「瀬那君、こっち!」
「っ……ちょ、待ってくださいって!」
「ほらほら、早くしないと間に合わないから!」
「いやっ……! あーー今行きます!」
まさに目が回る忙しさを身を持って体験することになって数時間。
さすがの俺も、せめて水でいいから飲ませてくれと思うレベル。
つか、今ってまだ1月だよな?
なのに、なんでこんな暑いんだよ!
「くっ……」
シャツの袖で額を拭い、奥歯を噛みしめる。
ああもうなんでこうなった。
つか、どうして俺は今こんなことしてる!
何もかも納得いかない部分で、まさに解せない状態。
だが、『はい』以外口にすることができないのもあり、日常とは差がありすぎるストレスを実感する。
別に、非日常が嫌いなわけじゃない。
かといって、突然ぶちこまれた俺の身にもなってくんねぇか。
「あー、きちぃ」
鈍く痛む腰に手を当て、伸びの代わりに深呼吸ひとつ。
だが、俺より数メートル先を法被翻しながら颯爽と歩く彼は、すぐに気づいて振り返った。
「瀬那君! 行くよ!」
「ッ……今行きます!」
ギリ、と奥歯がきしんだが、ひょっとしたら多少欠けたかもしれない。
先日のことは、もはや思い出したくないほどのトラウマレベルになっている。
あの帰りの車内は、もうほんと……ストレスで死ぬかと思った。
「それで?」
「で、って……?」
乗り込んだ恭介さんは、エンジンがかかってすぐ当たり前のようにオーディオを切った。
プツリと途絶えた音が俺の寿命とリンクしてそうな音で、ぎくりと肩が震えたほど。
「端的でいい。つまりお前は今、葉月とどういう状況になっている」
シートを倒すと同時に後方へ下げた恭介さんは、やや苛立たしげに……いや、やや、じゃねぇよ。
がっつり苛立ちながら足を組んだ。
彼の動作ひとつひとつがやけにデカい音を立て、精神力がガンガン削られていく。
「……葉月に告られた」
「それで?」
「…………俺なりに答えは出したけど」
なんでこういうタイミングで、赤信号になるのか。
減速せざるをえず、どうしたって助手席へ意識が向かう形になり、ちらりと……見て後悔した。
あーーーやっべぇ。
絶対怒ってる顔じゃん。
腕を組んだまま前の車を見つめてはいるが、それこそ運転手がバックミラー越しに見たらすくみあがるかもしれない。
「お前が『答えが出た』と葉月へ言ったのは聞いた。が、まさかうちの娘について悩んでたとは微塵も思わなかった」
あのとき俺は、恭介さんに一般論的な意味合いでたずねた。
葉月のことを云々というよりも、単純に、好きっていう感情そのものがよくわからなかった。
好きじゃない相手でもキスはできるし、セックスだってできる。
その先にあるのは心の繋がりなんていう目に見えないものじゃなくて、単なる欲の果て。
一緒にいたいとか、手を繋ぎたいとか、抱きしめてほしいとか。
そういう言葉を並べられたことは何度もあったが、俺が相手へ求めることはなかった。
別に、生い立ちに問題があった……とは思ってない。
小さいころから両親は仲もよかったし、当たり前のように並んで座り、手を繋ぎ、ハグだろうとなんだろうとしてた気もする。
……だからこそ、かもしれねぇけど。
思春期になった息子の前でベタベタするのが、なんとなく嫌な気持ちにはなった。
さすがに中学になってからふたりのそういう日常は見なくなったが、小学生高学年ともなれば、嫌悪感を示して当たり前。
親とはいえ、自分とは違う価値観の人間。
……まぁ単純に、恭介さんの話とか学校の性教育とかで勝手に親で想像して、うわってなったからかもしんねぇけど。
あー、振り返ってみるとそういうトコなんじゃねーか。実は。
とどのつまりは、まぁ、恭介さんのせいでもあるってこと。
「…………」
とは思うが、言えない。
ンな責任転嫁してこの密室空間でガチギレされたら、車ごと消える。
「俺がなぜ、葉月相手だと考えなかったのかわかるか?」
「いや、そりゃ……俺のこれまでの生き方じゃねぇの?」
「わかってるじゃないか」
つか、嘲笑じゃねーか。今のそれこそ。
ひでぇ。
小さいころから見てきた“先輩”そのものをなぞって生きただけなのに、ンな反応されるとはね。
まぁしょうがねーけどさ。
俺だってまさか、葉月に手を出すことになるとは思わなかったんだから。
でもだからそれは恭介さんが……あー。言いたくはなるけど、言わないって。だから。
「ならば改めて聞こう。なぜ葉月なんだ」
「っ……」
なぜ。
あのときも言われた理由を問う質問に、小さく喉が鳴る。
なぜ。
なぜ、葉月である理由があるのか。
ねばならない、のか。
ンなの……ひとつしかない。
好きになった、から。
だが、それを言ったところで納得してもらえるかどうか、ひどく怪しい。
抽象的であり、それこそ主観的でしかない感情。
だけど、そういうもんなんだろ?
人を好きになるってことは。
「……ほかの男がアイツへ手を出したら、おもしろくないと思った」
車線を変えて前の車を追い越し、見えてきた看板を冬瀬方面へ進む。
右折レーンへ入ると、左側に幾つもの建物に混じってショッピングモールが見えた。
……あれからまだ、数時間しか経ってないのにな。
ほんと、何が起こるか予測つかねぇのが人生だぜ。
「ほう。それは今まで付き合った連中には感じなかったのか?」
「そうだな……なかったんじゃねぇの。俺と付き合ってるって言いながら、ほかのヤツとヤってるのも何人か知ってるし」
「それを知ったとき、どう思った?」
「どうって……難しいな。へぇ、くらいにしか思わなかったかな。別に、付き合ってるったって俺からあえて連絡取ることしなかったし、あっちが欲求不満でシたいときに会うくらいだったから」
「なぜ自分から会おうとしなかった?」
「いや、別に友達連中と遊んでて十分楽しかったからじゃねーの? ヤらずとも、それこそはけ口なんていっぱいあるし。単純に、どうしても抱きたいって思うほど、たまったことがねぇからかもしんねーけど」
車が流れてるおかげで、恭介さんを見ることなく話が進む。
運転に集中してる分、返答のほうが当然おろそか。
だが、どれもこれも本音。
ああ、俺って意外と器用なのかも。
「ならお前、あのとき葉月で想像したんだな?」
「あのときって?」
ちょうど、自宅そばの交差点で右にウィンカーを出し、対向車を持つ。
夕方とあってライトをつけている車が増えたことで、ああ俺もつけなきゃな、なんて意識が逸れたのがひょっとしたらマズかったのかもしれない。
「女将の家の風呂で話したろ。今この時間に、ほかの男に抱かれてると想像したらどう思うかと」
「あー、アレね」
「お前、頭の中であの子を脱がせたんじゃないのか?」
「え?」
横断歩道の歩行者を確認しながらハンドルを切ったとき、ふいに聞こえたセリフで一瞬意識がそちらに向く。
脱がせる。
まさに、どが付くほどストレートな表現で、葉月が今日着てたトップスへ手を伸ばしたらどんな顔するかうっかり想像した。
「………うわ!」
「反芻するんじゃない。殺すぞ」
「っ……」
黙ったのを勘違いされたらしく、我が家のガレージが見えたところで左サイドミラーを確認しようとしたら、恭介さんがものすごい恐い顔して俺の顔を覗きこんだ。
いや、勘違いじゃねぇけど。
うっかり半分程度は脱がせて、いつもよりよっぽど余裕なくした顔まで想像した。
てか、この歳でまさか慕ってた叔父貴に『殺す』発言されるとは思わなかったぜ。
やべぇ人じゃん。ガチで。
あー……甥っ子の俺なら、どっかで許してくれるんじゃねぇかと思ってたんだけどな。
まさか、これほどまでに嫌悪感丸出しにされるとは思わず、さすがにヘコんだ。
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