「……え…っと…」
案内された席につく事が出来ず、ただただまばたきをするしか出来ない。
…これって、本当なんだよね。
なんかとっても、嘘というか……夢みたいで、現実感が湧いてこない。
……それもそのはず。
だって私は、音羽さんと暁さんに『いい所に連れてってあげる』って言われただけだったんだから。
だからこそ、まさかホストクラブに連れてこられるとは予想も出来なかったし、それに――……
「こんばんは?」
「………こ…んばんは…」
…家に居るであろう先生その人が、こんな場所で『ホスト』なんかをしているなんて、思わなかった。
「…おいで」
「え…?」
「隣でしょ?席は」
足を組んだままの彼が隣を軽く叩いてから、私に再び笑みをくれた。
…先生……だよね?
でも、服装もそうだけど髪型も……違って…。
それに………この、瞳。
いつもは眼鏡をしているから、こんな風に直接見る機会なんてそう多くない。
……特に、こんな灯りがある夜は…特別。
寝る時は『当たり前』でも、明るい場所でこの姿を見る事は滅多に無かった。
「っ……」
隣におずおずと腰を下ろすと同時に、彼が肩を引き寄せた。
途端に彼との距離が縮まり、当然のように……彼の瞳がより近くになる。
…どう…しよう。
一度見つめられたら、逸らせない。
そんな魔力染みた力が、今の彼には確かにあった。

――― 祐恭 ukyo ―――

「何飲む?」
「…あ……えと…。…何でも…」
「…酒って言っても?」
「え!?」
「……冗談」
くすくす笑いながら彼がホールの人を呼んで、何かを注文するのが見えた。
相手は、勿論知らない男性。
…だけど、彼はまるで知り合いみたいに話をしていた。
「…………」
その姿はどうしても、テレビなんかで見る本物のホストを彷彿(ほうふつ)とさせる。
……いつもの彼とは、全然違う。
似ても似つかないって言葉が相応しい位、華やかで(あで)やか。
「どうぞ」
「…あ。ありがとうございます」
軽く頭を下げてから、彼が差し出してくれたグラスに手を伸ばす。
指先に触れた途端に、ひんやりとした心地良さが伝わってきて、つい頬が緩んだ。
「……綺麗な色…」
「カクテル」
「え!?」
「…勿論、アルコールは入ってないよ」
驚いて彼を見ると、また、おかしそうに笑われた。
…うぅ。
先生がそんな風に言うからじゃないですか…。
なんて眉を寄せてみても、やっぱり彼は気にする様子は無かったけれど。
「…どう?」
「すごい……美味しい」
「それは良かった」
甘酸っぱくて、ベリー系の何か。
そんな味が口の中に残っていて、笑みを浮かべながら彼に小さく頷く。
――…と。
「っ…」
また、だ。
彼がまた、まるで私の顔を覗き込むかのように、瞳を向けた。
…カラーコンタクトとか、してるんじゃないのかな…。
なんだか、少しいつもと瞳の色が違うようにも見える。
そのせいか、やけに瞳に目が行ってしまって、結果としてやっぱりどきどきする。
悪循環だって分かっているけれど、でも、やっぱり逃れられない。
……すごい…。
ある種、妖艶な感じが漂っているように見える。
「名前は?」
「…羽織、です」
「羽織ちゃん。…へぇ。可愛い名前」
「っ…そんな事は…」
「あるでしょ」
ふっと視線を落とした彼が、私を抱き寄せたままで髪に触れた。
いつもしてくれるように、指を通して(いじ)る。
…彼にこうされるのは、好き。
すごく気持ちよくて、ふわふわする。
……あんまりされてると、眠くなっちゃうんだけど。
「…イイ顔」
「え…?」
「今。…凄い可愛い顔してた」
「っ…」
瞳を細めてから囁いた彼を見た途端、喉が鳴った。
…言葉が気恥ずかしかったと言うのも、ある。
でも、それ以上に……今の彼が、とっても……いい顔だったから、だと思う。
……彼の言葉を借りるなら、『えっちな顔』。
まさに、あんな感じ。
「…どうした?」
「っ…な…にも…」
「そう?そんな風に見えないけど」
「…!…や…」
わざと吐息を掛けられながら耳元で囁かれ、ぞくぞくと背中が粟立つ。
いくら薄暗い店内とは言え、こんな事は――…絶対に周りにもバレてしまう。
…それは、やっぱり…嫌だ。
恥ずかしいのもあるけれど、やっぱり、こう言うのは…二人じゃないと…って言う、気持ちがある。
「っ…!」

「………俺の前じゃしないくせに」

「……え…?」
顎を取った彼が、目を合わせて呟いた言葉。
その意味が分からなくて聞き返すものの、彼はあっさりと解放してくれてから、何も言わずにグラスを呷った。
…先生の前じゃ…しない…。
一体何を?
これまでの彼の表情も仕草も、とても意味ありげで、とても惹かれた。
けど、今一瞬だけ見せた表情は……その比じゃない。
…少しだけ儚げで。
そして――…ほんの少しだけ、機嫌も良さそうじゃなかった。
「…………」
……どうしたんだろう。
さっきまでは、あんなに笑顔を見せてくれていたのに。
なのに、今では……全くと言っていい程、彼は笑顔を見せてくれなかった。
…それどころか、先程感じた不安な感情が、一層大きくなっているようにも見える。
………怒って…る…?
私を抱き寄せたままで、前だけをしっかりと見ている彼。
その横顔には、妙に声を掛けずらい雰囲気があった。
「………あの…」
ただただ、押し黙っていた時間は、一体どれ程だっただろう。
もしかしたら、10分も経っていないかもしれない。
だけど、30分以上だったかもしれない。
真実は曖昧で分からないけれど、でも、私には相当な時間だった事は確かだ。
「……祐恭さん…?」
いつものように『先生』ではなくて、今に相応しい『名前』を恐る恐る口にした時。
これまでソファにもたれたままだった彼が、ぴくっと反応を見せた。
「………何?」
怒ってる顔。
…間違いなく、そう。
だけど、いつもみたいに眼鏡越しじゃなくて。
ダイレクトに、そこにある瞳。
……まさに、『捕まる』って言葉がぴったりだと思う。
でも、だからこそ……怒っているのがしっかりと分かって、とても居づらい。
「っ…え…!」
「…ねぇ、羽織ちゃん」
ぐいっと抱かれたままだった肩を彼が一層引き寄せ、彼の首へと頬が当たる。
…熱い…?
いつも、こんな風にされる機会が多くないせいか、そんな事が頭に浮かんだ。
……それとも、もしかしたら…お酒を飲んでいるからかもしれないけれど。
「…なん――…っ…」
そっと彼のスーツに手をやって、少しだけ離れ――…ようと身体を離した途端、彼がまた腕に力を込めた。
当然それで私は元の位置へ戻ってしまったので、また、彼の顔を見る事は出来なかった。
…怒ってる。
先程までは『かもしれない』だった事が、確信へ変わる。
だけど、理由が分からない。
どうして彼がここまで機嫌を損ねたのか……。
……勿論私のせいではあると思うんだけど、顔を見せてくれないからこそ、そこまで深くは分からなかった。

「今夜、暇だよね?」

「…え…?」
思っても無い言葉を、彼がぽつりと囁いた。
「…今夜…ですか?」
「そう」
そこでようやく力を緩めてくれたお陰で、彼を見る事が出来た。
一瞬、見ようかどうしようか…悩んだのは事実。
でも、やっぱり彼をちゃんと見たかった。
……どうして怒ってるのか、その理由が知りたかったからだと思う。
「空いてますけれど…」
「…そう」
先程と、同じ応え。
彼は、こちらを見る事すらせずに、淡々と続けた。
視線の先を辿ると、そこにはすっかり氷の解けてしまった彼のグラス。
……何を…言われるんだろう。
不安な感じが拭えなくて、鼓動が早まる。
「っ…え…!?」
――…などと、俯き掛けたその時。
彼が、先に動いた。
「それじゃ、行こうか」
「あっ…!…祐恭さん…っ…!?」
ぐいっと手を取って立ち上がらされ、そのまま引っぱられる様に歩かされる。
絨毯の敷かれた通路を、歩幅の大きな彼に合わせるよう小さく小走りで。
……どう…して?
これから彼が何をしようとしているのか分からず、知らない間にぎゅっと胸の前で掌を握っていた。
顔が見えない事で抱く、不安。
…そして、彼のいつもと違う声色で惑う気持ち。
「……………」
いつしか寄った眉のままで、私はただ彼に繋がれた手だけを頼るほか無かった。

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