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「たーくん、鷹塚先生と本当に仲いいんだね」 「どこ見たらそーなんだよ。口喧嘩の相手だろ」
 「楽しそうだったよ?」
 「ストレス解消にはなる」
 誰かと話すのも久しぶりなら、こんなふうに笑ったのも久しぶりかもな。
 そう思うくらい、ひとりで家にいるときは口を開かなかった。
 ひとり言はそこそこあったが、会話ではない。
 気分的に全然違うのは、気のせいじゃないはず。
 「んじゃ、またな」
 「上がっていったらいいのに。伯母さんも喜ぶと思うよ?」
 「いや、別に喜びゃしねーだろ」
 見慣れた我が家の外階段前へ停車し、ハザードを焚く。
 すでに誰か帰宅しているようで、キッチンと玄関に明かりがついていた。
 「どうせ、明日帰る」
 ハンドルに手を置いて小さくため息をつくと、なぜか葉月はおかしそうに笑った。
 「じゃあ、待ってるね」
 「おー」
 ベルトを外した葉月が、ドアを開けて降りた。
 そのままフロントを回って、窓越しに運転席側へ立つ。
 「たーくん、明日はお仕事?」
 「ああ。普通に定時」
 「それじゃあ、少しだけ図書館に行ってもいい?」
 「いーけど……ひとりで来るなよ?」
 「うん。夕方ごろかな? ちょっとだけ行くね」
 「ああ」
 窓を開けると、冬らしい乾いた冷たい空気が車内へ入ってきた。
 さむ。
 だが、短めのスカートにそこまで厚くないコートを羽織っただけの葉月は、まったくそんなそぶりを見せず笑みを浮かべる。
 緩やかな風が吹いて、揺れた髪を押さえるべく左手が動く。
 いつも見てきたふとした動作にもかかわらず、久しぶりだったからか目についた。
 「え?」
 「付いてる」
 ギアを抜いてサイドブレーキを引き、窓から腕を伸ばす。
 何に、じゃない。
 すぐそこに立つ、葉月へ。
 「なぁに?」
 お前、やっぱ素直だな。
 答えずに手招くと、不思議そうな顔をして両手を窓枠へ置いた。
 車内を覗くように顔を近づけたのを見て、両手で頬を引き寄せる。
 ふわりと甘い香りがして、ああそういやそんな匂いのシャンプー使ってたな、と久し振りに思った。
 「んっ……!」
 高さとして、お前にとっちゃ少し低いだろうな。
 それでも、座ったままの俺としてはなかなか悪くない。
 耳元で聞こえた反応に、頬を離さず角度を変えてさらに口づける。
 「ん、んっ……」
 ああなるほど、よくわかった。
 この声をほかのヤツが聞くと思ったら、かなりイラつく。
 お前は俺だけでいいだろ。
 こんだけ素直に反応することを、ほかのヤツは知らなくていい。
 「は……ぁ……」
 ただの挨拶とは違う口づけ。
 舌まできっちり這わせてから離れたせいか、十分濡れた音が響く。
 「恭介さんに伝えといてくれ。俺なりの答え見つかった、って」
 「……え……?」
 「あと、元気になったってな」
 戸惑っているというよりは、驚きから反応に迷ってるような葉月から手を離し、軽く振る。
 さすがに、キスがどうのってあたりにコイツは触れないはず。
 ……そのふたつは俺から恭介さんに直接伝えてもいいけど、まぁいいかなと思って。
 「もう……たーくん……」
 「なんだよ」
 そっちを真正面から見るに見れず、ギアへ手を置いて何気なく向けた先は液晶の時計。
 最期の夜、か。
 ああ、そう考えると腹はいっぱいだけど、やっさんとこに顔出しに行ってもいいとさえ思った。
 ゲンキンだってことは、よくわかってる。
 昨日までの俺じゃ、間違いなく夜出かけることは選ばなかった。
 「っ……」
 「……こんなふうにされたら、離れがたくなるじゃない」
 ひたり、と葉月が頬へ触れた。
 驚いてそっちを見ると、それはそれは……お前、そーゆー顔すんなよ。
 キスで止まった意味がなくなる。
 まるで、拗ねたとも寂しげとも取れる艶のある表情に、小さく喉が動いた。
 「羽織はいつも、こんな気持ちで瀬尋先生のことを見送るんだね」
 「こんなって?」
 「帰っちゃうの、やだなって……離れたくない、って……とってもよくわかる」
 そういうと、葉月はキスの名残を惜しむかのように唇へ指先で触れた。
 ……それなら、今俺が思ってることは多少なりとも、祐恭の気持ちと重なるんじゃねーの。
 まあさすがに、口にすることはしないけどな。
 「またな」
 「ん。また……明日ね」
 ひらりと手を振り、ギアを入れる。
 笑った葉月が、窓枠から手を離した。
 そのとき目に入った月は、白くてまぶしくて。
 ああ、なかなかいい夜じゃねーかとガラにもなくそう思った。
 
 翌朝、アラームよりも先に目が覚めた。
 昨日掃除したおかげで、どこもかしこも問題なし。
 結局、まとめた荷物を手にそのまま出勤支度も完了し、先日の地獄みたいな朝と違って1時間以上余裕ができた。
 「あー……モーニング食ってから行こ」
 結局、昨日はまたもや0時近くになって帰宅。
 しかも、別の店で会ったにもかかわらず、カウンター席にはまた壮士がいて、どんだけ行動カブせてくんのかとため息が出た。
 そのうえ、やっさんに葉月のことをすでに報告していたらしく、さらに聞かれることになり……ま、結局喋んなかったけどな。
 もういい。めんどくせぇ。
 好き勝手想像してくれ。
 「…………」
 玄関のドアを開け、鍵を閉める前に――部屋を振り返る。
 家具はもともとあったが、どことなくガランとして見えた。
 なかなか面白かった。
 が、正直毎日はキツい。
 ……たまにはいいけどな。
 ただ、次にまたここへ来るときのために、これからは家で普段使っているモンを意識してみてもいい。
 ドアを閉めて鍵をかけると、その音がやけに大きく響いた。
 
 「だから、なんで羽織まで図書館へ一緒に来たんだよ。あの口ぶりじゃ、お前ひとりだって思うだろ?」
 「どうしても、試験の前に羽織に見せてあげたかったの。いけなかった?」
 「べ……つにいけなきゃねーけど、お前、お人好しすぎね?」
 「だって、羽織が元気なかったんだもん。何かできることないかなって考えて……ふふ。でも、たーくんも優しいじゃない」
 「しょーがねーだろ。つか、付き合ってやったんだから感謝しろ」
 いよいよ明後日はセンター試験本番。
 だからまあ、葉月がアイツの緊張をほぐそうと誘ったのも、許せなくはない。
 でもな、まさかふたりでくるとか思わねーだろ。
 昨日の今日で、どーゆー顔するか見てみたかったのもあった……ってまぁ別にいいけど。
 それにしたって、その大事な試験前に彼氏ンとこ行くとか余裕すぎねーか?
 そういう意味でいえば、めでてーぞ。アイツ。
 多分、葉月が考えてるより、よほど神経図太いはず。
 「あら何よ、アンタもう帰ってきたの?」
 「いーだろ別に。俺ンちだし」
 「もーちょっと行ってくればよかったのに。なかなか静かだったわよ」
 「あっそ」
 キッチンから姿を見せたお袋は、ソファへ座ったままの俺をみて訝しげに眉を寄せた。
 普段と違って、スーツのまま着替えちゃいないが、テレビで野球のキャンプ前情報が始まったんだからしょうがねぇだろ。
 「アンタ、恭介君にちゃんとお礼言っときなさいよ」
 「わーってる」
 「それと、もうひとつ」
 「……ンだよ」
 両手を頭の後ろで組み、ついでに組んだ足を組み替えたものの、お袋はすぐそこで腕を組んだまま意味ありげな顔を崩さなかった。
 あー、その顔はなんか文句言いたいときのヤツだな。
 言われる前にわかるあたり、よく親のことをわかってると感心してもらいたいモンだ。
 「ルナちゃんにもちゃんと謝りなさいね」
 「っ……何を」
 まさかの相手のことをガチな顔で言われ、一瞬どきりとする。
 昨日の夜、周りには誰もいなかった……はず。
 暗くてわからなかったが、さすがに見えていたとは考えにくい。
 だが、お袋は目を細めると小さくため息をついた。
 ……まさかお前、見てたとか?
 だとしたら、すげぇ居づれぇ。
 この歳でキスシーン見られるとか、穴以上にどん引きだろ。
 ちらりと見ると、葉月はキッチンで夕食の支度をしているらしく、カウンターの向こうで何かしているのが見えた。
 「アンタが出て行ったことで、ルナちゃんずっと引きずってたのよ。可哀想なくらいだった」
 「…………そっちか」
 「は? 何」
 「別に」
 内心ヒヤヒヤしながら話を待つと、俺がいなかった間のことを言いたかったらしく、恥ずかしくて死にそうな結果でなかったことに安堵。
 あー、よかった。
 最悪の事態だけは免れた。
 「葉月」
 「え?」
 リビングへ戻ってきた葉月を呼ぶと、不思議そうな顔を見せた。
 それでいい。
 お前はとりあえず、何もなかったようにそーやって振る舞え。
 「…………」
 「…………」
 「……マスターんとこで買ってきたコーヒー、明日の朝淹れてくんねーか?」
 「ん、わかった」
 まじまじ見ていたら、全然違う言葉が出たことに、さすがの自分でも驚いた。
 お袋にいたっては大げさなため息とともに『使えない息子ね』と言い出す始末だが、しょーがねーだろ。
 うっかり、顔じゃなくて唇へ目が行ったんだから。
 「伯母さんもぜひ、飲んでみてくださいね。とってもいい香りなんですよ」
 「へー。おいしいコーヒーなんて、久しく飲んでないわ。ぜひお願いね」
 にっこり笑った葉月から視線を戻し、口元を覆うように手を当て――ていたのに気づいたのは、少しあと。
 ぼーっとしたせいで、気づいたときには見たかったはずのニュースが別の画面へ切り替わっており、全然違うコーナーが始まっていた。
 ……あー、らしくねぇ。
 つか、もしかしなくても早まったか。ちっとばっか。
 その後も結局、寝るまで葉月の姿が見えるたびイチイチ反応しそうになり、ひとりの時間を確保するのは精神衛生上必要なんだってことに多少気づいた。
 
 
     
 
 
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