「……眠い」
目がチカチカする。
朝5時ぴったりに大浴場へ向かうと、ちょうど女湯と男湯の暖簾がかけ変わったところだったらしく、スタッフが『一番風呂ですよ』と笑った。
まさか、ホントに宣言どおりになるとは思わなかったが、寝れなかった以上仕方ない。
我ながらあそこまで根詰めてやるとは思わなかったが、曲を流しながらやっていたら打ち込みの残りが30冊になり、ならば……とスパートをかけた、のがまずかったとは思ってる。
多少はな。
それでも、言いだした仕事がきっちり終わったのは達成感があり、終わったと同時に眠気が一気に来た。
ちなみに、恭介さんはあのあとさらにもう1本飲んでから帰った。
さすがに、食いかけのつまみ類と残ったロング缶は持ち帰ってもらったが、ホントよくもまぁあんだけ飲むもんだと感心する。
しかも、前だかあとだか知らねぇけど、美月さんが部屋にいたってことはそういうことで。
……はー。
っとにウチの叔父貴は、ハイスペックだぜ。
「あら。孝之君、おはよう」
「っ……」
「どうしたの?」
「あー……いや。おはようございます」
部屋へ戻るべくエレベーターを待っていたら、ちょうど中から美月さんが出てきた。
普段とは違い、洋服姿。
しかも髪を下ろしていて、より若く感じる。
「…………」
まだ、6時前。
ここにいるってことは……そういうこと、か?
と、ヘンな邪推したらそれだけで叩き斬られそうだから、やめやめ。
不思議そうな顔の彼女へ慌てて手を振り、まったく違う方向の話題を引っ張り出す。
「昨日はありがとうございました」
「え?」
「葉月の門限と……ラウンジのこと」
不思議そうな彼女へ小さく頭を下げると、葉月とよく似た笑みを浮かべて頬へ手を当てた。
「葉月、とっても嬉しそうな顔してたわ」
「……そんなでした?」
「ええ。恭介君が妬くくらいにはね」
「っ……」
くすくす笑いながら放たれたひとことは、なかなかに破壊力があった。
が、そんな彼を引き留めてくれたのは間違いなく彼女の力で。
改めて、すげぇ人だなとも感じる。
「葉月のこと、よろしくね」
「いや……こっちこそ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げられ、慌てて彼女にならう。
こっちこそ――恭介さんを、今後ともどうぞよろしく。
差し支えなければ、もう少しだけ彼からの監視が緩まると何よりなんすけどね。
……さすがに言わねぇけど。
「あ。今日は葉月が朝食を作るって言ってたから、もしよかったら手伝ってあげてね」
「そうなんすか?」
「ええ。もう起きてるはずよ。今日、お母さんは休みだから、朝は起きてこないと思うの。昨日も孝之君と飲んだあと、恭介君とまた飲みなおしてたから……どのみち起きられないわね」
あー、まさにザル同士。
苦笑した美月さんは、『ふたりともよく飲むわね』とどこか諦めたように口にした。
「……恭介さんは?」
「恭介君なら、起きてお風呂へ行ったはずだけど……会わなかった?」
「いや、会ってないっす」
風呂ってことは、ここだよな。
脱衣所でも会わなかったし、人が少なかったからほぼほぼ見渡せてはいたが会わなかった。
……まぁ、もしかしたら髪乾かしたとき入れ違ったかもしんねぇけど。
あとはサウナとかな。
…………居そう。
まぁぶっちゃけ、会わなくてよかったけど。なんとなく。
「私たちを待たなくていいから、先に食べてね」
「あー、一応伝えときます」
「ありがとう」
にっこり笑った彼女へ頭を下げ、改めてエレベーターのボタンを押す。
女将が起きてない、本宅。
ひとり、朝飯を作ってるってことは……ある意味、出勤の土曜日みてぇなもんだな。
先週味わったはずなのに、もうずっと違ったような気がする程度には、今週もめまぐるしかった。
ただ……変わったものは、多い。
「…………」
なにより、恭介さんに隠さなくてよくなったってのはデカいな。
なんとかなったし、一応はがんばったってことだよな。
お袋や女将に言われたセリフが蘇り、口を開けたエレベーターへ乗り込みながら小さく笑みが漏れた。
「わぁ……こんなところがあったんだね」
「お前も来なかったのか?」
「うん。私は基本、フロントのそばで手伝ってたから」
葉月を伴ってやってきたのは、図書室にもなりつつあるキッズスペース。
チェックアウト前とあってか昨日よりも家族連れが多かった。
中には、昨日の読み聞かせに来てくれた親子もおり、あの元気のいい男の子は俺を見つけると『昨日の続きは!?』とタックルをかましてきた。
「すみません、うちの子が……」
「いえ、自分も昔は似たような感じでしたから」
恐縮そうな母親へ手を振り、頭をわしわし撫でる。
そのまま、昨日読んだ本のシリーズがある場所を伝えると、嬉々とした様子で駆けていった。
「たーくんに似てるんだね」
「多少はな」
まぁ、さすがに大人へタックルしなかったけど。
興味津々そうに学年がいくつも上の児童書を見て『読めるし』と威張ってるところは、少なくともそっくりだな。
「でも、本当によかったの? 明日もお仕事なのに……」
「あと少しで終わるからな。どうせなら、きっちりカタつけてすっきり帰りてぇじゃん」
本宅で葉月とふたりきりの朝食を終えたころ、女将が起きてきた。
珍しく着替えていなかったが、俺を見て『まだいたのかい。早く帰りな』と言ったところから、どうやら今日は働かせるつもりじゃなかったらしいとわかった。
が、今朝方までやったとは伏せて蔵書のデータの話をしたうえで、午前中だけ残らせてもらうことを打診。
意外そうなというよりは、最終的に奇異なものでも見るような目で『物好きだね』とひとこと笑われた。
「つーか、お前こそよかったのか? せっかくだし、恭介さんたちと出かければよかったのに」
今日は美月さんも14時から仕事だそうで、ランチをかねて出かけることになっていたそうだった。
ふたりとて葉月と一緒に出かけるつもりだったようだが、逆に葉月は驚いていて。
俺の手伝いをするからとふたりを断り、こうして今に至る。
「だって、せっかくのデートなのに邪魔しちゃうのはもったいないでしょう?」
「いや、それこそ家族団欒だろ? ハナから、ふたりともお前のこと頭数に入れてたじゃん」
「んー、そうなんだけれど……知らなかったから、ちょっとだけ悪いことしちゃったかな」
恭介さんは残念そうだったが、美月さんは俺と葉月を交互に見つめると小さく笑っていた。
……どうか今も、恭介さんへ理由が伝わってませんように。
きっと、俺がここにいなかったら、葉月は喜んでふたりと出かけていただろうから。
「それに……もう。びっくりしたんだよ?」
「何が?」
「……ここ。今朝、着替えたときに気づいたけれど……美月さんに見つかりそうになって、どきどきしたんだから」
不服そうな顔なのに、うっすらと頬が赤い。
あー、気づいたか。
むしろ感謝しろって。
黙ったままなら、今ごろもっとからかわれてただろうから。
「忠告してやったろ」
「だって、もう…………もう」
唇を尖らせたものの、まるで反芻するかのように頬を染め、それはそれでなかなか悪くない反応だとは思った。
だからまぁ……次も文句言うなよ。
そンときはさすがに、忠告はしない。
二度目だからな。俺がどう動いたら付くことになるのか、覚えたらいいんじゃねーの。
「おー、すごいな。こんなに整理されたんだ」
カッター片手にシートへ切れ込みを入れたところで、ちょうど声がかかった。
顔を上げると……ついさっき貸してほしいものの連絡をした、簗瀬さんその人。
両手で持ってきてくれた依頼物をテーブルへ置くと、にこにこと人がよさそうな笑顔を見せた。
「大変だったでしょう。ありがとう、すごくいいね」
「そんなふうに言ってもらえて、こっちこそ嬉しいですよ」
両手を腰に当てながら大きくうなずかれ、ありがたい気持ちから笑みが浮かぶ。
だが、簗瀬さんは反対に、俺を見て申し訳なさそうに眉を寄せた。
「悪かったね。休み、全部こっちで使ってくれたんだって? 恭介君の言葉を真に受けるもんじゃないな」
「いや、自分も貴重な経験させてもらえましたし、勉強になりました」
すまなかったね、とさらに続けられてしまい、首を振って否定する。
恭介さんの甥とはいえ、どんな人間かわからなかったはずだし、何より、どんなことをさせればいいか悩んだはずだ。
にもかかわらず信じてくれて、いろいろなことを教えてくれた彼には、感謝しかない。
「今後も……なるべく、ここに来れるように定期的に調整します。だからまた、俺にできることさせてください」
一応は、読み聞かせやパネルシアターなどについて資料をまとめ、蔵書のデータとともに渡してある。
聞くと、どうやらスタッフの中にはやはり小学校で読み聞かせのボランティアをしていた人が数名おり、引き受けてくれそうだとは聞いた。
少しずつ、何かが変わるんじゃないかとは思う。
だがそれは、こうして場を与えて実際に動かさせてくれたおかげ。
「君、恭介君に似てないな」
「え?」
「ね。葉月ちゃんもそう思うでしょ?」
「ふふ。そうかもしれません」
まじまじ俺を見つめた彼が、ふっと笑った。
まるで遠い昔を思い出すかのようなまなざしに思わずまばたくと、くすくす笑う葉月へ同意を求める。
……似てない、ね。
まぁ確かに、恭介さんは俺と違ってもっと枠のある人間だからな。
ほんの少しだけ残念な気持ちにはなるが、仕方ないかとも思う。
「そんなに律儀でひたむきなところ、彼はなかったよ」
「っ……」
「ありがとう。定期的に会えるの、楽しみにしてるから」
「ぅ。がんばります」
「タダなのに豪勢なお昼と、源泉かけ流しの温泉が待ってるよ」
「はは。かえって高くつきそうすね」
からから笑った彼が右手を差し出し、力強く握られた。
そのまま肩を叩かれ、『がんばれよ』と謎の励ましを受ける。
…………。
……あれ、もしかして葉月のこと言われたのか?
ちらりと当人を見るとまったく気づいてはいないようで、俺を見て不思議そうな顔をした。
「それじゃ、あんまり根詰めないでやってね」
「ありがとうございます」
「葉月ちゃん、あとで恭介君に部屋のゴミまとめて捨てといてって伝えて」
「わかりました」
簗瀬さんは入り口へ向かい、俺と葉月それぞれへ声をかけた。
大きく手を振られ、代わりに頭を下げる。
人の出会いって、ほんと貴重だな。
どうやら俺は、大人の手本に恵まれるタチらしい。
そういう意味では今回の無茶な3連休も、実りだとは思えた。
「……お前器用だな」
「え? そうかな?」
「すげぇそっくり」
本の整理を終えたため、俺がこれからするのは書架表示板作り。
簗瀬さんに貸してもらったラベル作成キットで、ちまちま手貼りを繰り返せば完成というある意味単純作業。
大人用はざっくりした表記でも十分だろうとふんで片手ほどの枚数で平気そうたが、さすがに子ども用はそういかず、シリーズでわけて作ることにした。
そんな俺が取りかる前に葉月が始めたのは、壁の掲示物作成。
昨日の読み聞かせのあと、簗瀬さんが『使うかなと思って』とくれた色画用紙を利用して作り始めたらしいが、下書きもなしに元にしたイラストそのものを作り上げていた。
しかも、この短時間の間に。
……まさか、コイツにこんな能力があったとは。
ちなみに、葉月のスマフォに表示されているのは、湯河原町のゆるキャラのたぬき。
作りやすそうで意外とバランスが難しそうだが、葉月はすでに2体目へ取りかかっている。
「つーかお前、ウチへ帰ってこないのか?」
「え?」
「……まぁ別にいいんだけど」
ついうっかり、昨日口にしたセリフが出そうになり、閉口。
寂しいわけじゃない。
ただ……少し前までの日常と違う、と思ってしまっただけ。
女将は今朝、俺を見て『早く帰れ』と言っていたが、葉月には言わなかった。
ということは……ということ、だろ?
別に悪いわけじゃないし、今だからこそこっちでの時間が大切なのはわかっている。
だが……なんとなく、な。
つい漏れたんだよ。うっかり。
「ねぇたーくん」
「あ?」
「今度、私とデートしてくれる?」
「……っやべ、間違った」
まじまじ見つめられ、うっかりボタンを押し間違えた。
たちまち、間違った文字が印字され、ずらりとエラーが出てくる。
……あー。やらかした。
つーか、お前がンな顔するからだぞ。
それこそ、つい先日までとは違う、色っぽさがある表情。
これが――昨日のあの時間を経たからだとしたら、その先まで進んだときのカオが当然気にはなる。
「この間言ってくれたでしょう? 暇なら、一緒に出かけてくれるって」
「……御殿場のカフェか?」
「ん。いつなら平気?」
てっきり、その話の途中で恭介さんとすりかわっていたんだと思ったが、ちゃんと伝わっていたらしい。
だったら早く言えって。
聞いてたなら、この時間はもう少し違う過ごし方にしてたっつの。
「今日休みなんだろ? 天気もいいし、早めに出ようぜ」
「え……今日行ってくれるの? これから?」
「せっかくここまで来たし、元々行こうと思ってたからな。それに、今日なら夜遅くなっても平気だろ? ちゃんと送る」
ここから御殿場まではさほど離れてないが、まぁ……今日くらい許してくれんじゃねーの。
と、勝手な希望的観測を打ちたて、改めてラベルに印字する文字を打ち込む。
だが、葉月は迷うかのように手を止めた。
「いいんだって。俺が行きたいんだから、付き合えよ」
「っ……」
印字されたラベルを取り、新たな表示板へ。
あと少し。
どうせなら有意義な時間を満喫して、また始まるいつもの日常に備えりゃいいんだから。
「ありがとう」
「んじゃ、さくっとそれ作ったら一旦終わりな。あとはお前のセンスに託すから、頼むぞ」
さすがに来週は来ない。
だから……できることなら、どっかで帰ってこいよ。
ないかもしれないし、あるかもしれない。
が、少なくとも今日は“ある”時間。
「ん。がんばるね」
手を伸ばして葉月の頭に置くと、くすぐったそうに笑ってうなずいた。
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