ツキアカリ。

それから、5分ほど小高い丘を登って行き、もう少しで頂上というところで、急に壱が立ち止まった。目の前でいきなり立ち止まられたので、沙都は壱の背中にぶつかってしまう。
「わっ」
「あーごめんごめん。沙都、ちょっと目、つぶって?」
「え?」
こちらを振り返って突拍子もなくそんなことを言うので、沙都は目をしばたいてきょとんとした顔をする。
「だーかーら。目ぇつぶって」
悪戯っぽい笑顔でそう言う壱に、沙都はしぶしぶ目を閉じる。
「これでいいの・・・?」
「そうそう。ゆっくり・・・こっち」
手を引かれたまま、壱がゆっくりと歩き出す。そのまま、10歩ほど歩いただろうか。冷たい風が通り抜け、少し拓けた場所に来たのを感じた。

「・・・目、開けてみ?」
壱にそう言われて静かに瞳を開けると、そこには初めて見る光景が広がっていた。
「う・・・わあ・・・!」
見たこともないような光だった。少し緑がかった、淡い、それでいて力強い光は、あたり一面に散らばっている。
「・・・蛍?」
「そ。この時期しか見られへんのやで。お前ラッキーやなあ」
壱に手を引かれ、近くにある大きめの石に腰を降ろす。沙都の場所を作ってくれる壱に、ありがとう、と小さく呟いて、隣りに腰掛けた。
どこか切ないような、幻想的な風景に心を奪われ、沙都は何も言えず、ただその光を眺めていた。薄闇の中、蛍が白い光の線を描いている。点いたり、消えたり、ゆったりとした動きが空間を支配してゆく。


どれほどの間そうしていただろうか?目の前を飛び交っている光が少しずつ減り始めた。
「そろそろ、休む時間なんや、蛍も」
不思議そうな顔をする沙都に、壱はそう説明する。
「・・・ありがとう。ここに連れて来てくれて」
沙都は、壱の顔を見上げて、笑顔を浮かべると、壱がむくれたような顔をして視線を逸らした。
「・・・迷子になって可哀想やから、連れて来たっただけや」
憎まれ口を叩く壱が何だか可愛くて、沙都はますます笑みを濃くする。

「そろそろ・・・行くか」
ぽつりとそう言った壱の言葉に、沙都は弾かれたように彼を見上げた。
「・・・そんな顔すんなや」
一緒に過ごした時間が、名残惜しくて。表情に、帰りたくない気持ちが出てしまっていたのかもしれない。切なげな沙都の顔を見て、少し困ったように壱がそう言う。
「帰したく・・・なくなるやんか」
そう呟いた壱の視線が、真っ直ぐに沙都を見ていて、沙都は動けなくなってしまう。壱の手がが、沙都の頬に触れる。どちらともなく、静かに唇が合わせられる。触れるだけの、キス。

小川のせせらぎの音も虫の声も、さっきまで聞こえていたはずの音が何もかも聞こえなくなった。ぴん、と一本線が張ったような、静寂。それが、2人の体が離れていくにつれて、少しずつ破られてゆく。


「・・・帰るか」
周囲の音が返ってきたころ、壱が沙都の手を取ってぽつりと言った。壱は何も言わず、沙都も何も聞かない。お互いに発する言葉もなく、ただ2人の握り締めた手のひらだけが熱を持って、存在を主張している。

もと居た場所まで戻ってくるのに、そう時間はかからなかった。小川のほとりの林を抜け、神社の境内が見えるところまで並んで歩く。
「あの道・・・真っ直ぐ行けば、大通りに出られるから」
心なしかそっけなく言う壱に、沙都は無言で頷く。

沙都は、ついさっき会ったばかりの少年に惹かれていることに気付き始めていた。離れたく、ない。でも、それを言ってどうなるというんだろう?自分は、ここの人間ではない・・・あと2日もすれば、ここからいなくなってしまうのに。

「だーかーらー・・・言いたいことは言えって、ゆったやろ?」
下を向いて壱の手を握り締めたままだった沙都を見て、彼がふっと笑った。不意に手を引かれ、壱の腕の中にすっぽりと沙都の体が収まった。
「お前、俺が好きやろ」
「いいい壱?」
「・・・好きか?」
笑みを消して、真剣な顔でこちらを見つめてくる壱に、沙都は顔を赤くして、こくりと頷いた。
「・・・すき」
沙都がそう呟くと、壱は切なげな笑顔を見せて、沙都にもう一度唇を寄せた。最初は触れるだけだったキスが、少しずつ深いものに変わってゆく。

静かに、それでも名残惜しそうに沙都の唇を開放すると、壱はもう一度沙都を腕の中に抱きしめた。
「壱・・・は?壱は、私のこと好き?」
震える小さな声で、沙都がそう問い掛ける。
そうだ、と。そう言ってしまえたらどんなにいいだろう。愛しいこの人を、安心させてあげられたら。

「・・・内緒」
沙都の頬を両手で捕まえ、壱はそれだけを、ポツリと呟いた。途端に、沙都の瞳に涙が浮かび始める。
「い・・・っ壱はずるいよ・・・!そればっかりで・・・何にも教えてくれない・・・!!」
泣きじゃくる沙都の涙を拭ってやりながら、壱は何も言わずに居た。沙都は、ただただ涙を流すしか出来なかった。頬を、熱い涙が伝う。それを拭う壱の指が温かくて、優しくて、沙都は彼が分からなくなる。

やっと沙都が落ち着いたころ、壱はもう一度沙都をきつく抱きしめた。
「今は・・・約束は、できへん。でも・・・でもいつか絶対、また会えるから・・・」
抱きしめられた耳元で、そう囁く声。その言葉に、止ったはずの涙がまた溢れてくる。
そんな沙都を辛そうに見つめて、壱は最後のキスを落とした。

ゆっくりと、離れていく体。最後に沙都の頬に静かに触れると、壱は沙都の目の前から姿を消した―――。

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