「……どうして?」
 くりっとした瞳に涙をいっぱいに溜めて、それだけを呟く。
 だが、俺はそのとき言ってやることができなかった。
「どうして、お母さん……行っちゃったの? どうして?」
「……ほら、恭ちゃん言ってたじゃん。仕事が忙しい人なんだろ? だから、ウチ待ってよう。な?」
「じゃあ、どうしてねぇねがいなかったの? お母さん、嘘ついたの?」
「っ……」
「……お父さんがいい……っお母さん、やだ……ぁ」
「大丈夫だって……! もう、大丈夫だから!」
 ぼろぼろと涙を流す姿を目の前に、どう言ってやればいいのかも、どうしてやればいいのかも浮かばず、ただただ根拠のない『大丈夫』を繰り返す。
 俺には見えない部分は多かった。
 数年後、『それまで関わってこなかった母親が突然迎えに来た』ことが発端だったと聞いて多少理解したが、当時は何が起きたのかも、どうしてこんなに泣いているのかも、俺にはわからなかった。
 一体、何が大丈夫だったのか。
 泣きじゃくるのをなだめすかし、『大丈夫』を繰り返すだけ。
 わけがわからなかった。今起きてるのがどういうことか、理解できなかった。
 ただひとつわかったのは、『俺が子どもだから、教えてもらえなかった』という悔しさ。
 小さな肩を震わせて泣き続ける彼女の頭を撫でるも、どうしていいかわからず。
 父である彼が帰ってくれば、きっと全部解決するんだと期待するしかできず、ああ俺は何もできないなと歯がゆかった。
「大丈夫だって。俺はどこにも行かないから」
「うん……うんっ」
 不安そうな顔はそのままなのに、精一杯わかろうとしてうなずく顔を見るのが、当時とてもつらかった。
 わからないのが、悔しかった。
 説明してもらえないのが、歯がゆかった。
 当時の俺はもうすでにいわゆる“高学年”に差し掛かっており、なんでもできる気でいたからこそ、『あんたは知らなくていい』というお袋の一言が、予想以上にぐさりときた。
 いとこたちの中では、俺が一番年長者で。
 世の中の仕組みを多少なりとも知っていたからか、羽織は知らないことをいくつか教えてもらった。
 が、このときの事実を知ったのは、もう何年もあとになってからで。
 当時は、なぜ泣いているのかもわからず、何が起きたのかも一切教えてもらえはしなかった。
 ただただ、繰り返し泣くばかり。
 『お母さんはどこに行ったの?』と、何度も何度もつらそうに口にしながら。
「……どうしてお母さんいないの?」
 くるりと俺を振り返った彼女が、暗闇の中で涙をいっぱいに溜めた瞳を向ける。
 ああ、まただ。
 また俺には何もしてやれない。
 暗闇の中でぼんやりと立っている姿は、今にも消えてしまいそうで。
 答えてやることができない。
 本当のことを告げて、彼女が幸せになれるとは思わないが――じゃあほかにどう言えばいいのか、なんて答えもまだ今も俺の中にはないらしい。
 あれから十数年経っているのに。
 “大人”になったはずなのに、答えを出せてやれない。
 夢か。夢……ならいいのにな、と思う。
 振り返れば夢だとわかるのに、最中の俺は気づけないまま。
 人間、体調が悪いときに見る夢は、大抵決まっているという。
 だが、俺の場合はいつもこの時期になると見ることが多かった。
 秋から冬に入る、ちょうど今と同じ季節の変わり目に。

「あー……ねむ」
 何度目かの寝返りの後起きてみると、もうすっかり昼を過ぎていた。
 リビングに降りてソファへもたれ、テレビに流れている最近の世界情勢をぼーっと見つめる。
 大統領選挙がどうだとか、戦争がどうだとか。
 あとは、海外で活躍する日本人選手とか。
 ……とはいえ、正直なところあんま興味ねぇんだよな。
 特に休みともなると、一気にそんな気持ちが強くなる。
 平日は数社の新聞を読むクセがあるものの、休日は皆無。
 つか、職場でもなけりゃ新聞わざわざ読まねぇって。
 頭だって休めないとな。たまには。
「はー……あ」
 欠伸したままテーブルから新聞を取ると、ばさぁっと音を立ててやけに分厚い広告の束が床に広がった。
「…………」
 あー……とは思うが、わざわざ身体を起こしてまでそれを拾ってやろうという、殊勝な精神は俺にない。
 何よりもまず、めんどい。
 …………。
 ……まぁいいか。
「って!? ……ぇな!」
 視線を外して新聞を読むべく広げた瞬間、いきなり頭を叩かれた。
 コン、と硬そうな音がして、自分が可哀相になる。
「あんたねぇ……いったいいくつになるのよ。ええ? もういい年なんだから、自分の始末は自分でつけなさい!」
「……あのな。だからって、おたまで殴っていいことにはなんねーだろ」
「あらっ。いけないいけない。スープ沸騰しちゃう」
 ひったくってやろうかと考えたものの、手は出さないでおく。
 触らぬ神に、なんとやら。
 余計なことして、また武器にされたんじゃたまんねーしな。
「……ったく」
 まるで、今ごろ気付いたかのように、ワザとらしくおたまを見てキッチンへ戻って行ったお袋。
 ……あれ、確実に俺を叩くために持ってきたろ。
 いいじゃん。休みの日くらい、のんびりしたって。
「あーめんどくさ」
 とは言いながらも、しっかり広告を片付ける自分がいる。
 ……あー偉い偉い。
 何してんだ、俺。
「…………あ?」
 渋々広告を片付けていたら、けたたましく家の電話が鳴った。
 ……珍しい。
 携帯電話がひとり1台で浸透してかなり経つこともあり、最近聞かなかった家電の着信音に視線は向かう。
 どうせ、マンションか墓地の案内だろ。
 そういやこないだその手の電話をお袋へ繋いだら、盛大に文句言われたっけな。
「ちょっと! アンタ、手空いてるでしょ? 電話くらい出なさいよ!」
「空いてねぇよ。すげー混みあってる」
「馬鹿なこと言ってんじゃないの! アンタはいつだって暇でしょうが!!」
「……ひでぇ」
 つーか、なんてこと言いやがる。
 我が親ながら……いや、我が親だからこそ、言っていいことと悪いことってのがあんじゃねーの。
「…………」
 だが、しかし。
 当然のように、電話の音はやまない。
「……あーもー、わーったよ」
 つか、キッチンにも子機あんだろが!
 立ち上がってから睨むものの、まったくこっちを見ていないせいか大きく空振り。
 ……ちくしょう。
 なんとなく、無性に腹が立つ。
「はい」
 受話器を取り上げ、耳に当てる。
 すると、やけにうるさいバックの音に混じりながら、声が途切れ途切れに聞こえた。
 ……うるせーな。
 電話ってのは、もっと静かな場所から――。
『もしもし』
 聞き慣れない女の声が響いた。
 意外と若そうだ……が、知り合いにはいないタイプとみた。
「どちらさん?」
 寝起きだからというより、空腹のせいで機嫌が悪い。
 丁寧語の遣い方なんぞ忘れたかのように応えると、慌てて向こうが咳払いをした。
『あの、私。……ルナ――』
 ……ルナ?
 一瞬、大きなベルみたいな音に掻き消されてわからなかったが、そこだけ拾うことができた。
 ルナ。
 ルナ……ね。
「…………」
 背後に聞こえるのは、まるで空港か駅のアナウンスのようなもの。
 “アテンション”のセリフは……どっちだ。空港か?
 とりあえず、俺の日常には入り込んでこない部分。
「あ?」
「誰?」
「ルナだって」
「え! ルナちゃん!?」
「うわ!?」
 おうむ返しに呟いたにもかかわらず、いきなり受話器をひったくられると同時に、後ろへ強く突き飛ばされた。
 な……んつー親だお前……!
 嬉々として電話に向かっているその背中にジト目を向けつつ、半ば呆れながらソファにもたれる。
 響いてくるのは、やけに楽しそうなお袋の声。
 誰? つーか、知り合いか?
 ……あんな若いねーちゃんみてぇな声なのに?
「………………」
 ま、別にいーけど。
 ため息をついてから新聞のスポーツ欄を開き、姿勢を崩しながらソファへ寝そべる。
 ……やっぱ、今日はこのままもうひと眠りってのが妥当だな。
 昨日遅かったせいか、そんなことが普通に浮かぶ。
 週末は、飲み会。
 そういう悪い習慣がついているから、タチが悪い。
 ……つっても、今さら改善する気はねーけど。
「ねえ、孝之」
「あ?」
「今日ヒマよね?」
「ヒマじゃない」
「私よりヒマでしょ?」
「さぁな。このあと、出るかもしんねぇし」
「あっそう。じゃ、出かける前に用足ししてきてちょうだい」
「……はァ?」
 電話が終わったらしく、顔を上げるとそこにはやけに怪しげな笑みを浮かべているお袋がいた。
 ……何かまた企んでるな。
 怪しい以上にゾッとするくらい嫌な予感がして、途端に眉が寄る。
「なんで俺が」
 聞かずとも、お袋がこういう顔をするときは大抵何か用事を言いつけてくる。
 それはわかっていたが、つい聞き返してやる長年の習慣はなかなか抜けないってのが、悲しいところ。
「勘弁してくれ。今日は久しぶりのオフ」
「あら。私まだ何も言ってないじゃない」
「だいたいわかるっつの。で? ……まぁ、聞くだけ聞いてやる」
「あ、そう」
 姿勢を戻してから足を組み、新聞を畳む。
 すると、やっぱり用事を丸投げしようとしていたらしく、だがしかしとんでもねーことを言い放った。

「あのね、成田まで迎えに行ってくれない?」

「…………は?」
 あ? 聞き間違えじゃねぇよな。
 今……成田とか言ったか? コイツ。
「だから、成田よ、成田。成田空港」
「聞こえてるっつの。……そーじゃなくて。は? 今から俺に成田まで車で行けと?」
「そうよ」
「っ……はぁああああ!?」
 あっけらかんと言ってのけられ、思わず新聞をぐしゃりと鷲掴む。
 いやいやいや、ちょっと待て。
 つか、むしろ正気か? こいつ。
 羽田ならまあまだわからねぇでもねーけど、成田って……ちょっとそこまでの距離じゃねーし。
「おまっ……馬鹿じゃねーの!? なんで俺がわざわざ成田まで行かなきゃなんねぇんだよ!」
「いいじゃない。どうせ暇でしょ?」
「暇じゃねぇよ!」
 そもそも、こっから成田まで何時間かかると思ってんだよ! つか、電車があンだろ、電車が!
「やーね、冷たい男。かわいい女の子が、迎えに来てほしいって言ってるのよ?」
「ふざけんなよ! なんで俺がそんな、知らない女のために――」
 ぱこんっ
「って……! だからっ! 人の頭を叩くな!!」
「知らない子じゃないでしょうが! ルナちゃんよ、ルナちゃん!! 恭介君の!」
「はぁ!? ……あ?」
 ……はた。
 恭介君って……恭介さんか?
 ウチの親父の1番下の弟で、俺の叔父貴。
 てことは。
「ルナって……葉月(はるな)か?」
「ほかにどのルナちゃんがいるのよ」
「いや、声が全然違うから――」
「当り前でしょ! ルナちゃん、もう18よ? 羽織と同い年なんだから」
「……あー、そういやそーか」
 今ごろになって、ようやく気付いた。
 お袋がアイツのことを、『ルナ』と呼んでいたのに。
「……葉月か」
 名前を口にして気づいたのは、長い間聞かない名前だなってこと。
 電話をかけてきたのは、俺の従妹にあたる瀬那 葉月(せな はるな)、らしい。
 葉月と書いて『はるな』と読む子は、なかなかほかにいねぇだろうな。
 誕生日は9月なんだが……まぁ、いろいろ理由ってヤツはある。
 ……にしても。
「へぇ。アイツ帰って来るのか」
 ふーん、と相槌を打ってから、手の中でシワ寄っていた新聞に気づき、仕方なく手で伸ばす。
 ……葉月が、ね。
 へぇ。
 ………………。
「は? ……いや、おかしくね? つか、なんで急に? てか、恭介さんはどうしたよ! あの人が、ひとりで葉月を日本へ寄越すわけねぇじゃん」
 そもそも、なんで今この時期に?
 つか、恭介さんも一緒なのか?
 だとしたら、迎えに行かざるをえない気はする……がしかし、それならそれで、恭介さんなら間違いなく冬瀬駅までくる。
 これまでも何回か迎えに行ったことはあったし、そンときはそもそも家じゃなくて俺の携帯に連絡があった。
 ……つーことは、だ。
 ひょっとしてアイツ、今ひとり……?
 って、ありえねぇな。
 アイツにとって日本はおろか、冬瀬にだって……そんなにいい思い出はないはず。
 改名してまで向こうへ渡ったのは、それなりの理由があったんだし、当然アイツだって理解してるはずだ。
 何年か前、恭介さんから直接聞いたんだから、根拠がある。
 なのに――……なんだよ。
 つい、今朝見た夢がフラッシュバックし、お袋にさんざん声をかけられていたらしいが、肩を叩かれるまで気づけなかった。
「そういえば、恭介君はどうしたのかしらね。今、ルナちゃんが言うには、なんでも明日七ヶ瀬を受けるらしいけれど。ほら。明日あるんでしょ? 入学試験」
「入試? この時期に……あー、そーいや教学課の連中がなんか言ってたな。いや、でも急すぎねーか? それに、何も今さらこっちの大学に通わなくてもいいじゃん。あっちにも大学はあンだろーし」
「そんなの、本人に聞いてみなきゃわかんないでしょ。てことだから、ひとまず迎えに行ってやってちょうだい」
「いや、だかっ……ひょっとしてお前、迎え行くっつった?」
「当たり前じゃない。電話切れちゃったもの」
「はァ!?」
 相変わらずこの親には、ほとほと呆れる。
 危うく今日の朝刊をまっぷたつに裂くところだった。
 いや……すでに4分の1はきれいに裂けたけどな。
 それにしたって、人の承諾も得ないままに、勝手に返事をすんなよ。
「……で? 何時に成田着の飛行機だって?」
「あら、今の『着いた』って電話よ?」
「はぁ!?」
 思わず、立ち上がったまま固まる。
 今着いたって……いや、そんなのどう考えたって無理に決まってんじゃねぇか。
「これからこっちまで来るんですって」
「こっちって……は? ちょっと待て。何? それじゃ俺は、成田じゃなくて冬瀬の駅でいいのか?」
「多分」
「たぶっ……あのな。アイツの携帯は? 番号控えてあんだろ?」
「ないにきまってるじゃない、そんなの」
「は!?」
「大丈夫よ。ほら、ちょちょーいっと調べれば到着時間とかわかるんでしょ? それで検索して、タイミングばっちりによろしく」
「…………」
 ちょちょいって……お前、ほんといい加減だよな。
 うっかり素で口走りそうになり、閉口。
 先日実行したとき、向こうから木ベラが飛んできたので、今日はやめておく。
「……ったく」
 にしても、葉月が帰って来るのか。
 ……ふぅん。
 …………。
 ……って、ちょっと待った。
 恭介さんからはまだ、帰国云々って話は聞いちゃいない。
 てことは恐らく、オーストラリアから日本へ戻る目処は立ってないんじゃねぇの?
 仕事がどうのなんて話は聞いてないし、あの人の性格からして、何も言わずに戻ってくるようなタチでもない。
 ……ってことは、だ。
 もしかして……アイツ、恭介さんに今回のこと話してねぇんじゃねーの?
「っ……」
 だとしたら最悪だ。
 今ごろ向こうが大騒ぎになってる気がする。
 それこそ、誘拐だのなんだのって警察沙汰になってるんじゃ……。
 だがしかし、俺が勝手に連絡とっていいものか、迷うといえば迷うわけで。
 つーのは、葉月がなんでこっちへ来たのか、その真意をまだ確かめていないから。
 アイツなりに何か困ったことがあって、勝手に飛び出してきたとしたら……どうだ。
 今恭介さんに連絡したとして、解決するのか?
 アイツの気持ちほったらかしたままで。
「……はー」
 顎に手を当てたまま、ソファへおもいきりもたれかかる。
 恭介さんが、葉月がこっちの大学を受験することは知っているのかどうか、まずはそこも大事な部分。
 勝手に決めて勝手に来たんだとしたら、大問題。
 だが――何かしら理由があるかもしれない。
 ならどうするか?
 答えはひとつ。
「……ったく」
 テーブルへ放ったままだったスマフォを取り、仕方なくルートを調べる。
 もしアイツがこっちの大学を本気で考えてるなら、羽織に黙ってるメリットはないはず。
 アイツらはなんだかんだ言って割と仲がイイからこそ、葉月だって羽織に何も言わない理由はねーんだけど。
 ……やっぱり、何かあったのか?
 昔から……つっても、俺が知ってるのはアイツと恭介さんと一緒に暮らしていた、6歳の姿まで。
 そのあと、一度だけ帰国したことはあったが、1週間もいなかったせいで、よく覚えてはいない。
 6歳だったアイツは、人一倍、人に対して気を遣っていた。
 まだ小学校にも上がっていなかったのに、いつだって周りの大人の顔色を伺って、嫌なものも『平気』と我慢して笑うことがあった。
 確実にトラウマを与えたであろう葉月の母親は、今ものうのうとした顔で生きている。

 『やられた人間は覚えてる』

 くそが。
 あの女が忘れているとしても、葉月はこれから先も……それこそ生涯背負って生きていくのにな。
「っ……」
 今朝見た夢が不意に浮かび、払うように首を振る。
 違う。
 そうじゃない。
 ……アレはもう、過去のこと。
 葉月が覚えていようがいまいが、あえて口に出すようなことじゃない。
「迎え行けばいいんだな?」
「よろしくねー」
 キッチンへ声をかけ、スマフォの予定到着時刻を確認してから、着替えるべく自室へ足を向ける。
「…………」
 階段を上ったとき、窓から見えた空はいつかの日と同じように高く澄んでいて。
 ほんの少しだけ、なんとも言えない気になった。


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