「たーくん、本を見せてもらってもいい?」
 22時半を回ったところで、たーくんが部屋に戻ってきた。
 もういつものお風呂上りと同じ、スウェットに着替えている。
「本?」
「少しだけ。だめかな?」
 いつもならとっくに私が寝ているとわかっているのか、ちらりと壁にかかっている時計を見てすぐ訝られた。
 でも、どうしても今日じゃなきゃだめなの。
 そんな想いが顔に出ていたのか、彼は立ち上げたパソコンへ向き直ると『別にいいけど』と小さくつぶやいた。
 部屋のドアを閉めないでいてくれたことは、私にとってとても大きくて。
 このドアが開いていなかったら諦めようと思ったものの、彼はいつもと同じように開いたままにしてくれたおかげで、のぞくことができた。
 それはきっと……たーくんの優しさだよね。
 拒絶することだってできたはずなのに、それをせず私をこうして入れてもくれたんだから。
「…………」
 入ってすぐの壁際にある大きな本棚には、文庫やハードカバーだけでなく、マンガや専門書などいろいろな本が並んでいる。
 でも……その一番下。
 何度か部屋に入らせてもらったことがあるから、そこにアルバムがあることを知っている。
 ……本当はきっと、アルバムを見せてほしいって言わなきゃいけなかったんだよね。
 なのに、本と濁したことは、もしかしてよくなかったかな。
 本棚の前へ座り、そっと手を伸ばす。
 叱られたら……説明する?
 それとも、先に言ったほうがいい?
 小学校の文集から始まり中学、高校……そしてタイトルのないアルバムの背表紙が几帳面に並べられている一角を見ながら、今になってどうしようか逡巡してしまった。
「え……?」
「昨日から思ってたけど、お前は少し薄着すぎだ」
 手を伸ばそうかどうしようか考えていたら、ふいにカーディガンがかけられた。
 私のものではなく……もちろん、彼の。
 しかもこれは、お仕事で着ていくもの。
「たーくん……」
「なんでンな端っこ座ってんだよ。窓から冷気がくるだろ? 見たい本があるなら、持って来てこっちで読め」
 振り返ると彼は、眉を寄せてはいたものの、まっすぐに私を見下ろしていた。
 私が目を丸くしたのをわかってか、首筋を撫でたあと見せたのは、最近よく見かけるようになったどこかおもしろくなさそうな顔。
 ……ああそうか。
 たーくんに、私が説明しないからこういう顔をさせちゃうんだね。
 戸惑っているというよりは、わからないそのものなんだとようやくわかった。
 でも……本当に、優しいんだから。
 あんな態度をとったのに、結局彼のほうが先に折れてくれていて、申し訳ないものの……だけどとてもありがたかった。
「アルバムを見せてもらってもいい?」
「……アルバム? なんで」
「小さいころのたーくん、どんなだったのかなって。見てみたいの」
 私と違って、もしかしたら彼は昔を懐かしむ回数が多くないんだろう。
 この段以外の本は動きがあるけれど、そういえばここは配置も変えられてないもんね。
 でも、そう口にすると不思議そうではあったものの、いつもと同じように『好きにしろ』と了解を得られて、内心とてもほっとしていた。
「わぁ……」
 小学校卒業と書かれているアルバムをめくると、一番最初に入学式の写真があった。
 どの子もみんなかわいくて、幼くて。
 いかにも1年生だなと思うと、とても微笑ましい気持ちになる。
 後ろへ立っている保護者の中には、もちろん伯父さんと伯母さんもいて。
 だけど……正直、彼らのほうが先に見つけられたけれど、たーくんを見つけるのには少しだけ時間がかかってしまった。
「っ……」
 ちょうど、担任の先生の後ろの列の真ん中。
 そこに、1年生のたーくんがいた。
 わぁ……かわいい。
 私の記憶の中にはいない姿。
 小さいながらもスーツ姿にネクタイをつけていて、とても……とってもかわいい。
 ……今と全然違うのは当たり前なんだけど、なんて言ったらいいのかな。
 まじまじとアルバムを見たまま、思わず口元に手が向かう。
 どうしよう。
 とってもかわいくて、口元が緩んじゃう。
 たーくんに初めて会ったのは、彼がもう10歳になっていたとき。
 そのときはもうすでに、今の彼とそんなに大きくは違わなかった。
「っ……」
 ぺらりとめくると、次のページにもたーくんのかわいい姿があって。
 小学生って、こんなにかわいいんだ。
 当時の自分の姿をついさっきまで見ていたはずなのに、思いが全然違う。
 こう……胸がいっぱいになる。
 きゅんとする、って表現がしっくりくるって言ったらいいかな。
 きっとね、好きな人の昔の姿だからこそ、余計愛らしいっていうか……そう。愛らしいの。
 本当にかわいくて、きっと当時の伯母さんが抱いていた気持ちに近いのかなとも思った。
「……ふふ」
 学年が上がるにつれて、表情が変わっていくのがおもしろかった。
 とってもかわいい男の子から、まさに男の子そのものへの変化。
 いたずらっぽい顔をして虫を捕まえている姿だったり、プールでの様子や委員会活動、そして運動会などの行事の中にも、いつの間にか難なくたーくんを見つけることができるようになっていた。
 そして……同時に、アキさんの姿も。
 彼女は今と違い、肩よりも長い髪を結んだり下ろしたままだったりと、雰囲気の違う姿をあちこちで見かけた。
 卒業式の姿は、まさに1年生とは全然違っていて。
 同じような濃いグレーのスーツだけど、顔つきはずっと大人びていた。
 私が同い年のときよりも、もっと大人に見える。
 ああ、たーくんだ。
 このころ私は一緒に暮らしていて、思い出も多い。
 だけど、小学校での姿を見てはなかったから、とっても嬉しい気持ちになった。
 中学校のアルバムはもっと雰囲気が変わっていて、入学式こそ小学生そのものの顔つきだけど、次第に男性へと変化していく。
 背が伸びていくのも、わかる。
 もともと細いけれど、背が伸びたこともあってか身体つきがよくわかる。
 がっしりしているわけじゃないのに、今と同じような骨ばった手や腕、そして顔つき。
 体育祭のリレーでは、たすきを掛けてコーナーを回るシーンが選ばれている。
 卒業式の写真は、載っていない。
 でも……それは年末、伯母さんが見せてくれたアルバムに入っていたんだよね。
 詰襟姿で、胸元に卒業の花をつけた彼が。
 たくさんの男の子たちと一緒に肩を組んで映っているものばかりで、伯母さんは『せっかくの記念だから校門で撮りたかったのに、時間かかったのよ』と笑っていたっけ。
 クラスでの写真もそうなら、行事での写真もそう。
 彼の周りにはいつもたくさんの人がいて、中にはシャツを引っ張られながら笑っているものもあった。
 男女問わず、人の輪の中にいる人。
 私とは……正反対。
 静かな環境というよりは、つねに動きのある中心の人だったんだろう。
 そういえば、卒業式の写真には数人の先生と一緒に撮られたものも何枚かあったもんね。
「わ……」
 高校のアルバムを開くと、一番最初のページは全校生徒を屋上のような高いところから写した見開きの大きな写真だった。
 その中の一角。
 大きな木の根元で、数人の男の子たちが組体操さながらのポーズをとっていて……その中に、たーくんはいた。
 でも、彼だけじゃない。
 嫌そうな顔をしているものの、瀬尋先生の姿がすぐ隣で見つかり、思わず小さな笑いが漏れた。
 今と大差ない。
 けれど、やっぱり少しだけ幼く見える。
 背も伸びていて、顔つきもほとんど今と変わりないのに、どうしてかな。
 もしかしたら、行為が少し幼さを感じさせるのかもしれない。
 男の子ばかりの学校だけど、スナップショットだけでなく行事ごとの写真の中からも、たーくんの姿はすぐに見つけられた。
 文化祭でお店を出しているもの、修学旅行先とおぼしきスキーウェアの姿、そして……授業中の真面目な顔。
 “今”の私と同じ歳の彼がここにはいて、なんだか不思議な感じを覚える。
 6年前の夏に会ったのも、このときなんだよね。
 でも、当時の私にとってはもっと大人びて見えたけれど、私が6年を経たからか、つい今の彼と比べてしまって幼さが目についた。
 職員一覧の中には伯父さんも映っていて、今よりも少しだけ若いようにも見えるけれど……でもそんなに変わらないのが、すごいところだよね。
 穏やかなまなざしは、まさに今の彼そのもの。
 “昔は恐かった”とお父さんに聞いたことがあるような気はするけれど、私は一度も叱られたことがないからか、イメージできないままだ。
「……楽しいか? そんなモン見て」
「ん、とっても。だって、たーくんの歴史でしょう?」
「…………」
「えっと……」
「そういう顔すんな。つか、小学校のヤツ見てたとき、お前だいぶヤバい顔してたぞ」
「っ……」
 少しだけ呆れた声でふりかえると、たーくんは腕を組んだまま瞳を細めた。
 だいぶヤバい顔って……どんな顔してたんだろう。
 でも、正直思いあたりはする。
 だって、たーくんとってもかわいかったんだもん。
 母性に直接訴えられるというか、とにかく保護欲にも似た何かが胸にあって、少しだけ苦しかったの。
 けれど……そんな最初のころから、私の様子は気にしてくれてたのね。
 てっきり見られていないと思ったのに、予想外のセリフでやっぱり気恥ずかしかった。
「菊池先生とは、大学から一緒になったんだね」
「アイツは、小学校から附属校に通ってたからな。ちょくちょく会っちゃいたけど、学校はずっと別だった」
 アルバムというよりは、無造作にまとめられている大学生のころのスナップ写真。
 束を汚してしまわないように1枚ずつめくると、菊池先生や瀬尋先生、そして……枚数は少ないけれど、アキさんの姿もあった。
 彼が歩んできた歴史は、思った以上にたくさんのものが詰まっていて。
 私の歴史よりも満ちていて、濃くて、どれもこれも新鮮に映る。
 でも、どの写真にも共通しているのは、笑顔。
 たーくんだけでなく、周りにいる人たちまで楽しそうな顔で、当時の時間がとても鮮やかで想い入れがあるんだとわかる。
 今もたくさんの人に囲まれているけれど、彼はこれまでずっとそうだったんだ。
 何人どころか、何百人もの人たちと過ごしてきて、今がある。
 そして今はまた、新しい人たちと日々出会い、大学内だけでなく県内そして仕事を通じての都道府県をまたいだ出会いなどで、日々アップデートされている。
 なのに……だ。
 それなのに彼は今、ここにいて。
 こうして、彼のもっともプライベートであろう部屋の中で、想い出を共有してくれている。
 これを……奇跡といわずに、なんというんだろう。
「たーくん、ありがとう」
「別に」
 写真を戻し、アルバムをまとめて本棚へ。
 これまで、見てみたかったけれどなかなか手を伸ばせなかった。
 だから今日、こうして彼と一緒に開けたことが、とても嬉しくて……大満足。
 貸してくれたカーディガンはとても温かくて、あわせを両手で握りながら彼の元へ戻ると、パソコンから視線を向けてくれた。

「たーくんは、こんなにたくさんの人の中から、私を選んでくれたんだね」

 嬉しかった。
 そして、たまらなく誇らしかった。
 いくつもの出会いと別れがあって、そのたびに様々な形での想いは交差していたはずで。
 大人になるにつれて関係が変わっていくにもかかわらず、彼は……今の私へ、手を伸ばしてくれた。
 従妹という存在だった私を、彼の特別な相手として見てくれたことで。
「ずっとたくさんの人と過ごしてきて、これまで何人にも想いを伝えられて……でもそのたびに、ひとつずつ過去のものにして……今、ここにいてくれて」
 触れていいだろうか悩んだ。
 でも、手を伸ばすことは許してもらえている今の私だから、答えを出す前に彼の肩へ触れていた。
「なのに私を選んでくれるなんて、本当に幸せ」
 幸せで、嬉しくて。
 そうなると人は、勝手に頬が緩むんだ。
 目を丸くしたたーくんは、椅子ごと私へ向き直るものの、表情は変えたけれど声は出していない。
 でも……何か言いかけた唇を閉じたのは、わかっていて。
 ……表情が、変わる。
 小さくため息をついたあとのたーくんは、椅子へもたれると肩へ置いていた私の手を両手でつかんだ。
「ずっと考えてたろ」
「え?」
「夕方八つ当たりされてから今までずっと、俺のことばっか。違うか?」
 撫でるのとは違うけれど、たーくんは何かを確かめるように手の甲を親指で撫でた。
 彼はときどき、こうして私に触れることがある。
 それはくすぐったくもあるけれど、なんだかとてもどきどきする行為だ。
「ん……どうしたらいいかなって、ずっと考えてたよ」
「たまにはそうやって、俺のことでいっぱいになっとけよ」
「……え……」
「お前の意識が俺じゃないヤツにばっか向いてて、おもしろくねぇんだよ。やっと帰ってきたと思ったら、羽織だの優人だの……揚げ句の果てに普段出てこねぇアキまで。誰が一番待ってたと思ってンだ。ちったぁ反省しろ」
 舌打ちしたたーくんから、まさに耳を疑う……ではないけれど、思ってもなかった言葉ばかりが聞こえて、ぱちぱちとまばたく。
 でも、それもおもしろくなかったらしく、たーくんはまなざしを鋭くするとまた舌打ちした。
「俺がお前じゃなくてほかのヤツの相手ばっかしてたら、同じこと思わねーか?」
「えっと……それは……」
 今までたーくんにそんなことをされたことがなくて、想像してみようとは思ったけれど、案外難しいらしい。
 だってたーくん、いつも私のこと優先してくれるんだもん。
 だから……ああそうか、だからだ。
 たーくんはいつだって私を一番にしてくれていたのに、私は理由をたくさん見つけるふりをして彼をないがしろにしていたんだ。
「ごめんなさい」
「なんの謝罪だ?」
「……ひとつは、たーくんがいないところでふたりと個人的に会ったこと。もうひとつは……本当は自分がされたら嫌なのに、自分じゃない人の気持ちを優先したこと……かな」
 本当は、アキさんにたーくんのことを貸してと言われたとき、とても嫌な気持ちになった。
 なのに彼ならばどうするかと勝手にイメージして、責任をなすりつけるような形にした。
 ……嫌だったのに、嘘ついたの。
 どんな理由であれ、たーくんが自分以外の人へ手を伸ばすことは堪えられないほど苦しい気持ちになるはずなのに、平気なフリをした。
 それは、冒涜以外の何ものでもない。
 たーくんに対しても。そして、彼を本当に好きだったアキさんに対しても。
「次はねぇからな」
「……ん。今度からはまず、たーくんに相談してから決めるね」
「別に決めなくてもいいけど、せめてひとこと言え。俺はお前の彼氏なんだろ?」
「っ……」
「ただの相談役じゃねぇんだから」
 まっすぐに目を見たままささやかれ、鼓動が大きく鳴った。
 彼氏。
 私の大好きで、大切で、特別な存在。
 ……そう。
 今お付き合いしている、大切な相手。
 誰よりも尊重すべき、私を想ってくれている人。
「うん」
 じわじわと指の先まで胸の中心から熱が伝わるような、不思議な感覚。
 嬉しさと、どきどきした感情とで笑みが浮かんだ。
 ……ああ、人を好きになるってこんなに自分も相手も変わるものなんだ。
 両手を握ったままたーくんはため息をついたけれど、次の瞬間にはこれまで私がよく知っている優しい笑みを浮かべた。

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