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「たーくん、コーヒー飲む?」「あ? ああ」
 自室に引っ込んでゴロゴロしながら本を読んでいたら、控え目なノックのあとに葉月が姿を見せた。
 右手にはすでに、小さなトレイにマグカップが乗っている。
 「せっかく義弘君と久しぶりに会ったんでしょう? 話さなくていいの?」
 「……またヨシかよ」
 「なぁに?」
 「別に」
 カップを勧められながら出たヨシの名前に小さく反応すると、不思議そうな顔で葉月がまばたきを見せた。
 ……ったく。お前は、何もわかってねぇな。
 「おいしいでしょう?」
 「ああ」
 ベッドへもたれながら本に目を落とし、コーヒーをすする。
 羊羹とコーヒーってのも、なかなかオツだな。
 なんてことを考えながらフォークでもうひと切れつまむと、嬉しそうに葉月が続けた。
 「それね、義弘君が持って来てくれたんだよ」
 「…………」
 カチャ。
 葉月を見ず、無言でフォークを皿へ戻す。
 ……口に入れたモンはさすがに出さねーけどな。
 「どうしたの?」
 「……別に」
 飲み込んでから小さく呟き、再び本へ。
 「義弘君って、本当に絵が上手なんだね。もしかしたら家系なのかな? ほら、羽織も上手だし」
 「……そーだな」
 「それに、たーくん見た? 義弘君ね、とってもきれいな色使いするんだよ。風景だけじゃなくて、人物もとっても上手だったの」
 「……ふぅん」
 「たーくんも描いてもらったらどうかな? きっといい記念になるよ」
 「…………」
 ……くそ。
 楽しそうに続けられる葉月の声からして、恐らく浮かべているのは笑み。
 それがわかるから、なんとも言えず瞳が閉じた。
 「……はー」
 どこまで読んだか忘れた。つか、頭に全然入ってこねぇ。
 本を開いたまま床に伏せ、葉月を見る。
 俺がどうしてこういう態度になっているのか、まったくわかってなさそうな顔。
 きょとんとしてまばたきを見せているだけでなく、ヨシが持ってきた羊羹まで食べてる始末で、なおため息が漏れる。
 「あのな」
 「え?」
 「いーか。これだけは言っとく」
 「なぁに?」
 ぴ、と顔面に人差し指をさすと、訝しげに眉を寄せた。
 つーか、それを食いながら喋るな!
 もごもごと口元に手を当てたまま羊羹を食う姿が、なんともヤな感じだ。
 「義弘義弘言うなら、下にいればいいだろ。俺を構うな!」
 「……たーくん、どうしたの?」
 若干の後悔。
 よく考えれば葉月にイチイチ言う必要はなかったような。
 言ってから、『あ』って思ったんだから、こればっかりはしょーがねーだろ。
 「義弘君が嫌いなの?」
 「違う」
 「じゃあどうして怒ってるの?」
 「怒ってねーっつの」
 「怒ってるでしょう?」
 眉を寄せた葉月から視線を外し、再び本を手に取る。
 まるで怒られているみたいな気がして、なんとも居心地が悪い。
 これじゃ、俺がアイツを苛めてるみてーじゃねーか。
 「たーくん……もしかして、拗ねてるの?」
 「は!? ンなわけねーだろ!!」
 とんでもないことを言われ、思わず力いっぱい否定してしまった。
 途端、葉月が瞳を丸くしてからおかしそうに笑い出す。
 「だっ……! 別に、俺はそんなことひとことも――」
 「だって、そうでしょう? 義弘君のこと話せば怒るし。もう、たーくんってば大人げないんだから」
 「ちげーよ!!」
 心底おかしそうに笑う葉月を軽く睨んでから、背を向ける。
 ……くそ。
 断じて俺は拗ねたりしてないぞ。
 天地神明に誓って!
 「義弘君、たーくんと話したがってたよ?」
 ようやく笑い終えたらしき葉月が、声のトーンを変えて話し出した。
 ……つーか、別に俺はアイツのことを聞きたいワケでもなんでもない。
 なんて言ったら怒るだろうから、やめとくけど。
 「あっそ」
 「そんなふうに言わなくてもいいでしょう? ……私はちょっと羨ましいんだから」
 「羨ましい?」
 「うん。ほら、私ひとりっこでしょう? だから、たーくんが羨ましいの。慕ってくれる、妹や弟がいて」
 「欲しけりゃくれてやる」
 じーっと見ていたら、すんなりとそんな言葉が出た。
 途端、葉月が眉を寄せる。
 大方予想付いていたが、表情を変えたのを見たらつい鼻で笑っていた。
 「……もう。どうしてそういうこと言うの? みんな、たーくんが好きなんだよ? たーくんじゃなきゃ、だめなの。わかるでしょう?」
 「っ……」
 その言葉は、まるで先日聞かせられた葉月自身の気持ちのようで、ガラにもなく視線が釘付けになった。
 くりっとした瞳で真剣に話す葉月から視線を外さずにいると、柔らかく笑う。
 「だから、義弘君と話してあげて?」
 「断る」
 何を言い出すのかと思いきや、またヨシかよ。
 ほかのこと言えねーのか、お前。
 お袋がヨシをかわいがるのはわかるが、どうしてお前までアイツをかわいがるんだ?
 いくら弟がいないっつったって、何もアイツじゃなくたっていいだろうが。
 「相手してやればいいだろ」
 「義弘君は、たーくんと話がしたいんだよ?」
 「へえ」
 「もう。たーくん!」
 揺さぶられながらも本を見ていると、小さくため息をついてから顔を覗きこんできた。
 ……なんだよその顔。
 まるで、子どもを叱る母親みたいな顔で、目を合わせながら眉が寄る。
 「お願いだから行ってあげて」
 「だから。なんでお前がそこまで気を使うんだよ。別にいいだろ? 構ってほしけりゃ上がってくる」
 「部屋へ行っちゃったのに、自分から行けないでしょう? たーくんのお家なんだよ?」
 「あのな……いい加減、しつこいぞ。断るっつってんだろ。だいたい、アイツと話すことなんてねぇし」
 「どうしてそんなふうに冷たいの? たーくんらしくないよ?」
 「俺らしいってなんだよ」
 「いつも誰にだって優しいじゃない」
 「……は。俺は偽善者か何かか?」
 「そういう意味じゃなくて!」
 珍しく、葉月は折れようとしなかった。
 ああ言えばこう返し、こう返せばすぐに違う言葉を紡いでくる。
 その態度で、さらに瞳が細くなった。
 いわゆる、売り言葉に買い言葉。
 俺だって、余計なことを言うつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、引くに引けなかった。
 「どうしてそんなに嫌がるの? 義弘君、たーくんと会えるの楽しみにしてたのに!」
 「だから! どうして、そこまでヨシのことを気にかけんだよ。 お前にとって、アイツはそんなに大事か?」
 「大事でしょう? 素直でかわいいもの」
 「な……っ! ちょっと待て。じゃあ、何か? お前は、俺よりアイツのほうが好きだってのか?」
 パタン、と音を立てて本を閉じ、顔を近づけて葉月に人差し指を向ける。
 すると、眉を寄せた葉月が大きく首を縦に振った。
 
 「いつまでも拗ねてる誰かさんより、ずっと好きに決まってるじゃない」
 
 まっすぐな瞳で言われた言葉に、かっと頭へ血が上ったのは確か。
 つい、物の弾みで気付いたら言葉が勝手に飛び出した。
 
 「ッ……お前は、俺が好きなんじゃねぇのかよ!!」
 
 思わず出た、大きな声。
 ヘタしたら、階下にも聞こえたかもしれない。
 「っ……」
 しまった、と思ったのは葉月が口をつぐんだのを見て。
 だが、思ったところで何が変わるでもなく。
 視線を逸らすことなく目を丸くした葉月が、薄っすらと唇を開いた。
 「……どうしてそんなこと言うの……?」
 先ほどまでとは打って変わって、やけに落ち着いたトーンだった。
 穏やかで静かなのに、それがかえって心をざわつかせる。
 「それとこれとは関係ないでしょう? それに、何も……っ……何も、今さらむし返すことないじゃない……!」
 今まで合わせてた目線を下げ、軽く俯いた葉月が膝に置いた手をぎゅっと握った。
 ヤバい。
 やらかした。
 俺だって、あんなこと言うつもりなかった。
 なんつーかその……弾みというか……。
 言ってしまって後悔なんて遅すぎるとは思うが、つい、思っていたことが先に出てしまったせいで――ああ、間違いなく俺のせいだよ。
 俺が悪い。
 「……悪い」
 声が掠れたのは、正直な思いというより、喉につかえたせい。
 だが、葉月はなんとも反応せず、唇を噛んだのだけが目に入った。
 「……私、もうそんなふうに見てないから」
 「何?」
 「私が変なこと言ったせいでしょう? でも、もう違うから。だから……そんなふうに言わないで」
 きゅっと唇を結んで再び視線を上げた顔には、決意じみたものがあった。
 それでつい、こっちの眉が寄る。
 ……視線が外せなくなる。
 今、目の前のコイツから。
 
 「私、たーくんのことはもう……たくさんいる従兄のひとりとしか思ってないよ」
 
 ごめんね。だからもう、安心して。
 小さくちいさくそう続けたあとで、葉月はトレイを持って立ち上がると背を向けた。
 「…………」
 一連の所作を見てはいたものの、反応ができなかった。
 正確には、なんて声をかければいいのかがわからなかった。
 小さな音とともにドアが閉まり、身体から力が抜ける。
 ……あー、やらかした。
 怒ったというよりも、確実に傷ついたであろう反応で、無性に焦っている自分に気付く。
 どくどくと身体が脈打ち、嫌な気分が拭えないまま渇いた喉を動かす。
 声が、うまく出ない。
 痛いほどの静寂で、変な耳鳴りすら聞こえるほど。
 ……ヤバい。
 つか、今何した?
 そして――アイツは、最後になんて言った?
 今にも泣きそうな顔と声だけが、目にも脳裏にもくっきりと焼き付いて離れない。
 「……最悪」
 目を閉じて額へ手を当てると、より一層先ほどの表情が蘇る。
 人生史上最悪のことをやらかしたことだけは、免れない事実だった。
 
 
     
 
 
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