「ねぇ、たーくん。今日、一緒に行ってもいい?」
朝から、軽めとはいえ2杯ほどごはんのお代わりをしてくれた。
そんな彼のあとを追い、洗面所へ入ると、鏡ごしに目が合う。
「いーけど。なんか用か?」
「読みたい本がずっとあったの」
「……お前、もしかして待ってたのか?」
歯磨きを終えた彼が、意外そうな顔で振り返った。
直接まじまじと見つめられ、うなずきながらも苦笑が浮かぶ。
だって、家で会えなくなってしまったのに、図書館で当たり前のような顔でやりとりすることなんてできそうになかった。
だから、ずっと待っていたというか……早く、当たり前のように話ができるように戻りたいと、もしかしたら願掛けていたのかもしれない。
「律儀だな」
「そうかな? でも、一緒に行きたかったの」
慣れた手つきで当たり前のようにネクタイを結ぶのを見ながら、噛みしめるようにつぶやく。
そう。一緒に行きたかった。
たーくんの申し出を断ってしまった以上、彼にもう一度受け入れてもらうためにはどうしたらいいかずっと考えていたから。
「あ……」
ふわり、と彼の手のひらが髪を撫で、伝うように頬に触れた。
目を合わせたままの行為に、情けなくも頬が染まる。
触れてもらえるのが嬉しい。
特別で、たまらなくどきどきする。
だけど、どうしていいかわからず、視線が落ちるのは私の弱さなんだろうか。
「……あ、そーだ」
「え?」
「恭介さんから連絡なかったか? 明日出かける、って」
『あ』の言葉とともに手のひらが離れ、感触が消える。
どきどきはまだやまない。
けれど、たーくんは視線を逸らすとポケットからスマフォを取り出した。
「たーくんにも連絡があったの?」
「ああ。明日空いてるか聞かれた」
「そっか。じゃあ……お願いしてもいい?」
「何を?」
「明日、湯河原へ行きたいの。だから……もしよかったら、一緒に行ってもらえないかな?」
言いながら、きゅ、と両手を重ねていた。
湯河原。
これまで口にしたことのない場所だけに、もしかしたらいろいろ聞かれるかもしれない。
でも、たーくんには知っていてほしいし、できることなら伝えておきたい。
私が頼りにしている人だから、わがままかもしれないけれど、誰よりも力になってもらいたかった。
「そのつもりで、先に恭介さんへ返事した」
「え……そうなの?」
「ああ。明日、少し早めに出ようぜ。道が混んでも面倒だしな」
さっきとは違い、いつも……ううん、小さいころからそうしてくれるように、頭をぽんぽんと撫でられる。
お父さんから、何かしら話があったのかもしれない。
たとえそうだとしても、たーくんがそばにいてくれることに変わりはないんだけど……なんていうのかな。
少しだけ。
ほんの少しだけ、私だけが知らないことのように感じて寂しくなる。
……ああ、だめ。
私、どうしたんだろう。
今日はずっとこんな気持ちのまま。
そうじゃないでしょう? なんのためにお願いしたの?
自分のこれからのことを、共有してもらうためじゃない。
「それじゃあ……明日、改めて私が知ってることを聞いてくれる?」
「ああ。いーぜ」
もしかしたら、たーくんはすでに聞いているかもしれないこと。
でも、彼はいつものように頷くと優しく笑った。
「…………」
平日とあって、この時間帯はあまり人がいない。
この時間は当然授業中だからというのもあるだろうけれど、試験の時期とは少し違うからなのかもしれない。
でも……明日は、羽織にとってとても大切な日。
それこそ、彼女の人生を決める日と言ってもいい試験がある。
思い返してみれば、たった数ヶ月前、私もこの大学の試験を受けた。
帰国子女枠というもので、羽織が受ける試験とは違うもの。
それでも、どうしてもこの大学へ通ってみたい気持ちはきっと同じで、だからこそ彼女も努力を積み重ねてきたんだろうことがわかる。
行きたい場所。春から過ごしたい、新しい所属のところ。
ふと、すぐそこにある小さな窓からは、芝生の広がる中庭が見えた。
寝転がっている人や、ベンチに座っている人、ランニングをしている人、思い思いにすごしているたくさんの人たちが見える。
どの人にとってもこの場所は、“自分の”場所。
4月からは私も、あの人たちと同じようにここが私にとっての学び舎になる。
たくさんの出会いがあって、知らなかったたくさんのことを学んでいくんだろうな。
そう思うとどきどきするけれど、やっぱり嬉しい気持ちのほうが強い。
もちろん――今までの所属の場所にまったく未練がないとは言えない、けれど。
私にとってオーストラリアは、ずっと過ごしてきた大切な場所。
時間もそう、友達もそう、思い出すべてがあちらにある。
何年も過ごしてきた家は、お父さんや友達、そして近所の人たちだけでなく、ずっと寄り添ってくれた家政婦さんたちとの思い出で溢れている。
もうじき帰るのは、荷物の整理と……思い出の整理、かな。
どちらかというと後者のほうが大きいのは自分でもわかっているけれど、でも、こちらで暮らすことを決めたのは自分。
振り返らないわけじゃない。けれど、前も向いていきたい。
ましてや今、私には大きな変化が伴っている。
かけらほどの期待だったことが、現実になろうとしている。
ずっとずっと好きだった人に、手が届こうとしている。
これは、たった数日前の私にも知りえない特別なできごと。
でも……事実、なんだよね。
「…………」
読みかけの本を開いたまま、気づくとまた唇へ触れていた。
ああ、だめだなぁ。
ふと気づくと、ついこうしているの。
夢だったんじゃないかとは思わないけれど、でも、起きたことがあまりにも特別だったから。
二度目は訪れていないけれど……もし今続きが訪れたとしたら、私はどうなってしまうんだろう。
嬉しい? 恥ずかしい? 苦しい? それとも……。
「……はあ」
小さくため息をつき、本を閉じてから立ち上がる。
内容がきちんと入ってこなかった。
今日はこれ以上読めそうにないから、違う本を探そう。
そう。たとえば――湯河原のことが書かれている本、とか。
明日私が行く場所。
調べたことはある。一度じゃない。何度も。
きっと明日お父さんが行くであろう場所の名前も、私は知っている。
だけど……全然記憶にはないの。
あるのはたった1枚の写真。
幼い自分と、お父さんと、知らない女性がふたり映っている、少しだけ年数を感じる写真。
どうして覚えてないんだろう、と何度も寂しい想いをした。
ひょっとしたら、当時の私なら覚えていたんだろうな。そう思いたいだけかもしれないけれど、でも、きっといい思い出のはずなの。
だって、写真の私はあんなに笑顔なんだから。
私だけじゃない。
お父さんも、ほかの人も、みんなみんな柔らかい笑顔。
でも、その写真についてお父さんに聞くことはできなかった。
ひょっとしなくても、私が持っていることを彼は知らないんじゃないだろうか。
だから……言えない。
私があの写真を取り出したとき、お父さんがどんな反応をするのかただそれが怖くて。
「……っ」
旅行雑誌とは違い、もう少し本に近いタイプのものが並ぶ棚を見ていたら、ふいに後ろから手が伸びてきて、身体が縮こまる。
見覚えのある濃い色のカーディガン。ほのかに漂う香水。
もう……こんなふうにされたら、ほかの人にもそうしてるのかなって一瞬驚くでしょう?
それとも、私がこんなことを思っているなんて、ちっとも知らないのかな。
「高さが揃ってねぇな」
「……びっくりするでしょう?」
「言うほどンな顔してねーぞ」
まるで捕らわれているかのように、顔のすぐ横を彼の両腕が通り、手際よく本を並べ替え始めた。
パタパタという音と、本特有の香り。
そして、耳元で響く低い声。
こんなふうにされたこと、なかった。
あの日の夜に続く、二度目の初めてに、身体がひくりと反応する。
ああ、だめ。
こんなふうに思ってるのは、私だけなのに。
ましてやここは、公共の場所で。
私にとっても彼にとっても、大切な場所なのに。
「っ……」
「ンだよ」
「た、く……っ」
ちらりと振り返ると、朝よりも近い距離に彼がいた。
どころか、棚へ伸ばしていた腕を折り、わざとのように距離が詰まる。
唇が、すぐここ。
からかうように言葉をつむぎ、かと思えばまるで……そう。
あの夜と同じように、瞳を細めた彼がそのまま顔を寄せた。
「っ……!」
数センチが消える。
鼻先がつきそうになり、慌てて目を閉じる――ものの、次の瞬間小さな笑い声が聞こえた。
「期待したろ」
「ッ……たーくん!」
「またあとでな」
「あっ……もう……!」
くしゃりと髪を撫でた彼が、何事もなかったかのようにこちらへ背を向けた。
昼の白い光を受けながら手を振られ、なんとも言えない気持ちからほんのり唇を噛むと、何か思い出したかのように、彼が足を止めた。
「あーそうだ。昼飯一緒に食おうぜ」
「……」
「ンな顔すんなって。おごってやるから」
そういう問題じゃないんだよ?
でも、彼はそういうふうに考えていることも、もしかしたらすべて範疇なのかもしれない。
眉が寄りそうになったところで、おかしそうに笑った。
「迎えにくるから」
「っ……。ん、わかった」
ああ、ずるいなぁ。
そんなふうに笑われたら、何も言えなくなるでしょう?
それとも、わかってやってるのかな。
だとしたら、とんでもない策士で……ううん、とてもとてもよく、私のことをわかっているんだろう。
……私の、こと?
そうじゃない。『彼を好きになる女性の扱い方を』かな。
「…………」
そうじゃない。そうじゃないの。
違う。
ああ、やだな。私、どうしてこんなに彼を悪く言いたいんだろう。
そうじゃないでしょう。私は……ううん、私に、彼は手を伸ばしてくれたじゃない。
彼の誕生日にこの場所で聞いた彼の噂話に出てきた女性の評価と、私の抱いているものはイコールじゃないはず。
私は、みんなの彼を知らない。
でも、私だけが見てきた彼は知っている。
……何年もブランクがあるのもそうなら、ここ最近得たたった数日という圧倒的に少ないデータかもしれないけれど。
でも、特別なのに変わりはない。
私の見てきた彼は、私だけが知っている彼。
私の好きな人、だもん。
だから、聞いてみたいの。ううん、聞いてもいい? 教えてくれる?
たーくんが今、私をどう思ってくれているのか。
「…………」
さっきみたいに腕を伸ばされるのは、彼へ気持ちを伝える前の私でもされていただろうか。
まるで抱きしめる一歩前のような距離感は、私にとって特別なものだけれど、彼にとってもイコールかどうかはわからない。
だから、そこも聞いてみていいのかな。
ちゃんと……答えてくれるかな。
『さあな』
肩をすくめて笑う姿が予想できるけれど、でも、今はさっきの言葉を受けてただ席へ戻っていようと思う。
戻り際、かすかにたーくんの香水の匂いがした気がして、つい足は止まってしまったけれど。
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