」
手を伸ばして触れると、すぐにさらりと指の間を通る。
…一体何度、これまでこの髪に触れたいと思った事だろうか。
そして、その事がこうも容易く出来るものなんだと――…どうして思えただろう。
「…羽織ちゃんは?」
「え?」
「俺の事、どう思ってる?」
くすぐったそうに軽く身をよじった彼女に再び視線を合わせると、一瞬瞳を丸くしてから、居心地悪そうに視線を逸らした。
…まぁ、それはそうだろう。
普通、それが正直な反応だ。
好きでもないヤツにずっとキスを――…しかも無理矢理されてたようなモノで。
そんな理解しがたい行動をするヤツなんかの事を、どうして好きになんてなれる?
少し考えれば、すぐに分かる事なのに。
彼女の反応も、これから聞けるであろう彼女の本音も。

「…嫌いな人とは、キスしません」

「え…?」
暫くしてから聞こえた、小さいながらも、しっかりとした強さがある声。
それで、閉じていた瞳が開いた。
「……そうですよね?」
「それは…」
「………好き、だから……キスするんでしょう?」
ぎゅっと胸の前で握られた手。
そして、しっかりと見つめている…僅かに潤んだ瞳。
…ああ。
この子は、本当に俺の理想だな。
「そうだよ」
ふっと笑って小さく頷き、再び彼女の頬へと掌を伸ばす。
…愛しい彼女。
温かくて、優しくて……柔らかくて。
何度、こう出来ればと願った事だろう。
…そして、何度――…諦めた事か。
「キスは、好きな相手とするモンだ」
そこで初めて、自分で行動を起こした。
…なんて事無い、毎日必ずしている事を。
「……あ…」
だが、彼女にとってはきっと珍しい光景のはずだ。
なんせ俺は彼女と普段居る時でも――…眠る時にしか、眼鏡を外さないから。
「…邪魔だから」
ベッドの棚へ置いて彼女に向き直ると、これまでに無い彼女を見る事が出来た。
…ああ。
どうして俺は、もっと早くこうしなかったんだろう。
こんなにも可愛くて、こんなにも……眩しい子なのに。
嬉しそうに微笑んでくれたその顔は、きっとこれからも忘れる事なんて出来ない。


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