ひとつだけ。
これだけは、間違いなく言える。
それは――あのとき、俺は確実に葉月を傷つけた。
いつもと何も変わらない光景は、今日も続く。
朝メシを食って、玄関へ向かう。
いつもだったら……いや、あのまま俺がやらかさなければ、葉月が玄関まで姿を見せただろう。
だが、正月明けの出勤日以降、俺に声をかけるのは毎回お袋だけだった。
とはいえ、葉月はすでに起きて日常のルーティンはこなしているはず。
なんせ、用意されている朝食は、あきらかにお袋とは違う手の込んだものばかりだったから。
うっかり口を滑らせ、嫌な思いをさせたのはつい先日。
あのあと葉月は俺と話そうとせず……いや、それどころか目も合わせなかった。
まるでタイミングを図っているかのように、俺がリビングへ行けば姿を消し、自室へ戻ると階下で声がする。
あー、やらかした。
自分のせいだとわかっていても、あからさまな態度に面白くないと思ってるのも半分あり、自己嫌悪と身勝手な腹立たしさとでストレスフルだった。
「あら、いってらっしゃい」
「ああ」
今日は、例のことがあった週の水曜日。
あれから数日経っているにもかかわらず、案の定今日も葉月は姿を現そうとしなかった。
朝っぱらから出た重いため息を、目ざとくお袋が見つける。
「何よ、随分深刻そうな顔しちゃって」
「別に」
「あらそう? 私でよかったら、相談に乗るわよ?」
「……。断る」
一瞬、相談しようかどうか悩んだあたり、相当参ってる証拠だ。
……お袋に何を話すんだよ、俺は。
「いってくる」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「おー」
小さくため息をついてから、ドアノブを握る。
今日も、眩しいくらいのいい天気。
……それが、無性にヤな感じだと思う俺は、どうやら相当参ってるらしい。
「瀬那君、ちょっといいかな?」
「はい?」
「すまないが、ちょっと、教学課まで行ってこの書類にハンコをもらって来てほしいんだよ」
珍しく館長に呼び出されたかと思ったら、にっこりと笑みを浮かべて――随分と大量の書類を渡された。
……つーか、重そう。
束というには厚さがありすぎるそれを見てから視線を戻すと、手を組んで机に置いた。
「よろしくね?」
「……いってきます」
別に、行くのが嫌だとかそういう話じゃないんだが……まぁいい。
崩れそうになる書類を抱えながら図書館を出て、本館へ続く渡り廊下を進む。
さすがに冬休み中とあってか、人の姿はまばらだ。
おかげでともいうべきか、図書館自体も利用者はほとんどいなかった。
……レポートに追われてる学生以外は。
「お願いします」
教学課の窓口へ声をかけると、すぐに主任の女性が歩いてきた。
「瀬那君、あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「おめでとうございます。こちらこそ」
正直言って、彼女は少し苦手だ。
……それが、俺ができることならここへ来たくない理由。
「最近ねぇ、ユキの帰りが遅いのよー。なんか、新しい彼だとか紹介されたんだけどね? 私はやっぱり、瀬那君のほうがいいわぁ」
「いいじゃないすか、本人が幸せなら」
「あら、私に冷たいじゃない。だいたい、瀬那君がユキと別れてさえなかったら、あなたは今ごろ息子なのよ?」
「……はは」
手を動かしながら話し込むのは、この人の得意分野。
それは昔から変わらないが、彼女の娘と一時期付き合ってからというもの、会話の内容はすべて娘のことばかりになった。
お陰で、あっさり別れた俺にとっては非常に苦しい時間だったりする。
……勘弁してくれ。
つーか、館長は俺が彼女のこと苦手なの知っててこんな大量に仕事押し付けたんじゃないのか?
カウンターにもたれながら、ついため息が漏れる。
「あ、そうそう。そういえば、瀬那君の妹さんが入学するんですって?」
「え? いや、まだ決まってないすけど」
「あら、そうなの? てっきり『瀬那』っていう苗字だったから、瀬那君の妹だと思ったんだけど……違ったのね」
珍しく彼女が手を止めたと思いきや、そんなことを話し出した。
羽織は、確かまだ合格もらってないはず。
となると、彼女が言う『瀬那』って苗字の子ってのは――。
「従妹なら確実に入学しますけど」
「あ、そうなの? おめでとう」
「ありがとうございます」
カウンターへ腕を置いて伝えると、にっこり笑った。
だが、小さく声をあげたかと思いきや、1度奥へ引っ込む。
「……?」
何かを探しているらしく、こちらに背を向けてファイルを漁っているのが見えた。
何をしているのか声をかけようとしたら、その前に彼女が戻ってくる。
「あのね、実はこれなんだけど……。書類不備があってね。ここに訂正印をもらいたいのよ」
「そうなんすか?」
「ええ。いつでもいいんだけど、2月までに持ってきてほしいの。従妹の子に会ったら、渡してもらえるかしら?」
「わかりました」
大学の名前が入った封筒を受け取り、彼女に笑みを見せてからそれを隣へ置く。
……書類、ね。
これまでまともに喋ってすらなかっただけに、アイツが反応するかどうか怪しいが、まぁいいだろ。
これも、一種のキッカケ。
そう思い直して小さくうなずいたあとは、また彼女の娘メインの話に付き合う羽目になった。
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