「あ・・・れ?」
確かに、こっちだと思ったのに。
そんな言葉を呟きながら、沙都(さと)はひとり、祭りの喧騒から離れた場所にいた。紺地に深みのある赤い花が染め抜かれた浴衣にひとつにまとめた長い髪は、どう見ても夏祭りの装いだ。遠くに聞こえていたはずの囃し声も今は聞こえなくなっていた。さっきまで辺りを照らしていた月も、今は薄雲に隠れてしまっている。
(迷ったのかな・・・)
一緒に来ていた従兄弟とはぐれて探し回っているうちに、こんなところに来てしまったのだ。おそらく、神社であろうこの敷地内には人影は見えなくて、心細い気持ちになる。こんな時に限って、携帯の充電は切れるし・・・。年に一度、お盆の時しか訪れることのないこの母の故郷では、土地感はないに等しい。
帰らなきゃ。そう思って踵を返そうとした沙都の頬を、不意に緩やかな風が撫でていった。惹きつけられるように木の生い茂った林に足を踏み入れると、目の前に小さな小川が現れた。
数メートルの幅もないであろうその小さな流れは見たこともないくらい澄んでいて、沙都は思わず自分が迷い込んでいることも忘れて小川の側に駆け寄った。
小川のほとりにしゃがみ込んで手を差し入れてみると、信じられないほど冷たい水が手のひらを濡らしていく。
「・・・ちょっとぐらい、いいよね」
近くに、手頃な石を見つけて、沙都はそこに腰掛けた。浴衣の裾を膝まで捲り上げて、履き慣れない下駄を脱ぐ。透明な流れに素足を浸すと、少し鼻緒ずれの出来ていた足に冷たい水が心地良い。
「気持ちいー・・・」
沙都は、まるで子どものように足で水を弾かせて、飛沫が飛ぶのを楽しんだ。
ガサッ!
突然聞こえた葉擦れの音に、沙都は体を強張らせた。はしゃいでいた気持ちが一気に冷め、心細さが蘇ってくる。
「・・・誰かいるの?」
音のしたほうに小声で問い掛けると、ガサガサと葉っぱを踏み分ける音がして、近くの枝にかかる手が見えた。
「何や・・・今日は先客がおるんか」
現れたのは、同い年くらいの男の子だった。黒い髪に印象的な強い瞳、浴衣を着ているわけでもなく、Tシャツにジーンズという、ごく普通の格好。
「あんた・・・ええ格好やなあ」
いきなり現れた人影に硬直したままだった沙都を見やって、少年はにやりと笑った。視線の先には、沙都の肌蹴た浴衣。沙都は慌てて裾を直すと、下駄を履いていないのも忘れてその場に立とうとした。
「あっ!」
その途端、小川の中に転がる石に足を取られて、バランスを崩してしまう。何もないはずの空中に支えを求めて手を伸ばすと、いつの間にか側に来ていた少年に助けられていた。
「・・・ったく・・・危なっかしいなあ。大丈夫か?」
「あ・・・ありがとう・・・」
少年に体を支えられたままで、沙都は顔を赤くして呟いた。さっきから失態続きで、少年の顔を見るのもはずかしい。
「あー・・・あんた、この辺の人やないんやな。通りで、見たことない顔やわ」
沙都を水辺から上がらせながら、彼は言った。話し言葉のアクセントの違いに気付いたらしい。
「他所もんが、何でこんなところにおるん?」
足場の良いところに立たせてもらい、沙都はようやく少年から体を離した。側に立ってみると意外に身長差があり、少し見上げる形になる。
「お祭りに来てたんだけど、迷っちゃって・・・」
「迷うって、こんな外れまでか?あんた、よっぽど方向感覚ないんやなあ」
沙都の答えに呆れたように少年は笑う。その笑顔と、耳に馴染むこの地方独特の話し方に、沙都は少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
「あんた、名前は?」
「え?」
唐突にそう聞かれ、沙都は思わず聞き返していた。
「なーまーえ。何てゆうん?」
「・・・沙都」
「沙都、ね。ま、ここで会ったんも何かの縁や。ちょっと付き合え」
「付き合うって・・・どこに?」
そう言って歩き出した彼の背中を、沙都は慌てて追いかける。彼はしっかりとした足取りで小川に沿って、上流へと向かっていく。
「わっ」
履き慣れない下駄であることに加えて、都会育ちの沙都は川辺を歩くのに慣れていない。何度かバランスを崩しかけた沙都を見て、少年はしょうがない、というふうにため息をついて、沙都の手を取った。
「えっ、えええ?」
突然のことに体を強張らせて彼を見つめると、
「あーうるさい。中学生でもあるまいし、こんくらいで騒ぐな。お前のスピードじゃ夜が明けるわ」
憎まれ口を叩きながら、半歩前を、沙都の手を引きながら歩いていく。視線を合わせない彼の耳元が、暗闇の中でも心なしか赤いような気がして、沙都は何故だか幸せな気分になる。
「ねえ、そっちの名前。何て言うの?」
手を引かれて歩きながら、そう言えば名前を聞いていないことを思い出して沙都が尋ねる。
「俺か?壱(いち)や」
「壱くん・・・?」
珍しい名前だね、と返した沙都に、
「壱!気持ち悪いから『くん』はなし」
と、本当に嫌そう顔をしかめて、沙都をたしなめた。壱の子どもっぽい物言いに、沙都はおかしくなって小さく笑い声をたてる。
「・・・何笑っとんねん」
「何でもないー。ねえ、壱・・・は年いくつ?」
「18」
「えっ、一コ下!?」
思いもよらない答えに、沙都は驚いて声を上げた。絶対に、自分より年上だと思っていたのに。意外そうな顔をして壱を見ると、壱も驚いた顔をして沙都を見ていた。
「お前、年上?見えへんなー」
「!ちょっと、どういう意味!?壱だって、老けてるくせに」
「老け・・・!おいコラ沙都、そっちこそどういう意味や!」
「そのまんまー」
「・・・。もうええわ、行くぞ」
くすくすと笑って壱に言い返すと、彼は呆れたようにため息をついて、また前へと歩き出した。
「ねえ、じゃあ高校3年生?」
「あー・・・高校は行ってへん」
何気なく聞いた沙都に、壱はそう答えた。ごく普通に義務教育を終え高校へ進み、今年から大学に進学した沙都にとって、壱の答えはかなり意外なものだった。
「そう・・・なんだ」
その他になんと言っていいかわからず、沙都はそんなふうに返す。家庭の事情?どっか体が悪いとか?そんな考えが頭の中で渦巻いて、しかしどう尋ねていいか分からない。
黙りこくる沙都がよっぽど複雑そうな顔をしていたのか、壱が沙都を振り返って少し苦笑した。
「お前なー・・・色々考えすぎ。てゆうか聞きたいことがあるなら言えや」
「あ、うーんと・・・何で高校行ってないの?」
尋ねてしまってから、沙都は自分が嫌になった。もう少しマシな聞き方があったはずなのに。
「・・・内緒」
沙都の質問にしばらく沈黙したあと、壱はそれだけを口にした。
「聞けって言ったの、壱のほうなのにー」
壱の短い答えに不満そうに声をあげると、壱はおかしそうに声を出して笑った。
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