「…あ…!」
ぐいっと再び腕を引かれ、結局抗う事も出来ずに部屋へと踏み込む。
その途端に彼がドアを閉め、そのまま――…ドアに手を突いた。
「…せ……んせ…」
鋭いままの視線を、ごく近い距離で。
…彼が、あの瞳を見せる。
いつもより……まるで、『金』に近いような瞳を。
後ろめたい事がなくても、視線が逸れそうになる。
それ程、いつもの彼とは本当に全てが違っていた。
いつもみたいに冗談めいた雰囲気はなくて、視線も言葉も…感情までもが、尖っているように感じる。
…怒ってるんだ。
私が、何かしたから。
何か…彼の気に障るような事をしたから。
だから――…
「っ…!?」
視線が落ちそうになった、その時。
彼の掌が、顎から頬にかけてのラインを捉えた。
「ん…っ…!!」
背中に、ドアが当たる。
だけど、それによって彼との距離が一気に縮まった。
身体ごと彼に触れられ、身動きも取れない。
ただでさえ顎を取られているのに、ドアと彼とに挟まれている状況。
……そして……いつもより、ずっと強く荒い口づけ。
「っ…んん…!」
角度を変えて何度も施され、徐々に身体から力が抜ける。
…ううん。ちょっと、違う…。
背中から腰の辺りが妙にぞくぞくとしてしまって…力が、入らない。
立ってられない。
ドアにもたれるように身体を預けているのも、限界で。
「…っふぁ…!ん…!!」
ずっと塞がれたままだった唇を離して貰うように彼の身体を押し、距離を作る。
だけど、ほんの一瞬離れたかと思いきや、彼が無理矢理に両手で頬を捉えた。
…繰り返される、口づけ。
唇も、口内も、彼で満たされる。
……嬉しくないわけじゃない。
でも、何だかいつもと違って……それが、少しだけ不安で。
「…ぅ…ん…っ」
濡れた唇の音と、絡まるように求められる舌の……音。
静か過ぎる部屋に、ただそれだけが響く。
………だから、余計に…煽られているのかもしれない。
ぞくぞくと背中が粟立っているのは、きっと、そのせい。
…いつもと、雰囲気も、キスのくれ方も、何もかもが違う…彼のせいだ。
……こんな、キス…久しぶり…だと思う。
「ッ…!!」
ふわふわとする頭でそんな事を思うと、途端にがくっと膝が折れた。
「は…っぁ…、は…!」
ぺたん、と床に崩れるように座ったまま、荒く息をつく。
…息が、上がる。
体育とかで、思いっきり走った時みたいな。
……ううん、それよりも、きっともっとずっと…激しい。
身体が、言う事を聞かない。
足が震えて、立ち上がる事も…出来ない。
どくどくと脈が激しく打って、なかなか息が整わない。
…それだけじゃない。
何よりもまず、彼の顔を見る事が出来ない。
あんなキスをされて、荒く求められて。
嬉しくないって言ったら、嘘になる。
…でも、不安じゃないって言い切れる程の余裕はない。
「…………」
……どうして?
彼の足元だけを見つめたまま、言いようの無い不安と、重苦しい雰囲気だけがこの部屋を支配していくのが分かった。
…どうして、先生は何も言ってくれないんだろう。
どうして、あんなキスをしたの?
私が、何か気に入らないような事をした?
……それとも――…
「…どうした?」
「……え…?」
じわっと瞳が潤んで、一層彼の事を見上げられなくなった時。
不意に、上から静か過ぎる声が聞こえた。
「……立てない、とか?」
「…っ…」
少し間を空けた彼が、口を開いた次の瞬間。
『ふぅん』と小さく呟いたかと思いきや、急にしゃがんで――…
「っ…な…!?」
「それじゃ、連れてってあげる」
私の顔を見る事もなく、持ち上げてそのまま部屋の奥へと身体の向きを変えた。
「やっ…!ちょ、ちょっと待って下さい…!」
「どうして?待つ必要がどこにある」
「そ…んな…!」
いとも、簡単に言われた言葉。
だけど、やっぱり彼らしくなかった。
別に、彼が普段こんな事を言わないなんて言うわけじゃない。
…でも、明らかに雰囲気が違っていた。
いつも、先生はこんな風に言ったりしない。
…こんな……冷たい、何の感情も篭っていないような声では。
「っきゃ…!?」
一瞬、身体が浮いたかと思いきや、すぐに少し冷たい弾むようなモノに身体が受け止められた。
「や…!?」
先程、抱きかかえられたままの格好で。
しかも靴まで履いたままで、覆いかぶさるように来た彼に押し倒された。
「ちょ…ん、まっ…て…!」
少し冷たい、大きな手。
…でも、私にとっては彼のモノで。
だから、いつだって嬉しかった。
彼に触れて貰える時は、たとえどんな時だろうと。
その掌が、温かくても…冷たくても。
私にとって、彼という人の存在は特別だから。
どんな時だって、嬉しかった。
たとえどんなに、意地悪な事を言われようとも。
…たとえどんなに……困るような事を言われても。
いつだって、彼は笑顔を見せてくれたから。
少しだけ意地悪そうだけど――…でも、優しい笑顔を。
なのに。
…それなのに。
今は、どうだろうか。
「っ…せんせ…っ…!!」
彼は……優しい人。
大好きな人。
…特別な……人。
………それじゃあ、『今の』彼にとっての、『今の』私は?
私は、一体どんな存在なんだろう。
「やっ…!せ…んせっ…!…ま…って…待って下さ…っ…!」
上着も脱がず、靴も脱がず。
先程と何1つ変わらないままで、彼は私の首筋に唇を寄せた。
「…んっ…ゃ…!」
冷たい掌が背中へ回り、ワンピースを脱がしていく。
それまであった締め付けがなくなり、それが余計に不安に思えて。
……どう…して?
肩紐を下ろされて露になった両肩が、外気にさらされて少しだけ震えた。
相変わらず、この部屋を照らすような光源は、入り口の補助灯だけ。
ただそれだけが、足元の床をほのかに照らしている。
…だから、分からない。
今、彼がどんな表情をしているのか。
そして――…何を思っているのか。
そんな事までも、暗い部屋が隠してしまっているかのように。
「せんせ…ぇっ…!」
こんなに、近くに居るのに。
吐息も、何もかもすぐここにあって。
確かに、今私に触れてくれているのは――…彼に間違いないのに。
「や…っ…!」
なのに、どうしてだろう。
…どうして……こんなに辛いんだろう。
寂しくて、不安で――…恐くて。
どうしようもなく、いたたまれない。
涙が、浮かぶ。
「やあっ…!ま…って…!先生っ…!」
……どうして…?
なんで、彼が触れてくれているのに、『やめて』とか『嫌だ』なんてマイナスな言葉しか浮かばないの?
…恐い。
先生じゃ、ないみたい。
……先生じゃ――…
「っ…や…!せんせっ…い……や…!…やだっ…!!」
瞳を閉じると同時に、ぼろっと、涙が零れた。
嫌じゃないのに。
恐くないのに。
……大好きな人なのに。
「やだ…っ……先生……やだ…ぁ…!」
ぎゅっと彼に抱きついたままで呟いた言葉は、涙交じりで、上手く声が出なかった。
…嫌だ。
彼に、こんな事しか出来ない自分が。
嫌じゃないのに。
……嫌なんかじゃ…。
「…祐恭さん……!……もぅ…っ…やめて…」
搾り出した声が震えなかった事だけが、唯一の救いのように思えた。


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