「たーくん、起きて……るね。おはよう」
「はよ」
 いつもと同じ、朝。
 でも、少し前までは当たり前じゃなかった。
 オーストラリアから帰国して、もう1週間以上が経つ。
 湯河原で過ごしていたときと違って、本当に手の届く距離に彼がいてくれることは嬉しくて、幸せで。
 朝も夜も、まさにプライベートな時間をともにできることは、やっぱり特別なんだなと思う。
 ……だけど最近、ほんの少しだけ違うんだよね。
 というのは……。
「近い」
「っ……ごめん」
 いつもより30分も早いのにパソコンで作業をしていたから、なんの作業なんだろうと覗いてすぐ。
 視線はそのままで、ため息混じりに頭を撫でられた。
 でも、知ってる。
 たーくんはいつからか、こうして私を遠ざけるように距離を取るようになった。
 少しだけ寂しい気はするけれど、でもきっと、彼なりに理由はあるんだと思うの。
 聞いてみたら教えてくれるだろうし、きっと根拠のあるものだとは思うものの、数パーセントの“違った”ときが少しだけ恐い。
 ……って、彼がそんな人じゃないのは私が知ってる。
 だから、逆に聞かない。
 たーくんはいつも、自分が納得しているものであればストレートに伝えてくれる。
 でもそれが……それこそもう何日も変わらないということは、彼自身もどこかで納得できてないことなのかもしれないから。
「…………」
 たーくんが私と距離を取るようになったのは、一昨日くらいから……だったかな。
 帰国した日は、抱きしめてくれただけでなく、キスももらえた。
 次の日も同じ。
 私が手を伸ばしてもまったく拒まれなくて、こういう関係になれたことを改めて実感しながら嬉しかった。
 なんだけど……うん、やっぱり最近だね。
 私が手を伸ばしても拒みはしないものの、時間はとても短くて。
 離れたあと、たーくんはさっきみたいに小さくため息をつくようになった。
 ……困ってるんだよね。きっと。
 それとも、私何かしたかな……?
 って、だめでしょう?
 自分ひとりで考えても結論は出ないんだから、余計なことはしないのがルール。
 教えてくれるだろうけれど、それをしないのは……私の弱さかな。
「ごはん、できてるよ?」
「ああ。サンキュ」
 ドアに戻ってから声をかけると、そこでようやく視線が重なった。
 笑顔はいつもと一緒……でしょう?
 大丈夫。私は、平気。
 きっといつか……ううん、さほど遠くないうちに、ちゃんとたーくんが納得したうえで理由は教えてくれると思うの。
 だから、待っていよう。
 そばにいられることがまず、特別なことなんだから。
 できるだけいつもと同じを心がけながらきびすを返すと、今日もからりとした青空が階段の窓の向こうには広がっていた。

「はぁああ……頭痛い」
「羽織、ずっと集中してたもんね。少し休憩したら?」
「うー。でも、二次試験もうじきだし……もうちょっとがんばる」
 2月からは自主登校になると知ったのは先月のことだったけれど、実際にこうして羽織とふたりで過ごすのは先週から。
 私が帰国したのと同じあの夜、羽織は瀬尋先生に送ってもらって家に帰ってきた。
 私がいることを驚いてはいたけれど、渡したかったお土産を無事に手渡せてほっとしている。
 それからはずっと、羽織が部屋にいないときはこうして一緒に過ごす時間が増えた。
 といっても、羽織は基本勉強してるけれどね。
 参考書はもちろんだけど、彼女がいつも手にしているのは赤本。
 過去の試験問題がまとめられているもので、根気強く何度も復習しているとわかるくらい本はクセ付いている。
「…………」
 ため息をついて本へ向き直った羽織は、とても集中した顔を見せている。
 でも、少しだけ根を詰めすぎているようにも見えて、心配。
 ……夜も、遅くまで勉強してるみたいだし。
 インプットも大切だとは思うけれど、やりたいことを我慢していることはあまり身体にはよくないはず。
 私にできるのは、お茶の時間に羽織が喜んでくれそうなおやつを作ることと、息抜きで話し相手になるくらい。
 それでも彼女はいつも『ありがとう』と、柔らかく笑ってくれる。
 本当に優しくて、自分のことよりも誰かのことを大切にするんだよね。
 それは……たーくんも同じ。
 あのご両親に大切に育てられた証だと思っている。
「……あ」
 チャイムが響き、羽織が顔を上げた。
 まだお昼前。
 今日は平日だし、鍵を持っている人たちならまず押したりしない。
 ……お父さん……ではないよね?
 それとも、向こうで送った荷物が届いたのかもしれない。
 発送してから、10日と少し。
 今日あたり届いてもおかしくはない。
「あ」
 すぐそこの受話器を見ると、私が今想像した誰とも違う人が立っていた。
 短い髪に、はっきりとした顔立ち。
 きっと、インターフォンの向こう側に“誰か”がいるってちゃんとわかってるのね。
 まるでレンズを覗き込むように近づいて見せた彼女は、私が受話器を取るとくすくす笑った。
「いらっしゃい。今開けるね」
『ありがとー』
 受話器越しの元気な声が、もしかしたら羽織にも届いた……のかな?
 それとも、すぐそこで玄関越しの声のほうが正解かもしれない。
 サンダルを履いて玄関の鍵を開けると、少し眩しいような日差しを背負った絵里ちゃんがにっこり笑った。

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