『電話してもいいかな?』
 たったひとこと送られてきたメッセージは、それこそ初めてとも言っていいものだった。
 普段、こんなセリフをアイツから聞いたことはない。
 珍しいというよりも、どちらかというと心配になる程度のもので、ふとあのとき見た表情とあいまって返答に困った。
「…………」
 本宅の鍵を開け、玄関に入ってからスマフォを取り出す。
 どこにいるかは、わからない。
 が、電話できる場所ってことは周りにさほど人がいないんじゃないのか。
 アイツならきっと、誰かの前で電話しようとは思わないだろうなってのが根拠。
 『ひと目で、お前のこと好きなんだろうなってわかる顔してるよ』
 いつだったか祐恭に言われたセリフが蘇り、だからこそ電話の時間を大事にしてくれるような気がして、な。
『もしもし』
「今いいか? つかどうした。珍しいな」
 靴を脱いで上がるも、電話ごしに聞こえる以外の声はしなかった。
 もしかしたら、どこか別の部屋にいるのかもしれない。
 そういや、本宅の中で入ったことのある部屋は限られてたな。
 普段、葉月が過ごしている部屋がどこかわからず、先日から食事のために入らせてもらった部屋のふすまを開けるものの、姿はなかった。
『ごめんね。えっと……何かあったわけじゃないんだけど』
 戸惑いがちに謝った葉月は、いつもと同じように小さく笑った。
 まわりに音は聞こえない。
 きっと静かな場所なんだろうな。
 それこそ……ここと同じように。
『この間、いつ帰ってくるんだって聞いてくれたでしょう?』
 俺がそう聞いたのは、日曜の午前中。
 葉月と一緒にあのキッズスペースにいるとき。
 なんの気なしの質問だったが、どうやら気になっていたらしく、葉月は少しだけ声のトーンを落とした。
『本当は、今週どこかでって思ったんだけど……あのね、実は明日、一度オーストラリアへ帰ることになったの』
 ぐるりと中庭を囲むように作られている廊下を進むも、軋みすらない。
 あのとき、風呂の窓越しに見えた南天の低木が目に入った――が、ちょうどそのとき、あちらがわの縁側に何か見えた気がして足が止まる。
『どこかで荷物を整理しなきゃいけなくて、それはわかってたんだけど……だから、あのね』
 言いよどむのも珍しい。
 が、一歩踏み出すと対面の廊下に私服へ着替えたアイツが腰掛けているのが見え、なおさら動けなくなった。
 別に、今ここにいるとバレたところで、アイツは笑うだけだろう。
 喜ぶかどうかはわからないものの、まぁきっと喜ぶんだろうな。
 先週、1日中働かされて本宅の玄関をくぐったとき、ひどく嬉しそうな顔で抱きついてきたのは当然しっかり覚えてるから。
『たーくんのそばにいたら、帰りたくなくなっちゃう気がしたの』
「っ……」
『もちろん、向こうへは一時的に戻るだけで、4月からはこっちの生活が待ってるのに……なんだか自分らしくないなって思って。でも……気持ちが揺らいで、返事ができなかったの。ごめんね』
 別にアイツが謝ることじゃないのに、らしくもなくまた謝罪を口にした。
 葉月には葉月の生活があって、思いもあって。
 どうしたいかを自分で決められるやつだからこそ、俺が口を出すことじゃない。
 つか、迷ってるのか。珍しい。
 まぁ不安はあるだろうよ。当然な。
 決めたとはいえ、ホントにそれでいいのか悩むタチだとわかるからこそ。
『それと……少しだけ、怖い気がして』
「怖い?」
『ん。これまでずっと向こうで暮らしていたでしょう? 友達には卒業式でちゃんとお別れしたし、中にはもう留学していたり新しい場所へ移り住んでいたりする子もいるから、そんなに強くは引かれないと思うんだけど……でも、何もかも新しいことが始まるから、もしかしたら逆に……こっちへ帰ってくるのが怖いなって思うんじゃないかって、ほんの少しだけね。そう……思ったの』
 これまでの12年、アイツはずっと向こうで過ごしてきた。
 いくら大学からは新しい生活を始める人間が多いとはいえ、葉月の場合はまた少し違う。
 生活圏だけでなく、文化圏そのものが変わる。
 これまで、ネットを通しての世界だった場所へ追いやられ、何もかも1から以上の環境で暮らす。
 友達も違えば、考え方も当然違う。
 周りすべてが変わり、そして……これまで暮らした家を手離し、友人知人全部と離れる。
 それは、ホームシックになったとしても抗えないことを意味する。
 地元に戻っても、もうそこは違う場所で。
 次のオーナーがすでに決まっている家だからこそ、まさにあともどりはできないことを意味してもいるからな。
 俺には葉月の気持ちはわからない。
 理解しようと努めることはできても、“同じ”体験はできない。
 だから、俺にできるのは話を聞くこと。
 話すことで考えや感情が整理され、自分なりに答えを出すことは促せるだろうから。
「そっか」
 ただひとこと、『俺がいる』と言ったところでなんの意味もなさない。
 安心材料に多少はなるかもしれないが、解決には至らない。
 無力とは違う、もっと圧倒的なモンのせい。
 ……だと思うしかねぇだろ。
 俺には経験できないことを、アイツは背負って決めてきたんだから。
 あとは、いかに支えてやれるか、だよな?
 恭介さんとは違う形で、俺にできることはあるだろうから。
『今日、電話したかったのは、明日一度向こうに戻ることを伝えるためと……もうひとつあって』
「どうした?」
 壁へもたれ、軽く目を閉じる。
 会わないほうがいいかもな。
 アイツは、俺と会うことで行くことを気後れするかもしれないとふんだ。
 だったら、今日はこのまま姿見せないほうがいいんじゃねぇか?
 ここまできたものの、やっぱここからあっちを覗くのはなしだな。
 俺が鈍らせるわけにいかない。
 支えてやりたい、からこそ。

『たーくんの声が聞きたかったの』

「っ……」
『矛盾してるなって自分でも思うけど……でも、やっぱりだめなの。会えないなら、せめて声だけでもって思っちゃって。どうしても、たーくんの声が聞きたくて……今週、何度も電話しそうになっちゃった』
「いや……別に電話くらいいつでもしてこいよ。聞いてやるくらいはできる」
『でも、たーくんにはたーくんの時間があるでしょう? やりたいことがあるだろうし、だから……』
「……あのな」
 律儀とは違う気の遣われ方で、大きくため息が漏れた。
 今週、俺とて電話しようかと思った瞬間はあった。
 野上さんに葉月のことを聞かれたときもそうなら、お袋に言われたときもそう。
 昨日のあの回覧板騒動のあとも、履歴を辿って……そこで終えた。
 本読む時間も、スマフォ弄る時間も、ついでに言えばうたた寝する時間も十分ある。
 家に帰ってきてから長々会話する相手なんて、今の俺にはねぇからな。
 ……その日あったことを嬉しそうに部屋まで話しにくる、アイツがいない今は。
 だが、葉月の言い分が自分とも似通っているところがあって、何も言えなかった。
 だろうなと勝手に想像して、自分で動けばいいのに『必要なら向こうが動くだろう』と動かなかった俺と。
「今度からは俺が電話すりゃいいのか」
『え……? たーくん?』
 ぼそりとつぶやいた言葉は、どうやらスピーカーから離れたせいか聞こえなかったらしい。
「履歴に残ってさえいりゃ、かけてくんだろ? 遠慮せず」
「っ……」
 廊下を一歩踏みしめ、中庭を挟んだ向こうへ声を向けた瞬間、目を丸くした葉月が――今にも泣きそうな顔をした。
「……なんで泣くんだよ」
「だ、って……どうして?」
 大股で廊下を歩くと、思った以上に音が響いた。
 途中で聞こえた硬い音はどうやら葉月が落としたらしく、角を曲がったところで床にあるスマフォが目に入る。
 両手を口元に当ててめいっぱい涙を溜めたままの葉月は、俺がすぐ隣まで行くと座ったままこちらへ手を伸ばした。
「こないだは泣かなかったくせに」
「だって……っ……会えると思わなかった」
「……らしくねぇぞ」
 しゃがんだまま抱きしめると、すがりつくように腕が回った。
 ふわりとあのときと同じ香りがし、撫でるように背中を叩く……と、胸元へ手を置いた葉月が指先で涙を拭う。
「私らしいって何?」
「は?」
「……私、そんなに強くないよ?」
「っ……」
 まっすぐ目を見てつぶやいた顔は、それこそ見たことのないもの。
 普段の葉月からは想像つかない、それこそ小さな子そのものみたいな顔で、意外さに目が丸くなる。
 が、俺のせいだな。確かに。
 いや。
 俺だけじゃなくて、勝手に葉月の見た目から受け取った印象で形作った、大勢のやつらも同罪か。
「悪かった」
 きっと、だろう、と勝手な予想は散々してきた。
 今週もそうだ。
 きっと俺が電話したら喜ぶだろうが、かえって邪魔になるかもしれない。
 多分、女将や美月さん、そして恭介さんたちと楽しくやっているだろうから、時間を奪うことはない。
 ……散々やらかした。
 コイツだけじゃない。
 俺とて、歩み寄ればここまでならなかっただろうな。

 寂しかったくせに。

 壮士に言われたとき鼻で笑ったが、それは図星だったせいか。
「たーくん……どうしてここにいるの?」
「……あーまぁ、なんだ。ちょっとな」
「今週は、忙しいんじゃなかった?」
「忙しいっつーか……もともと仕事の予定だったんだよ。それがなくなって、急遽壮士と遊ぶハメになった」
「そうなの? えっと……それじゃあ、鷹塚先生は?」
 言おうか言うまいか悩みはしたが、結局言うはめになった。
 答えずに流浪葉の方向を指で示すと、不思議そうな顔をしたものの、『あ』と声を漏らす。
「え……鷹塚先生、今、待ってくれてるの……?」
「待ってるつーか、風呂入ってるだろうな。もしくは、なんか食ってるか」
 アイツ、ホント世話焼きだな。
 むしろ、こうなるとわかったらどこか嬉しそうに笑いやがって。
 ……人の世話やいてなんぼ、みたいなモンなんだろうか。
 俺にはちょっとわからないが、教員てのは確かに、誰かのために動きたがる人間が多いような気はする。
「明日、何時の飛行機だ?」
「8時ごろだったと思うよ。向こうに着くころにはもう、夕方だね」
 廊下へ膝をついて座り直し、無意識かわからないが髪に触れていた。
 今はもう涙はないことが、若干ほっとする。
 着物のときとは違い、普段“家”で見ていたのと同じ、ハーフアップ。
 こちらを見上げた途端、さらりと流れたのを見て、つまむように指先で弄っていた。
「明日は……ううん、今回は、美月さんも一緒に行くの」
「へぇ。家族旅行か」
「ん。あのね、向こうで……本当に親しい人たちだけを呼んで、小さなパーティーをしようってお父さんと計画したの」
 柔らかく笑った葉月が、『喜んでくれたらいいな』と囁いた。
 その口ぶりからして、もしかしたら美月さんには内緒なのかもしれない。
 それでも、3人で向こうへ……それこそ、恭介さんと葉月のふたりにとっての生活圏へ彼女を伴うということは、お披露目会ではあるんだろう。
 新しい生活を始めるためであり、これまでの完成形でもあり。
 ふたりにとっては、必須なんだろうな。
「だから、こっちへ戻ってくるのは……早く帰ってきたいなって思ってるんだけど……ちょっとまだ、わからなくて」
「んじゃ、戻ってくるとき連絡しろ。迎えに行ってやるから」
「え……?」
「冬瀬駅でもいいし……お前が先にひとりで帰ってくるなら、成田でも羽田でも行ってやる」
 前回、葉月はひとりで帰国した。
 12月は恭介さんと一緒だったみたいだが、じゃあ次回も確実かといわれるとなんともいえない。
 とはいえ、あのことがあった今はもう、ひとりで動かせるはずもなく。
 きっと、恭介さんもわかってはいるだろうが、動ける人間がいる以上、頼ってくれればなとは多少思った。
 ……俺が言ったらなんか怒られそうだけど、葉月が言い出すぶんにはいいだろ。きっと。
 俺がそばにいれば、コイツが危ない目に遭うよりよっぽど合理的だろうからな。
「ありがとう、たーくん」
 嬉しそうに笑った葉月が、首をかしげた。
 襟ぐりの開いたセーターのおかげで、ちらりと視線が落ちかける。
 どこへって当然、陰を作っている胸元へ。
 ……ああ、そういやアレだな。
 1週間前、自分がしたことがふと浮かぶ。
「え……?」
「ここ。薄くなったろ」
「ここって……?」
 つい、と指先だけで襟元を開き、そっと――鎖骨より、少し下まで露わにする。
 と、先日よりもずっと薄くなったモノがあった。
「まっ……たーくっ……!」
 俺が顔を寄せたことで思い出したらしく、慌てたように葉月が両手で身体を押した。
 いや、そこは素直に受け取っておけよ。
 そう。
 それこそ、減るもんじゃなし、むしろ増えるほうなんだから。
「んっ……!」
 唇を当て、キツく吸いつく。
 ふわりと香ったのは、練り香水とは違う香り。
 最後の仕上げとばかりにちろりと舐めると、くすぐったそうに肩を震わせた。
「……もう……こんな……」
「あー、ドレス着るのか。もしかして」
「それは……着る、けど……」
「んじゃ、隠れるヤツにしとけ。じゃねぇと俺が恭介さんにシバかれる」
 不服そうというよりは恥ずかしそうに眉を寄せた葉月へ、指を向けて念押し。
 ああ、知らなかったよ。そりゃあな。
 これまで、こんなふうに敢えて“所有”示す必要なんてなかったんだから。
 でも……思い出すだろ? これがあれば。
 嫌でも毎日目に入る場所だろうから。
「なんだよ」
「……もう」
「いや、そこはよろこ――っ……」
 頬へ手を当てられたと思いきや、葉月は目の前で小さく笑うとこちらへ顔を寄せた。
 まさか、の仕草に目が丸くなる。
 それこそ、背伸びとは違う体勢。
 あの夜とは反対に、俺が引き寄せられる格好になった。
「……っ……」
 濡れた音がすぐここで響く。
 かすかな息遣いも、漏れる声も。
 吹く風は夕方特有の冷たさを持っていたが、吐息は十分温かかった。
「……んっ!」
「はー……」
「たー、くっ……」
「……シたくなるだろ」
「え……?」
「なんでもない」
 なんでもなかねぇけど、なんでもないにしとけ。
 唇を離してすぐ、もたれるように抱きしめると、一瞬よろけはしたものの身体を支えた。
 細くて、柔らかくて。
 胸ががっつり当たるからこそ、身体は正直に反応する。
「……たーくん……?」
「早く帰ってこいよ」
「っ……」
「俺が待ってンだから」
 目を見て言うことはできず、耳元でだけ囁く。
 すると、一瞬身体を震わせたものの、葉月はなぜか俺の髪を撫でながらどこか嬉しそうに笑った。

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