いつもと同じ、平日の朝。
 だけど今日は、昨日までと違う。
「…………」
 だって……今日は、たーくんが部屋にいる。
 昨日までは、がらんとした室内だった。
 家具も荷物も変化はほとんどないのに、彼の存在がないことがとても大きくて。
 真っ暗で電気がつかなかったせいか、目に入るのがつらくて……彼が家を出た翌日からドアを閉めるようになっていた。
 畳んだ洗濯物を届けに入ることもなく、閉ざしたドアの向こうへ踏み込むことはできず。
 その扉を開けたのは、それこそ1週間ぶり。
「ルナちゃん、悪いんだけどちょっとだけ付き合ってくれない?」
 おとといの朝、いつものように朝食を整えていたところへ、伯母さんが姿を見せた。
 と思いきや、すでに出勤の支度を整えたらしく、伯父さんも一緒で。
 いつもとあまりにも違いすぎる姿に、少しだけ緊張した。
 でも……もしかしたら、って気持ちはあったのかもしれない。
 前の日、お父さんからもらったメッセージの内容を伯母さんへ伝えていたから、心配したんだろうなとは思ったの。
 いつもは、顔を合わせても冗談めいたやりとりが多いふたりだけれど、伯父さんと伯母さんにとって大切な息子なんだよね。
 学生時代もここから通った彼がひとり暮らしをしたことは、かなり大きなことだったんだと思う。
 最初のころは『せいせいするわ』とか『いい社会経験ね』と言っていたけれど、伯母さんが夕食の支度をしたとき、彼の分を取り分けていたのを知っている。
 すぐに気づいてバツが悪そうに笑ったけれど、やっぱりどこかで寂しそうにも見えた。
 だからこそ、お父さんからの情報はとても大きくて。
 まず伯母さんへ伝えてよかったと、本当に思った。
 運転手として送ってくれた伯父さんは車で待ったままだったけれど、ドアを開けたとき『よろしく頼むよ』と笑った姿が……実はお父さんと似ていて。
 ああ、やっぱりお父さんのお兄さんなんだなぁと改めて感じた。
 その時の“彼”の部屋へ行き、直接『帰る』と聞くことができた次の日、私は朝から部屋を整えるためにドアを開けた。
 数日入ってなかったせいか、たーくんがいつも付けている香水の香りがかすかに残っていて、なんとも言えない気持ちになった。
 ……あの日の夜と同じ、甘い香り。
 車を降りたあと、ふいに名前呼ばれたとき、ほんの少しだけ違うように思ったの。
 だけど、わからなかった。
 まさかあんなふうに引き寄せられるなんて。
「っ……」
 頬から耳へあてがわれた両手の指の感触が、ずっと残っている。
 そして、口づけられる瞬間の彼の眼差しも。
 男の人、だったの。本当に。
 私が知ってるたーくんとは全然違って、思い返すとそれだけでどきどきする。
 ……あんな顔するなんて、知らなかった。
 そしてもちろん、キス、することも。
 友達に聞いたことはあったけれど、私には縁遠いことで……それこそおとぎ話のようなものだと思っていた。
 オーストラリアで暮らすようになってから、誰かを好きになったことがないわけじゃないし、実際目にしたり……話として聞いたことはある。
 けれど、私はそうならないだろうなとどこかで思っていて……ううん、なりたい相手がずっと遠い人で、きっと生涯手の届かないだろうと思っていたせいか、現実的に考えられなかった。
 日本の大学へ行きたいと思ったのは、お父さんに恩返しをしたいという気持ちが本当。
 私が離れて独り立ちすることで、彼に自分だけの人生を歩んで欲しかった。
 でも……もうひとつ、あったの。
 お父さんの出た大学で、そして……たーくんの勤めている場所で、大学生をしてみたかった。
 ずっと離れていたことで、私の中の彼に対する憧れはとても大きくなっていて。
 期待値も相まって、よりよいものへ変化していたことはわかっていたけれど、でも、実際に彼と再会したらそれ以上だとわかった。
 カッコいいだけじゃない、人を惹きつけて離さない絶対的な魅力。
 見た目も、所作も、声も、話術も、何もかもがたまらなく特別な人で、だからこそ彼に惹かれる人が多いんだともわかった。
 だから……4年間でどうにもならなかったときは、諦めようと思っていたの。
 もしくは、その間に彼にとって特別な人が現れ、結婚という大きな変化がなされたときにこそ、きちんと諦めようとも。
 そうなったとき、彼以上に好きな人がどれくらいの期間で現れるかはわからないけれど、きっと気持ちも切り替えられると思った。
 奇しくも、たーくんの誕生日のあの日。
 彼に伝えた自分の思いは、予想に反して“あまりにも当たり前”なこととして処理された。
 あのとき、わかってはいたの。
 ああ、そうだよね。たーくんにとって私は、小さいころからそばにいた従妹でしかないんだ、と。
 女の子ですらなく、彼に気持ちを伝えてもそれは家族と同等の位置であると知った。
 でも、諦められなかったんだよね。
 あのときは……なんて、都合いい解釈だとは思った。
 でも。
 でもそれがあったから、今、私は……。
「おはよ、葉月」
「っ……おはよう」
 あのときのキスは、何度も何度も身体を震わせる。
 気づくとつい指先で唇に触れていて、そのたびに彼の表情が蘇る。
 ……羽織にこんな顔どころか、あのことも……言えるようになるのは、もう少し先かな。
「これってなぁに?」
「ふふ。今日は、とろろ昆布のお吸い物。粘り強く勝つ、ね」
 たっぷりの鰹節と、とろろ昆布。
 きちんと制服に着替えた羽織は、席に着くと嬉しそうに笑った。
 明日はいよいよ、センター試験本番。
 羽織にとって、決戦ともよべる大切な日。
「夕飯は、ミルフィーユカツにするね」
「え、嬉しい! あれ、すっごいおいしいよね。あ、私も手伝うよ」
「ありがとう。それじゃ、待ってるね」
 豚肉を重ねたシンプルなものと……間にチーズを入れてもおいしいんだよね。
 羽織が一緒なら、両方作ってもいいかもしれない。
「…………」
 ちらりとリビングにある壁時計を見ると、7時20分を示していた。
 先日までたーくんが過ごしていたマンションとは違って、ここを出るのはそんなに早くない。
 でも、それはあくまで起きていればの話。
 眠っていたら、ちょっとギリギリな時間。
「起こしてくるね」
「もぅ。お兄ちゃんってば、ひとり暮らししてたときはどうしてたのかな」
「きっと、家だと気が緩むのね」
 眉を寄せた羽織に笑い、階段へ足を向ける。
 先週の……ううん、こうして彼を起こしに行くのはとても久しぶり。
 だからこそ、どこかで喜んでいる自分もいるからこそ、『ほっといていいのに』と唇を尖らせる羽織に何も言えなかった。
「たーくん、起きてる?」
「……起きてる」
 きちんと閉ざされているドアを3回、久しぶりにノック。
 すると、予想に反して彼の声が返ってきた。
「わ、ほんと。おはよう」
「はよ」
 ドアノブを回すと、彼はすでにスウェット姿ではなくワイシャツに着替えていた。
 パソコンを立ち上げたまま、何か作業を……って。
「どうかな?」
「いや、すげぇいい。お前、好み似てるな」
「よかった」
 机の上には、2枚のCDケース。
 それは、先日私が購入した好きなアーティストの新譜。
 昨日の夜、スマフォで曲を流しながら部屋で片付けをしていたら、たーくんが部屋を覗いたんだよね。
 どうやら私が曲を流していることも意外だったみたいだけど、聞いていた曲でさらに気になったらしく、『誰の曲だ?』とたずねたほど。
 普段、彼が車内で聞いているアレンジされた曲調とは違うけれど、ロックも好みに合うらしいとわかって嬉しかった。
「っし。サンキュ」
「ん。どういたしまして」
 どうやら取り込みが終わったらしく、ケースごとCDを渡された。
 そのとき、ふいに指先が触れてどきりとした……けれど、どうやら私だけだったらしい。
 たーくんは、まったく気にする様子なく、パソコンへ向き直ると電源を落とした。
「一度、向こうへ荷物を取りに戻る予定なの。そのとき改めてCD持ってきたら、また貸すね」
「おー。楽しみにしてる」
 近い距離で当たり前のように笑われ、嬉しい反面少しだけ戸惑う。
 たーくんにとって、この間の夜は……キスは、どんな意味を持つんだろう。
 言葉では何も言われてないし、態度もあれから変わってはいない。
 こっちの恋愛事情がどうかはわからないけれど、オーストラリアでは告白という形を取らずに付き合い始めることも多い。
 一緒に出かけて、スキンシップが増えて……と。
 もし、彼も同じ形を辿るのであれば、親密度が増せば期待できるけれど、逆ならば諦めなければならない。
 ああ、ダメだったんだなって……思うのは、嫌だな。
 あんなふうに口づけられたのも初めてなら、引き寄せられたのもそう。
 私にとってあの夜は、なによりも特別だった。
「葉月?」
「え? ……っ」
 名前を呼ばれて顔を上げると、すぐここに彼がいた。
 それこそ、一歩踏み出せば唇が触れそうなほどのところに。
「たっ……」
「あ?」
「……ぅ……もう、ええと……」
 どきどきと胸がうるさいほど鳴って、少し苦しい。
 でも、たーくんはおかしそうに笑うと私ではなくドアへと手を伸ばした。
「あー、腹減った。朝からうまそうな匂いするとか、っとにテンション上がる」
 嬉しそうに言ってくれた言葉は、とても嬉しい。
 だけど、背中を見てほんの少しだけ寂しくなったのは、どうしてだろう。
 ……違うでしょう。そうじゃない。
「葉月?」
「たくさん食べてね」
 笑みを浮かべながら彼のあとを追うと、階段の窓から青く晴れた空が目に入った。

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