「……いいお天気」
 晴ればれとした、青い空が広がる朝。
 こうして、少しだけ色の薄い時間に外へ出るのが好き。
 洗濯物を干しながら振り返れば、目に入る角の部屋。
 あの部屋の主はまだ眠っているだろう。
 でも、その部屋ではなく、ちょうど反対側に位置する部屋を見て笑みが浮かんだ。
 3月1日。
 今日は、羽織にとって思い出に残るであろうとても大切な日。
 ……大きくなったんだよね。
 なんて、まるでお母さんみたいに彼女を見ている自分がいて、ときどきおかしくなる。
 2月に入り、瀬尋先生のお家で過ごすこともあったけれど、後半はずっと試験勉強のために朝早くから遅くまでとてもがんばっていた。
 私もできることはお手伝いさせてもらったし、これまではひとりきりだったお昼ご飯を一緒に食べたりと、実はとても楽しく過ごせていた。
 今日という日が近づいてくるにつれて、伯父さんと伯母さんが少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいじゃなかったらしく、昨日ふたりがぽつりと話してくれた。

『もしかしたら、あの子は家を出るかもね』

 羽織が行きたい大学は、たーくんのお仕事先と同じ。
 車では10分だけど、バスを使うともう少し時間はかかる。
 でも同じ市内にあって、ひとり暮らしの必要はない場所。
 とはいえ……羽織は今、瀬尋先生とお付き合いしていて。
 彼はひとり暮らしだからこそ、“高校生”でなくなれば……とその先を考えてくれていてもおかしくないから、と伯母さんは笑った。
 ……どんな気持ちか、なんて考えなくてもわかる。
 だけど、すぐに私を気遣ってか『ま、いずれ嫁に行くんだし、早いほうがいいわね』なんて笑っていたけれど、本当は違うことももちろんわかる。
 でも、あえて口に出すことじゃない。
 だって、何もすごく遠い場所へ行ってしまうわけじゃないし……会おうと思えば、すぐに会える距離。
 でも、やっぱりちょっと、遠いのかな。
 ひとり暮らしじゃなくて、今度からは羽織の大切な人の家なんだから。
「…………」
 一緒に暮らす。
 羽織はもしかしたらそうなるかもしれないけれど……私も、そうなのかな。
 けど、考えようによっては、そうだよね。
 伯父さんも伯母さんも一緒だけど、でも、たーくんと一緒に住んでるんだし。
 ……うーん。
 今まで、あんまり深く考えなかったけれど。
 春からこちらの大学へ通うことに決めたのは、1年以上前。
 試験を受けて、無事に合格をもらえたあの日から、私の中では日本への気持ちがとても強くなっていた。
 私が七ヶ瀬大学を選んだことで、お父さんも日本に戻ると言ってくれて。
 最初はとても驚いたけれど、でも、今だからわかる。
 私には私の理由があるように、お父さんにはお父さんだけの特別な理由があったんだから。
 湯河原へは電車で40分ほど。
 大学へも決して毎日通えないわけではないけれど、伯母さんと伯父さんが後押ししてくれて、4月からはこの家でお世話になることになった。
「……ん。おしまい」
 最後のタオルを干し終えると、自然に笑みが浮かんだ。
 今日は、お祝いの日。
 だってまさに、新しい門出だから。
「何がいいかな」
 空になったカゴを持ってキッチンの勝手口へ向かいながら、とりあえずまずは今朝の朝食のメニューを考えることにした。

「あ、おはよう」
「はよ」
 卒業式だけど、今日は平日。
 たーくんはいかにも寝起きな感じであくびをしながら、キッチンまで歩いてきた。
 ちょうどよく焼きあがったワッフルをテーブルの真ん中に乗せると、バターと甘い香りが漂ってか、そちらに視線を移す。
 ……寝癖。
 相変わらず、毎日少しだけどいろいろなクセが付いていて、ちょっと楽しい。
 ふふ。楽しい、じゃなくて……かわいい、かな。
 今日は、片方だけまるで角みたいにはねている。
 …………うん。
 昨日と違って、やっぱり、かわいいかもしれない。
 普段の、それこそお仕事へ行く直前の彼とはまるで違うからこそ、ギャップがあるんだもん。
 どちらも間違いなく彼自身だけど、こんなふうにいつもより緩い姿を見られることは、とても特別な気持ちになる。
「……ンだよ」
「ううん。何も」
 まじまじと見つめていたら、とても怪訝そうな顔をされた。
 ……けど、寝癖には気づいてないみたい。
 指先でつまんだワッフルを、何も言わずにそのままくわえた。
「もう。お行儀よくないよ?」
「いーはほへふひ」
 最初に『あち』と聞こえたものの、口だけでもぐもぐ食べ出してしまった。
 ……もう。
 いつものことだけど、しょうがないんだから。
 って、つい笑っちゃう私がいけないのかな。
 今度からはもう少し違う注意の仕方をしたら……変わらないね、きっと。
 手を伸ばしてもらえるのは嬉しいって、私が思っちゃってるんだから。
「お茶でいい?」
「ああ」
 指先を舐めた彼が、置いてあった新聞を取ってこたつに向かった。
 その背中を見送ってから、急須に茶葉を入れる。
 ……お茶を入れるとき、いつも心がけること。
 それは、『最後の1滴を残さない』。
 湯河原で過ごすようになってから、おばあちゃんやお母さんから教わることが増えた。
 その中のひとつが、これ。
 お茶には、最後の1滴に一番いい成分が含まれてるんだって。
 ……だから、最後のひとしずくは1番大切な人にあげるといいんだと教わった。
 きっと、たーくんが気づくことはないことだけど、でも……つい彼の湯飲みへ落としてしまう。
 本当は、伯父さんや伯母さんにあげなきゃいけないのかもしれないんだけど……3人分のお茶を入れるときも、そう。
 どうしても、最後はたーくんの湯飲みに入れちゃうんだよね。
 これも十分、エコヒイキに繋がるかもしれない。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
 新聞のスポーツ欄を広げていた彼の手元に、湯飲みを置く。
 けれど、彼の視線はテレビにあり、新聞を読んでいなかった。
「…………」
 テレビに映っているのは、大きな神社。
 制服姿の子たちへのインタビューで、合格祈願がどうのと話してるから、羽織と同じ受験生なのかもしれない。
「神様も大変だよな」
「え?」
「普段は見向きもしねーし、賽銭だって小銭がいいトコ。なのに、頼みごとは一生モン」
 湯飲みに手を伸ばした彼が、テレビを見たまま呆れたように呟いた。
 ……もう。
 そんな、鼻で笑ったりしたらよくないよ?
 たーくん今、意地悪そうな人の顔になってる。
 普段そんなことしないからこそ、意外な気はした。
「……は。都合イイ人間ばっかだな」
 ずず、とお茶を飲んでから、すぐ新聞へ視線を落とした。
 どうやら、もういらない情報だと判断したらしい。
 相変わらず、彼は線引きがハッキリしてるからか、見ててもわかりやすいなぁと思うんだよね。
「たーくんはお願いしなかったの?」
「ったりめーだろ」
 やっぱり。
 きっとそんな答えが返ってくるだろうとは思ったけれど、気づくと苦笑していた。
 たーくんは、昔からそう。
 あんまり非現実的なというか……人頼みも含めて、誰かをあてにすることがない印象だ。
 信頼できるのは自分が一番と、小学生だったころ聞いた覚えがある。
 もしかしなくても、今も変わってないのかな。
「え?」
 なんて考えてたら、ふいに目があった。
 もしかして、今考えていたことが伝わった?
 何も言わず見つめられ、まばたくに留める。
 すると、次の瞬間口角を上げて笑った。
「ウチの神様は学問担当じゃねーからな」
「あ……そうだね」
 確かに。
 そういえば、おじいちゃんの神社で祀っているのは、学問の神様ではなく縁結びの神様だ。
 恋愛の縁だけでなく、仕事や勝負など、様々な方面への“縁”を結んでくれる神様。
 でも、あまりにも彼らしいといえば彼らしいような答えでつい、笑みと一緒に顔が緩んだ。

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