「たーくん、起きて」
 ゆさゆさ。
「……もう。寝相悪いんだから」
 いや、それは関係ねーだろ。
 ぼんやりした意識の中で、ふとそんなことが浮かぶ。
「ねぇ、たーくん。遅刻しちゃうよ?」
 とんとん。
 肩を叩かれた程度で俺が起きるわけない。
 かと思っていたら、つんつんと頬をつついてきた。
 くすぐってぇし、邪魔だ。
 ひらひら手を振ってそれを払い、眉を寄せる。
 すると、起きているのがわかったのか、葉月は小さくため息をついて『もう』とまた口にした。
「起きて? ねぇ、たーくんっ!」
「……うるせ……って、何してんだお前」
「あ、おはよう。起きた?」
「起きた、じゃねーよ。もちっと寝かせとけ」
 うっすら目を開けてみると、すぐそこに葉月がいた。
 急な反応がよほどおかしかったのか、視線を逸らして笑われたのが気に入らないが。
「朝っぱらから何してんだお前」
 あくびを噛み殺して伸びをすると、大して悪びれる様子もなく葉月は肩をすくめた。
「もう7時半だよ?」
「……し……ちじ?」
 言われた時間を頭が把握するまで少しばかり時間がかかり、しっかりと噛み砕いてから――身体が動く。
 眉を寄せたまま手を伸ばすのは、枕元に放ったスマフォ。
「うっわ!!」
「わ!?」
 がばっと跳ね起き、クロゼットからワイシャツを取り出す。
 ヤバい。
 ヤバい、ヤバい……!!
 昨日に続いて今日も遅刻じゃ、シャレんなんねーんだけど!
「っ……たーくん!」
「あ?」
「もう! 着替えるなら言って!」
 ワイシャツをベッドに放ってTシャツを脱いだ瞬間、葉月が大きな声を上げた。
 赤い顔でものすごく困った顔をされてようやく気付く……が、別によくね?
 見られたところで、なんとも思わねぇし。
「ほら。見たくないなら、出ろ!」
「わ!?」
「……ったく。時間ねーんだからよ」
 両肩を持って回れ右をさせ、廊下まで押し出す。
 ドアを閉めながら葉月を見ると、相変わらず顔を赤らめて頬に手で触れていた。
 いちいち男の着替えを見て騒ぐなってのも無理があるとは思うが、俺にとってアイツはいつまでも小さいイメージがあって。
 だから、ついその感覚で物事をなんでもやってしまう。
 いっちょ前に恥じらいってモンを覚えたか。アイツも。
 ……なんて言ったら間違いなく怒るだろうが。
「…………」
 ワイシャツにスウェットのズボンのまま、ネクタイを首に引っかけて廊下に出ると、さすがに葉月の姿はなかった。
 階下から物音がするから、多分下にいるんだろう。
「あ?」
 階段を降りてリビングに入ると、葉月がキッチンに立っている。
 それこそまるで、当たり前の仕事をこなすかのように。
「何してんの? お前」
「あ。ごはん、できてるよ」
 指差されて見ると、確かにダイニングのテーブルの上にはいくつか皿があった。
 だが、いつものようなぺらりとしたトースト1枚ではなく、置かれているのは茶碗。
 そして、納豆、味付け海苔と……ハムエッグ。
 ……なんだ。
 ここは旅館か何かか。
 普段、トーストで済まされることが多い、我が家の朝食。
 そのせいか、久しぶりに飯粒を見ただけでなく、いかにも朝食の定番メニューが並んでいるのを見ると、ものすごく凝った料理に見えてくるから不思議だ。
「すげー。お前、メシ作れるようになったんだな」
「……もう。当たり前でしょう? これまで、私がごはん作ってたんだから」
「あ、そうか」
 言われてみれば、確かにそうだ。
 向こうに行ってからは、葉月以外に家事する人間は考えられないもんな。
 とてもじゃないが、恭介さんがエプロン付けて目玉焼きを作るところすら想像できない。
「いただきます」
「ん、どうぞ」
 席へ着いて箸を手にすると、向かいに座った葉月が小さくうなずいた。
 葉月の前にも、量こそ違えど自分と同じメニュー。
 こうして揃いのメシを誰かを食うのは、なんだか久しぶりだ。
「お前も大学行くんだろ?」
「うん。一緒に乗せていってくれる?」
「ああ」
 目の前で、自分とは違う目玉焼きの食べ方をする葉月についつい目が行く。
 ……なんで、先に白身だけ外すんだよ。
 それじゃバランス悪いだろ? バランスが。
 だいたいおま――。
「……崩すのか? お前」
「え?」
「いや、黄身の話」
「うん。いつもそうだけど……だめかな?」
「いや、だめじゃねーけど」
 崩れないよう慎重に箸を進めている俺とは違い、葉月は躊躇無く目玉を潰した。
 そして、半生の黄身部分を白身に絡めて食べる。
 ……はー……。
 目玉焼きは、ホント人それぞれだな。
「あ。……もう、お行儀悪いよ?」
 食いながら新聞をちらっとめくった瞬間、眉を寄せた葉月が『めっ』と続けた。
 ……言うと思った。
 それでもやるんだから、タチは悪いかもしれない。
「悪かったな、行儀悪くて」
「わかってるなら、しなければいいのに」
「いーだろ。時間短縮!」
 くすくす笑った葉月に眉を寄せてから視線を茶碗に戻すと、ため息が漏れた。
 ウチの家系の女どもは、どいつもこいつもうるさいヤツばかりだな……。
 箸をくわえながら新聞を畳み、仕方なくメシに専念する。

「瀬尋先生は、きっとそんなことしないよ?」

 笑いながら続けられた言葉に、箸も時間も止まったかに思えた。
「…………」
「え?」
 視線を上げれば、そこにはいつもと同じ葉月の顔。
 特に何かを考えているような感じではなく、いたって普通の顔だ。
「……なんでそこに祐恭が出てくんだよ」
 視線を葉月から外して漏れた言葉。
 まさに、『漏れた』がピッタリ。
「どうしたの?」
「別に」
 どうした、じゃねーだろ。
 肩をすくめてメシの続きを食いながらも、つい昨日のことを思い出す。
 祐恭と親しげに話す、葉月のその顔。
 あの笑顔は、俺に見せる顔とは違った。
 祐恭に『好きだ』と言ったときの顔も、俺に向けているいつものモノとはまったく違って。
 ……たく。
 どいつもこいつも、祐恭祐恭言いやがって……。
 羽織だけで十分だっつの。
「たーくん? ねえ、どうしたの?」
「なんでもねーよ」
 結局、そのあとは視線が上がることはなかった。
 メシを終えて大学に行くまでの間も、ほとんど葉月の顔を見なかった気がするほど。
 そのことで怪訝そうに俺を見ていたのは目の端に捉えていたが、あえて知らない振りを装った。
 ……また祐恭の名前が出てきそうで、なんとなく嫌だったんだよ。
 子どもみてーだな、なんて言われたくない。
 これは、なってみなきゃわからない気分なんだからな。

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