「でもさ、やっぱ……家には帰ったほうがいいんじゃないのか?」
「っ……ヒロ!?」
 ようやく、落ち着いたとき。
 シンとした沈黙を破ったのは、そんなヒロの声だった。
「ちょっと!!何言ってるのよ!」
「いや、でもさ。やっぱ……こういうのは、本人同士で話し合わなきゃ、意味ねーだろ?」
「それは……っ……でも……!」
「花菜ちゃんだって、それはわかってるんじゃないのか?」
 頬杖を付いたヒロが、まっすぐに花菜を見つめた。
 ……花菜。
 その表情は暗くて、だけど……確かに、思いつめてるようにも見えた。
 ――……そのとき。
「っ……!?」
 いきなり、部屋に響いたチャイム。
 まったく予期してなかったことだけに、思わず花菜と反応していた。
「お客だぞ」
「……え……? っ……ちょ、ヒロ!?」
 だけど、ただひとり。
 ヒロだけはまるで……そのことを知っていたかのようで。
 大して慌てた様子も見せずに、ゆっくりと玄関へ向かった。
「ちょっと! ヒロ!!」
 その様子があまりにも自然すぎて、だからこそ腑に落ちない部分が沢山ある。
 ……だけど。
 その『お客』とやらを招き入れたヒロが戻って来た瞬間、さらに瞳が丸くなった。

「んなっ……! な……りみや……!?」

 驚愕とはまさにこのこと。
 昼間見たときと同じ、スーツにネクタイを締めている彼。
 それは間違いなく、ウチの学校の英語教師、成宮その人に違いなかった。
「な……えっ……!? なんで!? なんでアンタがっ……アンタが、ウチに……!!」
 ガタンっと音を立ててテーブルに足をぶつけながら立ち上がり、一歩前に出る。
 だって、彼は関係ないのに。
 だいたい、どうしてウチを知ってるワケ!?
 ――……でも。
「……っ……花菜……?」
 ただひとり。
 ……ううん。
 きっと、私だけが何も知らなかったんだと思う。
 ヒロは彼を普通に招き入れたし、それに……花菜だって、普通に見てた。
 ……普通……。
 そうとは言いきれない、どこか……そう、あのときと一緒だ。
 あの昼休みのつらそうな顔と、今の顔はまさしく同じ。
「ッ……!!」
 思わず、彼女の前に座り込んでから、振り返りざまに抱きしめる。
 知らなかったのは、私だけ。
 今の今まで涙を流しながら花菜が語っていた『許婚』というのが、この、成宮だったというのを。
「……なるほどね、アンタが……。……最っ低……! 仮にも教師のクセして、ロクでもないわね」
「高原。仮にも教師だぞ? 呼び捨てにするんじゃない」
「ッは。呼び捨てだってマシなほうよ」
 ぎゅっと花菜を抱きしめたままで、顔だけをそちらに向ける。
 心なしか震えている、彼女の身体。
 ……それがこれまでのすべてを物語っているようで、思わず唇を噛む。
「女を道具くらいにしか思ってないヤツ、外道よばわりされないだけイイと思いなさい」
 自分でもびっくりするくらい、低い声が出た。
 と同時に、改めて思う。
 ここまで人を見下げてる人間を見るのは初めてだ、って。
 ……こんなに腹が立ってやるせない気分になったのも、そう。
「つっこんで、果てるしかないクセに、よく言うわ。花菜の気持ちも身体も、全部自分の性欲満たすために食いものにしてたクセに……!!」
「……オイ、ちぃ」
「だってそうでしょう!? この人、花菜のことをずっと利用してたのよ!? 花菜の真剣な気持ち、ずっとずっと踏みにじってきたのよ……!?」
 さすがに聞き捨てならないとでもいった具合に、ヒロが眉を寄せて口を挟んだ。
 でも、私だってこれでも恋のひとつやふたつしたことある。
 本気で人を好きになって、どうしてもってすがったこともある。
 ……だから、花菜の気持ちは本当に痛いくらいわかる。
 好きな人に嫌われたくない。
 捨てられたくない。
 ……ならばいっそ――……私が我慢しよう、って。
 全部、つらいモノも何もかも受け止めよう、って。
 好きな人のため。
 どうしても一緒にいたいから、だから――……。
「……っ……」
 こっそり、ひとりきりで泣いたこともあっただろう。
 誰に心配掛けることなく、誰につらい思いさせることもなく。
 自分だけが全部背負い込んで、全部飲み込もうとした彼女。
 ……こんな細い身体なのに。
 いっぱいいっぱい、つらいことが詰まってる。
 そう思うと、いたたまれなくて、彼女を抱きしめていた腕に力がこもった。

「渡さない……!!」

「……何?」
「アンタなんかに、花菜はあげない!! っ……絶対あげないんだから!!」
 キッと改めて睨みつけ、手のひらで彼女の肩を抱く。
 途端、酷く冷たい眼差しで、彼は私を見下した。
「高原。お前に何がわかる? だいたい、何を言ってるのかわかってるのか?」
「わかってるわよ!! ……でもね、絶対許さないんだから。アンタみたいに、女を道具にしか思ってないヤツ、さいってーー!!」
「……さっきも言ってたな」
「だってそうでしょ!? ずっと、花菜の身体と心をいいように使って来ただけじゃない!!」
 まるで、呆れたような口ぶり。
 それが悔しくて、吠えるように怒鳴る。
 ……ムカツク……!
 何に対しても、冷めてるとかって言葉以上の問題。
 日頃から思ってたけど、ますます人としての大切な部分が欠落してるように思えてきた。
「一度だって、好きとか愛してるって言ってあげたことあるの?」
「…………」
「本気で思ってもないクセに、花菜をおもちゃにしないで!!」
 びりびりと、自分の声が身体に響く。
 でも、花菜だけは守らなきゃって思った。
 だって、こんなヤツとずっと一緒にいたんだよ?
 好きっていう思いが、相手に伝わらないはずないのに。
 ……それなのに……。
「許さない……!!」
 花菜は、ずっとひとりきりで耐えてきたんだ。
 ひとかけらの優しさも愛情も感じられないまま、ずっとずっと……ひとりきりで。
 誰かに話すこともできず、理解してもらうこともできず。
 いつか手に入るかもしれないシアワセを願って、毎日毎日耐えてきたんだ。
 ……あまりにも、つらすぎる現実。
 でも、これからは違う。
 今、少なくとも私とヒロがこのことを知った。
 だから、ここから変えてほしい。
 ……ううん。
 花菜のために、変えなきゃいけない。

「花菜がそう言ったのか?」

「っ……え……?」
「本人がそう言ったのか、と聞いてるんだ」
「……それは……っ……」
 しばらく黙っていたのを見て、内心、図星で声も出ないんだと思ってた。
 ……でもそんなんじゃなくて。
 改めて向けられた感情のない言葉に、言葉が詰まる。
 …………なんて冷たい人なんだろう。
 確かに、今までの言葉は私が言ったんじゃない。
 でも、花菜はこれまで反論しなかった。
 だからきっと、彼女の代弁であるに違いないって……ずっとそう思っていたのに。
 なのに、顔色ひとつ変えずに言い放つなんて。
 ……ホントに、嫌なヤツ。
「! ……ぃっ……」
「ッちょ……!?」
 つかつか歩いて来たかと思いきや、いきなり彼が花菜の腕を取った。
 しかも、その取り方。
 そこには優しさなんて微塵も感じられない、いかにも『掴んだ』というモノ。
 小さな悲鳴が耳に届いて、慌てて彼の手を掴む。
「ちょっと!! 痛がってるじゃない!!」
「……そうか? 聞こえなかったな」
「ッ……この……!!」
 さらりと言ってのけた彼を見たままで、かぁっと頭に血が上る。
 なんてヤツ、なんてヤツ、なんてヤツ……!!
 絶対に、許すわけには行かない!
「帰るぞ」
「ちょっと!! 成宮!!」
 強引に花菜を立たせ、そのまま玄関に向かおうとした彼へ、あっさり振り解かれてしまった手を再び向けよう――……とした、そのとき。
 同じようなタイミングで、花菜がその手を払った。
「……え?」
 まるで、スローモーション映像を見ているかのように、ゆっくりと物事が進む。
「……や……っ……」
「何……?」

「イヤ……っ……帰りたくない……!!」

 静寂を突き破る、大きな力を持った言葉。
 高い悲鳴にも似たその言葉は、首を振って自身をぎゅっと抱きしめた、花菜自身によるものだった。
「……花菜……?」
「や……なの……っ……! 私っ……私、もう……あそこへは帰りたくない」
 これまでずっと俯いていたのに、今はまっすぐ前を向いていて。
 華奢で、細くて、本当に小さな女の子。
 だけど、今の花菜は、彼女の目の前にいる大きな成宮なんかよりも、ずっと大きく思えた。
「夕也さん、ずっとそうだった……」
 再び訪れた静寂。
 その中で、ぽつりぽつりと花菜が言葉を紡ぐ。
 それはまるで、懺悔のようにも聞こえて。
 ……どこか悲しくて。
 でも、凛とした確かな声に違いなかった。
「私のこと、一度でも見てくれたことあった?」
「……何言って――」
「じゃあ、私が服を変えたのはいつ? 髪を切りに行ったのは?」
 途中から、涙が混じったように潤んだ声になった。
 今すぐにでも、抱き寄せて『もういい』って言ってやれればいいのに。
 そうは思うけれど、身体が動かない。
 ……今だけは、花菜にちゃんと言わせなきゃ。
 だって、これは間違いなく彼女の本音なんだから。
「ずっとそうだった……っ……! ずっと……ふたりで、一緒に買い物も行きたかった……レストランで食事して、一緒に手を繋いで歩いて……っ……!! 優しくしてほしかったのに……!!」
「……花菜……? お前、何――」
「ずっと待ってたの……! 小さいころからずっと……ずっと、夢だったの。夕也さんが、私のこと好きだって言ってくれるんじゃないかって。いつか……っ……いつか、痛くないように抱いてくれるんじゃないかって……!! 私、ずっと待ってた……!!」
 ぎゅうっと胸のあたりに両手を置いた花菜は、身体から思い切り声をあげた。
 ……想い。
 これまでの数年、ずっと彼女が押し込めて押し込めて、漏れないように必死で守った、本音。
 でも、こうじゃなきゃダメなんだよね。
 花菜は普通の女の子なんだから。
 好きな人がいて、その人のために……ずっと自分を殺して、堪えてきたけれど。
 でも、これからは違う。
 そんなの、間違ってる。
 彼女が泣きながら言ったように、これまでは間違っていたんだ。
「もう……もう、やなの……っ……」
「……花菜。お前……」
「帰りたくない……っ……あの家には、帰りたくないの……!!」
 これまで、一度だって花菜は『いやだ』と言ったことはなかった。
 それは、学校生活でも同じ。
 どんなに面倒臭くて私だったら嫌だって真っ先に言うようなことでも、花菜だけは違った。

『しょうがないよ』

 困ったように笑って、いつだって花菜は我慢してきた。
 ……我慢、なんだよ。
 花菜だってずっと、私と同じように『嫌だ』って言いたかったはずなのに。
 でも、それをしなかった。
 ……ううん。
 しなかったんじゃなくて、できなかったんだ。
 家でも学校でも、いつだって彼女に自分を出せる場所がなかったんだから。
「夕也さんと、さよならしたい……!! ……もう……もう、私はっ……もう……やなの……!!」
「……花菜……」
「もう決めたのっ……お父さんとお母さんには、ちゃんと言うから……。……家のことは……っ……ちゃんとする。約束するから……!」
「……お前、何言って……」
「だから……っ……だから、私はいらないでしょう? ウチとウチのお金が手に入れば、私はオマケだよね……!? いらないよね!?」
 ぼろぼろと流れ落ちる涙を不器用に拭いながら、なおも視線だけは外さない。
 そんな後ろ姿を見ていたら、いつの間にか自分も泣いていたのに気付いた。
 ……強い感情。
 でも、それは当然。
 自分で自分のことを『いらない』と言うなんて、どれだけつらいだろう。
 プライドなんて、あったもんじゃない。
 ……ううん。
 花菜はもう、ずっと昔から……そんなモノ持てなかったんだ。
「ごめんなさい……もう……もう二度と困らせたりしないから。……だから……ごめんなさい……っ」

 心も身体も、離してください。

 まるで懇願のように。
 泣いて泣いて泣きじゃくりながら、花菜は掠れた声で囁いた。
「……花菜……っ」
「ふぇ……ちーちゃ……っ」
 たまらず、静寂が再び訪れた部屋で私が、まず動く。
 どうしても、ひとりにしておけなかった。
 せめて私が。
 支えるって決めた私が、まずは。
 そんな思いに突き動かされて、花菜が両手で顔を覆ったのを見て、駆け寄っていた。
「……まぁ……今日のところは、ウチに泊めるんで。一晩考えてみてください」
「ヒロ……」
 次に動いたのは、ヒロ。
 ぽりぽりと頭をかいて壁にもたれながら、通る声で成宮に話しかける。
 ……よかった。
 すべてを知っていたみたいな顔だったからこそ、てっきり花菜を無理矢理出すんじゃないかと思ってたから。
 でも、違った。
 やっぱり、私の味方でいてくれた。
 ふと目が合って微笑むと、ヒロも少しだけ照れくさそうに肩をすくめた。
「彼女の言葉、嘘じゃないと思うんで」
 成宮の顔は、見てないからわからない。
 でも、雰囲気はさっきまでと……少し変わったような気もする。
「…………」
 そして、次の瞬間。
 静かに、部屋が動いた。
「……わかりました。どうぞ、よろしくお願いします」
 静かな声だった。
 それで、ふと顔だけをそちらに向ける。
「…………」
 意外。
 あんなふうにデカい口叩いたから、きっとまた何か文句のひとつやふたつ言うんだと思ったのに。
 でも彼は、深くヒロに頭を下げると、何も言わずにそのまま部屋を出て行った。
「……ったく……! 何よアイツ! 偉そうに!!」
 途端、重苦しかった空気が一気に軽くなったように感じた。
 ふぁっと身体から力が抜けて、やんわりと花菜を改めて抱き寄せる。
 ……だけど。
「…………花菜?」
「え……?」
「どしたの?」
 ふと見ると、先ほどまで泣きじゃくっていたはずの花菜が、私と同じように玄関を向いていたのに気付いた。
 しかも、その顔。
 そこには、意外そうに丸くなった瞳まである。
「そうか?」
「……は!? 何言ってんのよ、ヒロ!」
「俺には、無器用なヤツなんだなーくらいにしか映んなかったけど」
「な……」
 花菜と同じく、びっくりさせられる発言をするヤツがここにもいた。
 何を言うか、何を言うか……!!
 今の今まで繰り広げられていた死闘を、アンタは見てなかったの!?
 思わず、また頭を掻いてドアを見つめている彼に眉を寄せる。
「普通、ホントに嫌いなヤツだったら、厄介払いができてせいせいしたって思うだろ?」
「……は? ……あー……まぁ、そうかもしんないけど……。っ……でも! でも、アイツは――」
「でも彼は、お願いしますっつったんだぜ」
 ゆっくりとこちらを振り返ったヒロの顔は、少しだけ真面目で。
 ……笑ってなくて。
「意味わかるよな?」
「何が?」
「だから。今日の所は、ってことだろ? 『明日は迎えに来る』、そう聞こえなかったか?」
 少し呆れたようにため息をついた彼の言葉で、私よりも先に花菜が動いた。
「……え?」
「…………私……」
 ふと視線を落とすと、口元に手を当てて、少しだけ焦っているような……おどおどしているような。
 そんな姿が目に入る。
「……でも、花菜ちゃんは間違ってないよ」
「え?」
「よく言ってやった。……偉かったな」
 いつの間に、すぐ目の前に来たんだろう。
 まるで、小さな子どもにするのと同じように少し屈んで花菜と目の高さを合わせたヒロが、にっと笑った。
 ――……途端。
「っ……わたし……!」
「ん。よく言ったよ。ホント。すっきりした」
 ぼろぼろっとまた両の瞳から大粒の涙が溢れ、収まったはずのしゃくりが上がりだす。
 ……それを見て慌てたのは、ヒロ。
 うわっとか言いながら慌てて私と花菜とを見比べて、『どうしよう』ばかり言ってたっけ。
 …………でも。
 その日の夜、ひとつの布団で一緒に寝た花菜は、これまで私が知らなかったようなことを沢山話してくれた。
 ……だけど、その話はどれもこれも成宮に関することで。
 改めて、花菜がアイツをどれだけ好きなのかっていうのが、わかった気がした。
 でも、約束したの。
 もう無理はしない、って。
 もっと、ちゃんと自分を1番大切にする、って。
 『アイツのこと忘れられるくらいイイ男紹介するから』って言ったら、笑ってたっけ。
 ……でも、そうじゃなくちゃ。
 我侭かもしれないけれど、やっぱり花菜には笑っていてほしい。
 幸せだよ、楽しいよ、って……笑ってほしかった。
 これまでの数年間、ずっとできなかったことを。
 これからは、沢山自由にやってもらいたかった。

「ちーちゃん」
「……あ。おはよー」
 幾つ目の朝だっただろう。
 とりあえず、一緒の布団で寝たことが徐々に薄れ始めたころだったのは覚えてる。
「んー? どしたの?」
 目の前にきた花菜がやけに嬉しそうで、上機嫌で。
 もしかしたら、新しい彼氏ができたっていう報告なのかなーなんて思ったから、ぱっと笑顔になったんだけど。
 ……なんだけど。
 花菜が持って来たのは、まさに予想外な出来事だった。

「えぇ!? アイツとヨリを戻したぁ!?」

「っしーーっ!! ちっ……ちーちゃん! 声っ! ……声、おっきいよぉ……」
「……あ。ごめん」
 思わず、くわえてたチュッパチャップスを床に落っことすところだった。
 でもでも、だって!!
 まさか、そんなことになるなんて予想だにしなかったワケで!!
「っわ!?」
 弾かれたように彼女の両肩を掴んだ私の気持ちは、みんなに納得してもらえると思う。
「ちょっと! 花菜、アンタねぇっ……本気なの!? 頭大丈夫!?」
 我ながら、なんて失礼なことを言ったんだろうとは思う。
 だけどさ。
 ちょっとさ。
 とにかく……もう一度おさらいしてみる? みたいな勢いで。
 この前まで散々泣いて『もうヤダ』とか言ってた人間が、こうもコロっと変わるかっつーの!
 これはもう、絶対裏でアイツが絡んでるに違いないって、ぴぴーんと来た。
 花菜のピンチ! 超ピンチ!!
 だから、また私がひと肌でもふた肌でも脱いでやろうと決めたのだ。
「ち、違うのっ! あの……あのね? 実は――」
 慌てて私を押し留めた花菜の、顔。
 それは、やけにかわいくて、誇らしげで……ちょっぴり気恥ずかしそうで……。
 その顔を私は、これからもきっと忘れないと思う。
 ――……と同時に、成宮へ対する『どーだいいだろー』的な想いも。

 ずっとね、逆だと思ってたんだって。
 ――……逆?
 うん。私が……夕也さんを嫌ってる、って。だから、いつまで経っても私が本音を出さないんだ、って。
 抱くたびに泣きそうになってるのを見て、悔しかった……って。
 ……許嫁だから一緒に居てやってるんだって思われてたみたい。気高い、嫌な女だな……って。
 だから、いつか私が『ごめんなさい』って言うまで、続けるつもりだったって。

 昨日、夕也さん謝ってくれたんだよ。

 ――……そう言った花菜の顔は、本当に『恋してる顔』そのもので。
 ……ああ、ホントにあんなヤツだけど……花菜にとっては1番なんだな、なんて。
 ちょっとだけ、悔しくもほっとしてしまったのを覚えている。
「――……でね? 今度、おてて繋いでデートに行くんだって」
「へー」
「花菜、ホントに嬉しそうだったなぁ」
 これまでのこと、最初からひとつずつふたりでやり直すの。
 ほんのりと頬を染めて笑った花菜を見て、こっちまで頬が緩んだんだよね。
 …………。
 ……なのに、コイツは……。
「ねー、ヒロー」
「んあ?」
「今度の日曜さー、ウチらもデートしよーよー」
 珍しく新聞なんか読んじゃってるヒロのシャツを引き、ごろごろとおねだりポーズでキメてみる。
 ……だけど。
「あ、今度の週末は俺、マージャン」
「なぬっ!?」
「ワリ。先週言わなかったっけ?」
「言ってないわよ馬鹿!!」
 あっさりとどころか、ばさぁっと切り捨てられた。
 ……ああもうああもうああもーー!!
 この前は不覚にも『ヒロかっこいい』なんてときめいちゃったけど、やっぱり撤回撤回!!
 くぁー! 腹立つ!!
 私も一度どこかで、直談判ってヤツしなきゃいけないわね。
「……むー……」
 ぎゅむぎゅむとクッションを抱きしめたままで、やっぱり眉は寄った。
 ……だけど。
「……千紘?」
「あによ」
 とんとん、と新聞を揃えてから私を振り返ったヒロに、思い切りジト目を送ってやる。
 『そんな顔すんなよ』とか言われたって、こーなったのは誰のせいよ。えぇ?
 ……あーもー、直訴。
 それがダメなら、強硬。
 ごろごろとクッションを抱えたまま背を向けながら、ふんっと鼻息が漏れた。
「日曜、午前中で帰ってくるからさ」
「……だから?」
 今の私には、そんな言葉焼け石に水。
 もっともっと愛情たっぷりざっぱーんとくれないと、機嫌が直るはずがない。
 ……ま、それはヒロも当然わかってるだろうけど。
 ――……なんて思ってたら、でっかい波が来た。

「だからさ、昼にどっかで待ち合わせて……それからじゃダメか?」

「……え……?」
 思ってもなかった言葉に、一瞬どきっと胸が高鳴った。
 やっぱり……女の子というか、恋心というか。
 それを持ち合わせている女の子は、弱くて強いと思う。
 ……だよね。
 この想いはきっと、万国共通年齢問わず。
 丸くなった瞳を彼に向けたままで、にっと口元が思い切り緩んだ。

「行くっ!!」

 大きな声で、元気よく返事をしてやるために。


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