「いいお天気」
 これまでいた場所から見上げる空と同じはずなのに、違う気がする。
 気のせいだろうけれど、でも、“見える”広さが違うという意味では、明らかに別物なんだろう。
 お天気もよく、雲が少ない青空。
 芝生の広がるガーデンへ足を踏み入れると、飾り付けされている風船やリボンが風に揺れていた。
 普段しない大粒のアクセサリを身に着け、わずかな風でも動きを見せる軽やかな服を纏う。
 でも、だからこそ日傘と日焼け止めは決して手放すことができない。
 これが、私にとっての当たり前。
 日本とは正反対の場所に位置するオーストラリアに来てからは、外に出るときはつばの広い帽子をかぶって、日焼け止めも念入りに重ね塗りするようにと教わった。
 日本にいたときは、全然しなかったこと。
 でも、それがこれからの当たり前だからとお父さんやお手伝いさんにも言われた。
 だから、日本が少し羨ましかった。
 晴れた日は、喜びながら思いきり太陽を浴びて、空を見上げるように歩けたから。
 きっと、本当は今の日本では日焼け止めが必須なんだろうけれど、晴れた日に洗濯物を干しながら、庭にいるのが好きだった。
 ガーデニングはこっちでもしていたけれど、あの家に居候させてもらうようになってからは、もっと好きになったんだよね。
「…………」
 でも。
 たーくんと同じあの家で過ごす時間よりも、最近は湯河原でのほうが長くなっていた。
 おばあちゃんと美月さん、そしてお父さんの3人と一緒の生活は、毎日新しい発見があってとても楽しい。
 自治会の集まりと言いながらおばあちゃんが私を近所の方たちへ紹介してくれたり、昔馴染みだといわれているお客様へ、美月さんが嬉しそうに『娘なの』と紹介してくれたり。
 お父さんと一緒に『お世話になってます』と頭を下げることが、ここ最近の“日常”になっていた。
 たくさんの人と接することは、実はそんなに得意じゃない。
 疲れてしまうのもあるけれど、なんだかこう、いろんなことを考えなければならなくて、少しだけ……大変な気持ちになるから。
 だけど、接する人たちがみんな笑顔で迎えてくれることはとても特別で、晴れやかな気持ちになる。
 初めましての私を受け入れてくれて、あたかも“当たり前”のように認めてくれることは、やっぱり特別な気持ちになった。
「…………」
 平日は少しだけめまぐるしい生活をしているから、あまりゆったり考える時間がなくて……実はそれは私にとってありがたい面もある。
 だって、ひとりでいるとつい思い出しちゃうんだもん。
 “どうしてここに、たーくんがいないんだろう”って。
 12月の、彼の誕生日。
 ストレートに伝えた気持ちは違うほうへ向いたものの、1ヶ月と経たないうちに思ってもなかった展開を見せた。
 まさか、たーくんが私に手を伸ばしてくれるようになるなんて、思わなかった。
 たくさんの人が必要として、それこそ“手に入れたい”と願われる人が、『従妹だろ』と笑った私を相手として見てくれるようになるなんて、本当に夢のようだった。

『俺の女になるか?』

 まっすぐに目を見てつぶやかれた言葉は、思った以上に身体を震わせて。
 ああ、好きになった人に手を伸ばしてもらえることが、こんなにもどきどきして苦しくて……だけど、もっと、と欲を持つようになるなんて、思いもしなかった。
「…………」
 今、たーくんはここにいない。
 先週の土曜日の夕方、もっと手伝いを……と美月さんへ伝えたものの、困ったように笑われてしまった。
『あなたはあなたで、自分の時間を過ごしていいのよ』と。
 ……でも、あの言葉で困ったのは、きっと気づかれてしまったんだろうな。
 したいこと、やりたいことなんて……あるけれど、ないんだもん。
 当たり前の日常の中にあった、たーくんの存在が湯河原にはなくて。
 彼へコーヒーを淹れることも、畳んだ洗濯物を部屋まで持っていくことも、交わす他愛ない会話も……湯河原では手に入らないからこそ、どうしようって素直に思った。
 だから、ついあんなメッセージを送ったの。
 きっと、休みの日だからこそたーくんには自分の“やりたいこと”を優先する権利があるのに、つい“私がしたいこと”を優先させたせいで。
 でも、まさか同じ場所に彼がいるとは思わなくて、咄嗟に身体が動かなかった。
 ……あんなふうに泣いたら、困るよね。
 今になって振り返ると、子どもよりもずっと子どもっぽい反応をしたことが、恥ずかしいなと思う。
 だけど、本当に嬉しかったの。
 声を聞きたいと願った人がそこにいて、触れることができたことが。
 そして――。
「っ……」
 私の背丈よりもずっと大きなガラス扉へ、まるで姿見のように自分の姿が映った。
 シフォン素材の、淡い水色のドレス。
 胸元にあしらわれている紺のリボンは、首の後ろで結ばれている。
 ……本当は、違うドレスにするつもりだったんだけど……これじゃないと、隠れないんだもん。
 たーくんが知ったら、どんな顔するだろう。
 そっと鎖骨の少し下へ触れると、思い出したせいかどきどきした。
 『早く帰ってこいよ』と言ってくれた言葉は、私にとって大きなお守りにもなっている。
 ほんの少しだけ、怖かった。
 こっちへ戻ることで、また気持ちが鈍るんじゃないか、と。
 でも……大丈夫。
 ちゃんと自分なりにけじめをつけて、お別れのあいさつをして……新しい生活へ行くんだから。
 ……彼が待ってくれている場所へ、戻るために。
 ああ、戻る前にたくさん写真を撮って帰らないと。
 思い出を残す意味ももちろんあるけれど、ひとつひとつ小さな思い出を彼へ伝えながら、私の話を聞いてもらうためにも。
「天気もよくて何よりだ」
「え? お父さん……もういいの?」
「ん?」
「美月さんは?」
「着替え中だ」
 ガラスに映る姿を見ながらリボンの形を整えていたら、すぐ後ろにお父さんが立った。
 さっき私がしたのと同じように空を見上げ、眩しそうに片手をかざす。
 普段と違って、スーツ姿でもラフな格好でもなく……袴姿。
 黒い羽織に黒い着物、そしてグレーの袴をまとっている姿は、いかにも礼装そのもの。
 赤い番傘を片手にしているけれど、これが刀だったらそれこそ演舞さながらだなと少しだけおかしい。
 今日はごく親しい方たちを招いたパーティー。
 バラの木々でぐるりと囲われている芝生の庭は、まるでアリスのお茶会を彷彿とさせる立地で。
 真っ白いテーブルと椅子が、緑にとてもよく映える。
 タキシードもいいけれど、日本の正装はこれだろう、とお父さんは譲らなかった。
 もっとも、美月さんが着物を選んだことで必然的にこうなったようだけれど。
 ……でもね?
 実は、美月さんには内緒だけど、今日はもう1着用意されている。
 ロングヴェールに、たっぷりとしたレースとドレープがあしらわれている、真っ白いウェディングドレスが。
 今日、美月さんは“パーティー”だとしか聞いていないはず。
 だけど……実際には、その前にもうひとつイベントがあるの。
 グリーンの芝生の中央、椅子だけが並べられているあそこは……バージンロードだ。
 真っ白いバラの花びらで象られている“道”が、まっすぐに聖書台まで伸びている。
 彼女は知らない。
 今日、ここでささやかながら結婚式が行われることを。
「美月さん、喜んでくれるかな?」
「だといいな。お前がここまで企画してくれたんだ。俺としては、こんな光栄なことはないよ」
 もともと今日は、ただの立食パーティーのはずだった。
 というのは、お父さんも美月さんも『式はしない』と言い張ったから。
 ……でもね?
 結婚式は、やっぱり大切なものだと思うの。
 ましてや、真っ白いウェディングドレスと神父様の前での宣誓は、私にとっても憧れそのもので。
 だから、無理を承知でお父さんにだけ打ち明けた。
 『どうしても、ふたりの結婚式を挙げてほしい』と。
 私にとって大切な人の、ハレの姿を見ることができる日を大切にしたかった。
 きちんと撮影したうえで、残しておきたかった。
 みんなが幸せそうな顔を見ることは、私にとって何よりの喜びで。
 目の前でプロポーズを見たからこそ、きちんと形に残してほしかった。
 ……なんて、わがままかもしれないけれどね。
「え?」
「お前が娘で、誇りに思うよ」
 ぽんぽん、と頭を撫でられて見上げると、お父さんがそれはそれは柔らかく笑った。
 でも……こんなふうにされるのは、久しぶり。
 最近はそれこそ――たーくんが、してくれることだから。
「私も」
 ふふ、と笑ってうなずいたものの、ほんの少しだけ寂しさを感じてしまう。
 たーくんはいない。
 こうして私の髪を撫でてくれる彼が、今ここには。
 ……でも、だからこそ。
 ちゃんとビデオと写真に残して、見てもらうつもりだ。
 そうすることで、一緒に過ごせる時間が増えると知っているから。

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