「ほかに見なくてよかったのか?」
「うん。ほら、私はこの間ちゃんと見れたから」
たーくんが見たいと言っていた本屋さん以外は特に見ることなく、帰宅を選んだ。
朝乗ったときと同じ停留所で降りるとすでに17時半を回っていて、東の空は夜に近づきつつある。
買い物が目的というよりも、一緒に過ごせることのほうが大きい時間だから私にとっては十分。
ちなみに、瀬尋先生と羽織は途中まで一緒だったけれど、違うお店へ行くからと行動はくっきりわかれた。
「ほら」
「っ……」
バス停から歩き始めてすぐ、たーくんは私を振り返った。
きっと、何気ない言葉と仕草だろう。
少しだけぶっきらぼうな言い方だけど、私を見て手を差し伸べてくれたことは特別で。
くすぐったい気持ちもあるけれど、どうしたって頬は緩む。
「……ンだよ」
「ふふ。嬉しい」
先週の“今日”までは、こんなふうに手を握れるようになるとは思わなかったし、距離が近づくとも考えられなかった。
そう。ちょうど1週間前なの。
学校帰りに、たーくんが私の知らない女の子を伴っているのを見たのは。
そして……悩んで悩んだ揚げ句、彼へ想いを伝えようと決めたのもそうだった。
……本当に、何が起きるかわからないのね。
手を繋ぐというよりも、指を絡めるように握られた右手が、愛しくもどきりとする。
「あー……腹減った」
「たーくん、おやつ食べてなかった?」
「あれじゃ足りねぇって」
少しずつ暗さが目立つ時間帯でもあって、外灯の白い光が道を照らす。
住宅街だから、いつもそんなに歩いている人は多くない。
それこそ、ふたりだけの時間。
……特別だね。
家が近いという理由はあるけれど、やっぱり一緒に帰宅できるのは嬉しくて。
平日の限られた時間の中でも一緒に過ごせることは、特別そのものに思う。
「…………」
息は白くならないけれど、まだ風は十分冷たい。
角を曲がれば、いつもと同じようにたーくんの家の車庫が見えて、途端に少しだけ寂しくなった。
家に着くことは、この時間の終わりを意味する。
また明日会えるだろうけれど、やっぱり寂しい。
……ああ、やっぱり欲は尽きないんだな。
ひとつステップアップしたら、次を欲しくなるなんて。
たーくんに受け入れてもらえるまで、知らなかった。
自分がこんなに欲深い人だなんて。
「あ……え?」
「いや、すぐそこだろ。大して変わんねぇし」
この間とは違い、たーくんは家の前で足を止めることなく手を引いた。
確かに、すぐそこではある。
けれど、僅かとはいえ距離が伸びることは、素直に嬉しい。
……もう。優しいんだから。
手を繋いだまま家の門をくぐるのが初めてで、少しだけ気恥ずかしくもなった。
「え? っ……」
灯りのついている玄関までの、石畳。
その途中で手を引かれ、振り返った途端唇が触れた。
「ん……っ」
すぐここ。
距離が消え、彼の唇が一度離れる。
けれど、角度を変えて改めて口づけられ、背中がぶるりと震えた。
「……は……」
重ねるだけのキスも初めてなら、こんなふうに舌が重なるものもそう。
いつの間にか抱きしめるように腕が回されていて、より距離が近づく。
「今度、ウチ来るか?」
「……いいの?」
「その代わり、覚悟してこいよ」
覚悟。
それは……どういう意味で?
眼差しがいつもと違って、少しだけ熱っぽく感じる。
……男の人の顔。
普段見ている笑顔そのものとはまるで違って、視線が重なるだけで十分にどきどきする。
「もう。そんな顔されたら、困るよ?」
「どんな顔だよ」
「……男の人みたい」
「いや、それ以外俺のことなんだと思ってんだっつの」
「そうなんだけど……どきどきして、苦しいんだもん」
いつもと同じはずなのに、いつもとは全然違う表情。
言葉ももちろんそうで、笑われるもこっちが困ってしまう。
本当に、全然違うのね。
幼馴染だったときと、見せてくれる顔も違えば言葉もそう。
ああ、やっぱりこんなふうに一歩進んだ関係になることで、見える世界はまるで違うんだ。
「じゃ、また明日な」
「ん。おやすみなさい」
腕が解かれ、急に肌寒さを感じる。
きっと、少しどころかかなり寂しさを感じたせい。
……でも、また明日があるんだから。
戻ることのない、新しい時間。
幼馴染のときにはわかちあえなかった確かな時間と距離があって、まだまだ何もかもが始まったばかり。
「……ふふ」
手を振ってきびすを返した彼の背中を見たまま、どうしたって頬は緩む。
特別な時間は、まだ続く。
明日も、あさっても……きっとその先も、ずっと。
知らないことを知って、見れなかったものを目にして、ともに歩く。
まだまだ楽しいことばかりで、このどきどきは尽きないんだろうな。
勇気を出したことで、得られたことはとても大きかった。
……そして、受け入れてもらえたことは、奇跡にも近い。
だからこそ、大切にしたいと思う。
何もかもがまだ、始まったばかりなんだから。
「…………」
鳥のさえずりとともに目が開いて、薄暗い天井が目に入る。
……朝。
いつもと同じ、洋間の天井。
すっかり馴染んだ“私の部屋”でまばたくと、頭だけまだ眠っているのかぼんやりする。
けれど、スマフォを手にすると割といい時間で。
もう間もなく7時になろうとしており、急速に頭が冴えた。
「っ……」
ご飯作らなくちゃ。
どうやらお天気も大丈夫みたいだし、お洗濯もしたい。
それに羽織も起こさなきゃ…………。
「…………」
羽織。
えっと……ううん、違う。
羽織は昨日卒業したんだから、もう学校じゃない……よね?
でも…………。
「……ふふ」
すべてを覚えてはいないけれど、今まで見ていた夢はなんだか特別な気がした。
羽織と同じ制服を着て、同じ学校に通っていた。
だけでなく、制服を着たたーくんと付き合うことになるなんて、よほど私にとって制服の印象が強かったのかもしれない。
当然だけど、部屋のどこを見てもあの制服はかかっていない。
そしてもちろん、たーくんの部屋にもないだろう。
幼馴染で、ひとつ先輩で、一緒に登下校して。
そんな“ありえない”ことが夢の中とは起きていて、思い返すと楽しくてか笑みが浮かぶ。
夢。
私、あんなふうになりたかったのかな。
確かに、羽織と同じ高校に通ってみたらきっと楽しかっただろうなとは思ったの。
でも、今さらどうにもならないこと。
ましてや羽織は昨日無事に卒業して、春からは新しい生活が待っている。
……特別な感じは楽しいけれど、絶対にありえないこと。
でも、夢とはいえ実際に味わえたことは、とても貴重だと思ってもいる。
楽しかった。
現実にはなりえない世界だけど、とても。
「…………」
夢の中の羽織は、たーくんを大好きな子だった。
おぼろげではあるけれど、『自慢のお兄ちゃん』みたいな話をした気もする。
きっと、現実の彼女もそうではあるだろうけれど、口にしたりしないだろうな。
昨日も結局、寝る前にアイスを食べる食べないでもめていたっけ。
あれがふたりにとっての当たり前で、夢の中の姿は私のイメージそのものなんだろう。
口ではなんだかんだ言いながらも、仲がいいふたり。
でも、ストレートにお互いのことを口にするほど幼くはない。
“もしも”と想像したことを、夢という形で体験できるなんて思わなかった。
この話をたーくんにしたら、きっと鼻で笑われて終わりなんだろうけれど……少しだけ反応も見てみたい。
ありえないことだし、現実味はゼロだけどね。
「……楽しかったな」
それこそ、絶対。
100%ありえないことながらも、体験できてとても嬉しい。
今日もたーくんはお仕事だから、できれば元気の出る朝食を用意したいな。
もしかしたらすでに伯母さんが起きて支度してるかもしれないけれど、ならばせめてそのときに自分のできることをしよう。
お布団から出ると、朝の空気は少しだけ冷たい。
でも、これはこれで心地よくて好きでもある。
……いつかまた、続きを見れたらいいな。
夢の中の彼は今よりも前の姿だろうに、口調は今のたーくんそのもの。
ああ、楽しかった。
朝から幸せな時間を過ごせて、今日も1日きっといつも以上に幸せを感じられるだろう。
部屋のドアを開けると、まだ眠っているらしく“現実”のたーくんの部屋のドアはぴっちりと閉ざされていた。
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