「…また冬馬先生のトコかよ…」
「だって、もうすぐ受験なんだもん…」
「それはそうだけどさぁ」
物凄く不機嫌そうなのは、化学教師の瀬尋祐恭。
教え子である瀬那羽織を前に、瞳を細めてやたら嫌そうな顔を見せていた。
放課後の部活前。
こうして準備室にやってきたのだが、やはりいい顔はしてくれそうに無かった。
彼自身、別に羽織が他の教師とどうかなるという風には思っていないものの、相手が独身となるといい気はしない。
それが、ついつい顔に出てしまった。
頬杖をつきながら椅子に座ったままの彼に、羽織は小さく眉を寄せた。
「…もぅ。今夜先生の所に行かないって言ってる訳じゃないんですから…」
「そうだけど。……冬馬先生かぁ…」
彼が気にしているのは、美術教師の冬馬瞬(とうま しゅん)
年は彼より7つ上の31歳で、なかなかしっかりした体格の持ち主。
物腰柔らかで、祐恭とは少しタイプの違っている雰囲気でもあった。
一度社会に出てから教師として採用された、いわゆる『社会人教師』というもの。
ここ冬瀬女子高等学校ではいち早くその制度を取り入れ、特別免許状という形で中途採用されたのだ。
変化の激しい現代社会の背景を知っている事で、生徒達にも多くの影響を与える事が出来る人物。
一般の教員ではカバー出来ない分野の知識や指導を任されるという、結構重要なポストだったりする。
そういう意味では、彼は適任だと思う。
他の教員に無いようなしっかりとした知識や一般常識はもちろん、学校教育という限られた枠を取り崩してくれるような人物だからだ。
穏やかそうな外見に比べて、結構中身は厳しい。
…というのが、祐恭の見解。
彼とは車関係について、飲み会などで話した事がある。
その時に色々な話を聞く事が出来、結構好感を持ったのだ。
……が。
「……すぐ帰って来るように」
「…?どうして?」
「いや、色々と…あるんだって」
「何がですか?」
「……まぁ、色々…」
「もぅ。色々じゃ判ら無いでしょっ」
何やら口ごもる祐恭にため息をついて呟いてから、時計に視線が向いた。
「あ。じゃあ、そろそろ私行きますね」
「え?…あー、うん」
名残惜しいものの、確かに時間が迫っているといえばそうであるし…。
とりあえず、何事もない事を信じて彼女を美術室へを見送る事にした。
だが、やはり、一抹の不安は残るわけで……。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
瞬自身は、いい人間だと思う。
しっかりしているし、教養も一般常識もしっかりと身につけている。
……なのだが…。
いかんせん、自分と同じ匂いがする部分があるのだ。
言うなれば、あっち方面とでもしておこう。
同じ、責め気質。
似ている人間は、直感で分かる。
彼と話をした時にそう感じたためか、若干心配ではあった。
…でもまぁ、学校だし。
ため息をついてから、そう纏める事にした。
でないと、美術室に行きそうだったから……というのが、本音だが。

「瀬那先輩の絵って、なんか…こー…ほわほわしてますよね」
「え?…そうかなぁ」
「うん。何ていうんだろう…癒し?」
「あはは。ありがとー、千春ちゃん」
普段通りにキャンバスの前に座り、黙々と作業を進めていく。
といっても、羽織は油絵ではなく水彩。
アクリルガッシュを使っての、静物画や風景を主に描いていた。
今描いている絵も、やはり風景。
夏休みに化学部の面々と合宿で行った、あの忍野八海の絵を描いているのだ。
祐恭がデジカメで撮った写真を数枚貰い、それを元に描き起こしている。
そんな彼女の隣に椅子を引いて座ったのは、1つ下の森野千春(もりの ちはる)
彼女は羽織とは違い、れっきとした美術部員の一人だ。
くりっとした大きな瞳と、さらりとした癖の無いミドルショートの髪は、いつもながら柔らかそうでつい目が行く。
屈託無く笑う彼女は、同性の羽織が見てもやっぱり可愛かった。
性格もさばさばしているし、年下というよりはどちらかというと年上なんじゃないかとさえ思える。
しっかりしているし、物事に対してはっきりしているし。
竹を割ったような性格。
そのせいか、やけに親しみが持てた。
彼女は彼女で、羽織を結構慕ってくれている。
美術室に来る度に、あれこれ色々な話を聞かせてくれていた。
広いながらも、あれこれ画材がある為に割と手狭な美術室。
部員達も思い思いの場所で描いている為、結構な人数が居る割には、それ程気になる事も無かった。
「…先輩って…彼氏とか居るんですか?」
「え!?」

ぐにょ

「うわっ!」
「わぁ!?ご、ごめんなさいっ」
パレットに絵の具を出そうとしていた時にそんな話をされ、思わず目一杯出してしまった。
「こっちこそ、ごめんね!気にしないでー」
申し訳無さそうに眉を寄せた千春に慌てて手を振ってから、戻せるだけ戻してみる事にした。
…とはいえ、さすがにそう易々と絵の具が元に収まってくれるはずも無い。
「…すみません、変な事聞いて」
「ううん、平気。それにほら、この色多く使うから」
あはは、と声を上げて千春に笑いかけると、少し彼女の表情も和らいでくれた。
それを見て少し安心してからキャップを閉めると、俯き加減に小さく続ける。
「……一応は…うん」
「あー、やっぱりですか」
「…やっぱり?」
「うん。だって、先輩可愛いし…なんか、男の匂いがするって言うか…」
「ち、千春ちゃんっ!」
「あはは、ごめんなさい」
頬を染めて彼女を見ると、くすくす笑いながら首を振った。
…相変わらず、ずばっと突いてくる。
自分ではそんな風に振舞っているつもりが無いせいか、やけにドキリとさせられた。
「…そういう、千春ちゃんはどうなの?」
「え?居ないですよー。好きな人止まりっていうか…」
「そうなの?そういう千春ちゃんこそ、モテそうな感じだけど…」
「もー、やだなー。私そんなに軽く見えます?」
「あ、ううんっ。そう言う意味じゃなくて…」
慌てて手と首を振ると、苦笑を浮かべながら笑われた。
「だって、千春ちゃん可愛いし…それに、積極的でしょ?だから、羨ましいし…」
「…羨ましいって…私がですか?」
「うん。…私、結構思いとどまっちゃうって言うか…」
「…あー、そんな感じしますね」
「でしょ?だから……ずっと恋愛もうまく行かなくて…。やっと、ちゃんと自分に正直になれた人に会えたっていうか…」
頬を染めて呟くと、にまにまとした笑みを向けられる。
慌てて気付いて彼女を見るものの、ちょっと遅かった。
「もぉー、先輩ノロけ過ぎー」
「ち、違うのっ!だから、そう言うんじゃなくて――」
「…二人とも、手が動いてないみたいだけど?」
「「うわぁっ!?」」
慌てて振り返ると、そこには顧問の瞬が立っていた。
少し呆れたように苦笑を浮かべている。
「え、えと……あの…」
しどろもどろに彼を見ていると、千春が思い立ったように彼に尋ねた。
「先生は、彼女とか…居ないんですか?」
「え?僕?」
意外そうな顔で机に腰掛けると、苦笑を浮かべて首を軽く振った。
「居ないよ、今は」
「じゃあ、前までは居たの?」
「んー、まぁ、ね。これでも一応男ですから」
千春に笑いながら呟くと、考え込んでいた彼女がふと口を開いた。
「……先生、年下とかに興味無いんですか?」
「…年下?」
「うん。…例えば、女子高生とか」
思わず羽織も言葉が出なかった。
なぜならば、その時の彼女の目が真剣だったから。
いつもの彼女らしい悪戯っぽい物は無く、そこには真剣に彼に対して聞いている彼女が居た。
真っ直ぐな瞳を受けて瞬も口を結ぶと、暫くしてから自嘲気味に小さく笑う。
「…まさか。僕はもう31だよ?そんなヤツに、若い子が本気で――」
「31じゃ、まだまだですよ!!…ねぇ、先輩!?」
「えっ!?あ、うんっ。そうですよ、先生。それに、先生歳よりずっと若く見えるし」
「…そうかな?」
「そうなのっ!それに、そんな風に言ってたら、本当に相手にされなくなっちゃいますよ!」
千春がぶんぶんと首を振ると、少し瞳を丸くして瞬が彼女を見つめた。
「…あ」
それに気付いて慌てて椅子に座ると、ひらひらと手を振る。
「…つ、続き描きます」
「……あ、うん」
慌てて彼に背を向けると、千春が自分のキャンバスの前に戻っていく。
羽織と視線が合ったものの、苦笑を浮かべて小さく首を傾げるだけだった。
この時はまだ、まさか自分がそんな立場になるなんて思っても居なかった。
まさか、悩まされる相手が、自分の教え子になるなどとは。

「好きなんです」
「……え?」
部活が終わった放課後。
時間は既に6時近くになっていた。
秋という季節柄、この時間には殆ど日が沈んでいる。
かくいう美術室も、煌々と灯りを付けての作業だった。
とはいえ、やはり日の光の下で無いと本当の色というものは乗ってくれない。
だからこそ、蛍光灯の下での作業はしない事になっていた。
…のだが…。
先程まで羽織と話しこんでいた、千春。
そんな二人に帰るように告げたのは、ほんの少し前の事だった。
「先生、お疲れ様でしたー」
「あ、お疲れ様ー。気をつけてね」
「はぁい」
羽織に笑みを浮かべて見送ると、千春も同じように帰り支度を進めていた。
いつもと同じ作業。
絵の具がついてしまった白衣を脱いで自分も帰り支度を整えると、最後に残っていた千春に声をかけた。
「もう遅いし、気をつけてね」
「あ、はい」
窓の戸締りを確認してから振り返ると、まだそこに彼女の姿があった。
「ん?何か用事?」
「……あの…」
笑みを見せて彼女に尋ねると、一瞬視線を外してから真剣な眼差しを見せられたのだ。
…そして、あの言葉。
周りに部員はおらず、美術室に二人きりという状況。
そんな中で、教え子である14歳も年下の千春から、いきなり告白されてしまった。
「……えーと…」
思わず何が起きたのか分からずに居ると、眉を寄せて彼女が鞄を抱きしめた。
「…ダメですか?」
「……いや、あの、ダメとかそういう問題じゃなくて…」
しどろもどろに呟くものの、彼女の真剣な眼差しに変わりは無い。
……どうして?
なぜ、自分に?
様々な疑問が頭の中をぐるぐると巡り、正常な判断が出来ない状態だった。
ただ、1つ。
それだけは、彼女に言える事。
一度瞳を閉じて小さくため息をついてから、真っ直ぐな彼女の瞳に向き直る。
「……ごめん」
ぽつりと漏れた言葉。
何気なく言ったのかもしれない。
だが、彼女は心底傷ついたような…そんな顔を見せていた。
「…どうしてですか?……私が教え子だから?」
何も居えずに黙っていると、再び彼女が口を開く。
「好きな人…が居るとか…?」
「…いや…そういう訳じゃないけど…」
「じゃあ、どうして!?」
あまりにも積極的な言葉。
ダイレクトに当たってきた彼女が、とても眩しかった。
…若さ、って言うのかな。
ふとそんな事を考えていると、彼女の顔が目の前にあった。
「わっ!?」
「…私…諦めませんから」
「……え?」
「先生の事っ…そんな簡単に好きになった訳じゃないもん」
小さく呟くと、くるっと背中を向けてそのままパタパタと小走りで駆けていった。
思わず、力が抜ける。
…どうして?
なぜ、14も年上の自分に?
自分のどこに惹かれたのか、それが思い当たらない。
これまで何人もの女性と付き合った事はある。
だが、それなりに年も近かったし、大人の付き合いというものであった。
それが、いきなり14も年下の、しかも女子高生に告白された。
この31年間生きてきて、初めての事。
……だが、どうしても信じ切る事が出来なかった。
「…まさか…ね」
自嘲気味に小さく笑うと、自分も美術室を後にする事にした。
一時の気の迷い。
あの年頃の子には、良くある話ってヤツだ。
年上の…特に、男性教師に憧れを抱くというもの。
本気じゃない。
頭の中では、そう整理をしていた。
きっと明日になれば、彼女もさっぱりしていると思う。
あんな若い子が、こんな年上の自分に本気になるはずは無い。
…恐らく、興味本位。
そう片付けてから、鍵を閉めて家路へと向かう事にした。

「食べて下さいっ」
「……え…?」
次の日の昼休み。
購買へ昼食を買いに行こうとしていた所で、千春が飛び込むように準備室に入ってきた。
………えぇ?
思わず自問自答。
まさか、本気…とか…?
少し驚いて彼女を見ていると、照れたように頬を染めて可愛く笑った。
「私が作ったんですよ?味は…保障出来ないですけど…」
「…いや…あの…」
「はい?」
「……どうして?」
「え?どうしてって?」
「だから…あの、なんで…お弁当なんて…」
しどろもどろに呟くと、くすっと笑ってそれを机に置いた。
「言ったじゃないですか。諦めたわけじゃないって」
「……本気なの?」
思わず聞き返すと、一瞬瞳を丸くしてからきっと睨まれてしまった。
「本気です!!先生に振り向いて貰えるまで、私、諦めませんから!」
ばん、と机を叩くと、小さく声を上げて姿勢を直す。
「…ともかくっ。食べて下さいね!」
「……あ…ありがとう」
迫力に負けて軽く頭を下げると、心底嬉しそうな笑みを見せた。
……うわぁ…。
「じゃあ、失礼します」
にっと笑って準備室を出て行くと、パタパタと元気そうな足音が遠ざかっていく。
手元には、彼女の手作り弁当。
……現実…だよなぁ。
まじまじとそれを見ていると、彼女の笑顔が思い浮かんだ。
…本気…なのかな。
ヤバい。
はっきり言って、少し焦っている自分が居る。
彼女の笑みは魅力的だし、何より……可愛かった。
口元に手を当てて小さくため息を漏らすと、やけに自分がドキドキしているのに気付く。
「……まさか…」
本気じゃないよな。
……それとも…?
ごちゃごちゃしてしまいそうな頭を軽く振ると、手を合わせてから早速彼女特製の弁当に箸をつけることにした。
可愛らしい弁当包みを開けると、中からは二段の弁当箱が出てきた。
「…弁当なんて久しぶりだなぁ」
しみじみと思い起こすと、本当に手作り物など食べていない事に気付く。
手作り。
それが、なんだか無性に嬉しかった。
「…うわ」
ぱかっと蓋を開けると、上の段にはきっちりと詰められた色鮮やかなおかず、下の段には丁寧に詰められたご飯が、それぞれ入っていた。
まじまじとそれを見つめていると、口が開いてしまう。
「…凄いなぁ…」
まさか、こんな弁当を彼女が作るとは思いもしなかっただけに、つい笑みが漏れた。
早速一口食べると、普通に美味しい。
普段は外食ばかりなので、これは嬉しかった。
「…本気……なのかも」
彼女の態度。
それは、こんな風に、無意識に言葉が漏れてしまうほどだった。
――…その後も、頻繁に彼女は弁当を作ってくるようになった。
ある時はサンドイッチ、ある時はおにぎり…。
バリエーションに富んだおかずも、いつしか楽しみにするようになっていた。
感想を毎回聞かれるのだが、その度にころころと表情を良く変える。
嬉しそうに笑い、時には悪戯っぽい顔を見せ…。
それは、彼女の心の底からの物だという事を、まざまざと実感させられるには十分な要因になっていた。

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