「あー……さっむ」
いつもとは違い、久しぶりに藤沢までの出張直帰で、公共交通機関での帰宅。
バス停から家までのわずかな道のりながらも、角を曲がった瞬間北風が容赦なく吹きつけて思わず顔をしかめる。
間もなく日の入りとあって、あたりはかなり薄暗くなっていた。
「あら、おかえり」
「……ただいま」
家の前の外階段に誰かいると思いきや、ほうきとチリトリを持ったお袋が、近所のおばちゃん……つーか、麻斗のお袋さんと立ち話をしていた。
この時間に家にいる時点で珍しいが、掃除してる時点でだいぶ珍しい。
中にはビオラの花びらがいくつか見え、ああそこの手入れしたのかとわかる。
「やだ、孝之君久しぶりじゃない。相変わらずイケメンねー」
「どうも」
「そういえば、麻斗が言ってたわよ。この間、ごはん食べに来てくれたんですってね。ありがとう」
「とんでもない。こっちこそ、逆にご馳走になりました」
昔から愛想のいい人だったが、それは何年経っても変わらないらしい。
今は親父さんが引退したこともありほとんど行かないらしいが、たまには店を手伝っていると聞いている。
「そうそう。お嫁さん、今ご実家?」
「…………は?」
まるで、何かを思い出したように両手を合わせた彼女が、にっこり笑った。
嫁。
ちょっと待った。
なんだそれ。どういうことだ。
どうやら俺を指さして笑ってるお袋は彼女から見えないらしく、うっかり舌打ちもできず口を結ぶしかできなかった。
「この間、回覧板届けたときは会ったんだけど、ここ最近見かけなくって。てっきり、年末年始を孝之君の実家で過ごしたから、今は帰省中なのかと思ったんだけど。違った?」
「いや……」
つーか、ちょっと待ってくれ。
どこがどうなってそうなった。
ッ……麻斗か……!
思い当たった節に一瞬目を閉じるも、わざとらしく咳払いしたお袋が声をあげる。
「そーなのよ。うちのお嫁ちゃん、実家が湯河原でねー。この時期、ちょうど梅祭りもあるから手伝いながら帰ってるの」
「あ、やっぱり? どうりで見かけないと思ったのよ。まぁかわいい子よね。そこで花壇の手入れしてるのよく見るんだけど、花が似合う子だわーって思ってたの。もー、孝之君ってばいつ結婚したのよー。お祝いあげそびれちゃったじゃない」
「いや……」
つーか、お前だお前。
それこそ息を吐くように嘘つきやがって。
ここでンなふうに言ったら、それこそもっと近所に広まるじゃねぇか。
馬鹿だろ。
っとに、意味わかんねぇ。
「あら、もう17時? 早いわねー。買い物行ってこなくちゃ。それじゃまたね、雪江ちゃん。孝之君」
「いってらっしゃーい」
ちょうど17時のチャイムが響いたこともあり、お袋さんはぶんぶん手を振ると歩いて行った。
どう言ったもんか悩みはしたが、とりあえず頭を下げ……お袋へ舌打ちすると、まるで意味がわからないみたいな顔をしやがって腹が立つ前に呆れた。
「なんで嘘つくんだよ。めんどくせぇことになんだろ」
「あら。アンタ否定しなかったじゃない。てか、一昨日隣のおばちゃんにも聞かれたわよ。結婚式の日取りが決まったんですってね、って」
「……はァ?」
「アンタから直接聞いたって言ってたけど、覚えてないの?」
思い切り顔をゆがめ――たところで、逡巡。
隣のおばちゃん。
たまたま……そう、たまたま会ったな。先週。
俺がここで車洗ってたら、そういや日取りがどうのって話をした気がする。
が。
てっきり、婦人部にも入ってるおばちゃんが振ってくるんだから自治会行事のことだと思い、『いつなの?』と聞かれて答えたのは地区の飲み会の日時。
ああ、親父さんが出かけるから気になったのかと勝手に推測したが、まったくもって違ったらしい。
……はー。
誰が結婚だ。式の日取りだ。
ンなとこまで当然話は進んじゃいない。
つか、なんでここにきて急展開なんだよ。
そりゃまぁ、羽織じゃない年頃の女がウチへ出入りし始めたら勘ぐられてもしょうがねぇけど。
だからつって、どいつもこいつもよくもまぁ見てるな。ウチのこと。
ひょっとしなくても、こういうところから噂ってのは発生するんだろうな。
「ていうか、アンタが結婚したって、だいぶ前から言われてるわよ」
「いや、否定しろよ!」
「いいじゃない別に。恭介君の許可取ったなら、同じようなもんでしょ」
「そういう問題じゃねぇだろ」
「噂の時点ならまだいいじゃない。みんな暇なんだから、花咲かせといてやれば。実際に結婚祝いでも持ってこられたなら、そのとき説明してお断りしなさい」
いやいやいや、それアウトじゃねーか。
つか、暇ってひでぇな。
まぁ、お前が一番暇だろうけど。
「で? ルナちゃん、いつ帰ってくるって?」
「いや……聞いてねぇけど」
「ふぅん。そろそろ寂しいころじゃない?」
「別に」
「そーお?」
「……その顔やめろ」
にや、とそれはそれは人が悪そうな顔で笑われ、ああこの親の血が俺に半分程度は流れてるのかと思うと残念な気持ちにはなった。
別に寂しかねーよ。
アイツがウチから姿を消して、2週間。
今ではこの生活が当たり前になりつつあるし、どうせ……元に戻っただけだしな。
「ルナちゃんがいないと、花が元気ないように見えて私は寂しいけどね」
「っ……」
先日は違った。
俺が帰ってきたとき、ここにはアイツが立ってひとつずつ丁寧に花がらをつんでいた。
新しい花が咲くと言っていたとおり、今はあのときよりも多くビオラが花開いている。
「ねぇ。ルナちゃん、どこかに連れてってあげなくていいの?」
「なんで」
「なんでって……馬鹿なの?」
「うるせぇな」
しょうがねーじゃん、こっちへ帰ってこねぇんだから。
湯河原まで出向いてもいいが、きっとアイツは俺を優先させる。
それじゃダメだろ。
アイツにはアイツの生活があって、大切な人が増えて、自分の居場所が広がりつつあるんだから。
俺がまた、茶々いれてどーすんだよ。
「はー。アンタって、ホント……」
「俺のことはいいから、親父とどっか行ってこいよ」
普段この時間にいないヤツがいることほど、鬱陶しいモノはない。
つーかなんだ。今日は休みか?
珍しくこの時間にいると思いきや、とんでもねぇ噂話を否定もせずにばら撒きやがって。
とにかく、今週は湯河原には行かない。
そういう予定でもなかったし、俺は俺で……別にひとりで時間過ごせるっつの。
「あ。ねぇ、まさかアンタまだ聞い――」
「あーあー終わり。腹減った」
しつこく引きとめようとするお袋に手を振り、そっちを見ずに階段へ向かう。
自分でもわかってることを他人に言われると、やっぱいい気はしない。
でも、しょうがねぇじゃん。
アイツにはアイツの時間が流れていて、俺とはほんの少し今は違うんだから。
……何すっかな。明日。
出勤しようと思ったら急遽休みになってしまい、持て余した。
だからこそ、玄関への階段を上りながら小さくため息が漏れる。
寂しくない、わけじゃない。
が、それを口にするほど子どもでもない。
――だから、気付かなかった。知りもしなかった。
「……ルナちゃんが帰るって、聞いてないのかしらあの子……」
と、お袋が独りごちたことは、まったく。
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