「つか、荷物の整理は明日以降ゆっくりやればよくね? 今日は風呂入って早く寝ろ」
「んー……でも、もったいないでしょう? せっかく帰ってきたのに、それだけで今日が終わるのは」
 スーツケースを葉月の部屋へ運んだが、荷解きはせず閉じたまま立てかける。
 普段ならそれこそ、その日のうちにきっちり片付けるタチだとわかってるからこそ、あえて『寝ろ』と強調したものの、口をついたセリフは女将そっくりだなと思った。
 疲れてるだろう。当然だ。
 11時間以上のフライトを経て、そこからはさらに電車での移動。
 俺だって楽しかったもののだいぶ疲れたんだから、コイツならなおさらだと思った。
 ……あ。
「そうだ。チョコあるぞ」
「え?」
「疲れたときは甘いモンって言うだろ? わけてやる」
 手招いたわけじゃないが、自室へ戻ると葉月もあとをついてきた。
 部屋にあるチョコは2種類。
 昨日野上さんにもらったアレと、優人からのブツ。
 ちなみに、優人のヤツは危ない気がして先に確かめたが、意外や意外、ふつーにチョコサンドクッキーだった。
 ま、これで小包装にプリントされてるロゴや成分表示まで偽装されたモンだとしたら、相当だけどな。
 ひとつ食べたが、ふつーの味だったから平気だろ。
「野上さんに、昨日もらった」
 蓋を取ってから差し出すと、それと俺とを見たものの素直に手を伸ばした。
 彼女曰く、納豆以外は絶対おいしいつってたが、どうかは知らない。
 食ってねーし。
 あんなトラウマスイーツもらって、ふたつめに行くとか猛者過ぎだろ。
「えっと……どれでもいいの?」
「ああ」
 キャラメルが入ってるらしいが、事実かはしらない。
 どれもこれも、見た目はブコツなチョコレート。
 手作り感たっぷりだが、自称おとめとやらが作ったようには正直見えないデカさではある。
 葉月は指先でひとつをつまんだものの、さすがにひとくちで食べられるサイズじゃないとふんだのか、手のひらを添えながら半分ほどかじった。
 ……途端。
「んっ……!」
「っ……」
 うわ。マジかお前。
 中身が溢れ、添えた手のひらがソレを受ける。
 が、唇の端からも垂れ、唇を閉じたままどうしようか困ったように葉月が顎をあげた。
 だから、だろう。
 より一層、ソレが際立つ。
 唇の端から顎、そして首筋へ垂れたのは……真っ白い液体。
 とろりと少しだけ粘度が感じられるソレは、明かりを受けて妙な光を帯びる。
「……ん、ぅ」
 一連の流れは見ていたし、現状そのものも把握はした。
 が。
 予想外のモンを見せられると、人は思考停止するらしい。
 ようやくチョコレートを唇から離した葉月は、困ったように俺を見て唇を舐めた。
「んっ……!」
 そういう仕草するとか、どんだけ煽ってんだお前。
 引き寄せるまでもなく顔を近づけ、口づける。
 チョコとは違う風味に、味。
 ひょっとしたらチョコより甘いかもな。
「ん、ん……っは……ぁ」
 唇から、顎。
 そして首筋。
 まさに“筋”で残っている白い液体を舐めると、濃くて喉に残る練乳の味がした。
 チョコレートに練乳詰めるとか、どんだけだよ。
 甘いモンへさらにプラスしたら、激甘にしかなんねーだろうに。
 だが、視覚的なモンが優先され、それがどういうモンかより、『葉月が白い液体を舐めた』にしか映らなかった。
 あー、えっろい。
 恐らくは葉月もわからないだろうが、真正面で目にした俺にはそれこそ毒。
 途中、離れようとしたのを感じて無意識に腰を引き寄せた。
「もう……たーくん……」
「いや、お前が悪いんだろ。目の前でこぼすから」
「だって、こんな……中に入ってるなんて思わなかったから」
 首筋から離れると、それはそれは困ったように……葉月はしどけなく唇を開いたまま俺を見つめた。
 だろうな。俺もまさか“液体”が入ってるとは思わなかった。
 キャラメルとは聞いてたが、ほかのモンもあるとはね。
 明日、そのまま報告してやってもいいが……まぁやめとくのが無難だろ。
 職場で“今”のこと反芻したら、確実にアウトな気はしてる。
「はー……お前ほんと、えろい」
「っ……たーくん、もう……最近、そればかりじゃない?」
「しょうがねぇじゃん。思ったんだから」
 ベッドに座り、立ったままの葉月を眺めるも、つまんだままで溶け始めたチョコレートに気づき、そちらを舐め取った。
 ……えろい。
 そーゆー仕草がイチイチ目に付いてどうにもなんねぇんだけど、これはどうしたらいい。
 俺だけのせいじゃないと思うぜ。
「ちったぁ元気になったか?」
「え?」
「疲れてるっつーか、なんか……テンション低く見えた」
 美月さんと別れたからかとも思ったが、そうじゃないらしいとわかったのは飯を食ってたとき。
 お袋や親父の話に笑ってはいるが少しだけいつもと雰囲気が違い、部屋へ戻ったもののそれは代わらず……むしろついさっき、か。
 野上さんにチョコをもらったことを口にしたとき、一際思いつめたような顔をした。
 俺にできることは多くないだろうが、手を伸ばしていいのは俺だけだろ?
 ある意味事故だったが、キスしたあとは苦笑ながらも葉月が笑ったから、指摘してもよさそうだとふんだ。
「……あのね? 本当は、昨日帰ってくるつもりだったの」
「へぇ」
「だけど天気がよくなくて、飛行機が飛ばないかもしれないって言われて。荷物の整理も済んだし、みんなへのあいさつも終わらせてはいたから、できれば帰ってきたかったんだけど……間に合わなかったことが、なんだか悔しくて」
 葉月から“悔しい”というセリフを聞くこと自体が珍しい。
 間に合わなかった。それは果たして何に対するものか。
 そうは思うが……ひとつだけ。
 昨日、野上さんが散々俺へ言い切ったセリフだ。
「え……?」
「まぁ座れ」
 俺の前に立ったまま、どこか申し訳なさそうに視線を落とした葉月を、すぐここへ座らせるべくベッドを叩く。
 だが、素直に座ったところで頭に手を置くも、表情は変わらなかった。
「何に間に合わなかったって?」
「……バレンタイン」
「なんか予定あったか?」
「えっと……チョコレートケーキを焼こうかなとは思っていたの」
 膝の上で組んだ両手に視線を落とし、どこか申し訳なさそうにつぶやく。
 きっと、葉月にとっては大切な理由なんだろう。
 バレンタイン、という響きを持つ年に一度の日は。
「昨日じゃなきゃダメな理由は?」
「え?」
「なんかあるか?」
「だって……バレンタインは、昨日でしょう?」
 まぁそりゃ間違いじゃねぇけどな。
 女の子にとって特別な日なんですよ、と野上さんも言った。
 だが、間に合わなかった理由はこいつにあるわけじゃなく、ほかの原因。
 ましてや天候の部分は、誰にもどうにもすることができない不可侵なところだ。
 ……それでもきっと、昨日は悶々として寝たんだろうな。
 『もしも』とifを繰り返しながら。
「あっちでもチョコ渡すのか?」
「んー……向こうでは、チョコレートだけじゃないかな。お花だったり、食事だったり……だからね? 昨日は、お父さんとお母さんだけで夕食に出かけてもらったの。3人でって言ってくれたけど、ふたりきりで過ごせてなかったから。だから、そういう意味では飛行機が遅れたことは、少しだけよかったことになるかな」
 葉月のクセみたいなもん。
 思い出しながら話したあと、首をかしげつつ笑みを浮かべた。
 表情は戻った。
 あとは気持ちだけ、か?
 さっきまでとはまったく違う表情を見せたことで、当然ほっとした。
「俺は、お前が今ここにいてくれるだけでいい」
「……たーくん……」
「予想より、ずっと早かった。月末まで会えねぇとふんでたからな」
 こんなに早く帰ってくると思わなかったし、少なくとも来週以降になると思っていた。
 滞在していたときも、荷物は整理ついたと言っていたが、だからといってすっぱり切って帰れるはずないと思っていたから。
 だからこそ……十分なんだよ、俺にはな。
 もちろん、葉月にとってはそうじゃないだろうけど。
 年に一度だけの日。
 ましてやこんなふうに俺との関係が変わったなら、“やりたい”ことも多かっただろうから。
「おかえり」
「ただいま。……ふふ。嬉しい」
「そりゃよかったな」
 ようやく笑みが戻り、髪を撫でた手を肩へ落とすと、そのままこちらへもたれた。
 知らなかったよ。俺だってな。
 まさか、こんなセリフを吐くようになるなんて。
 ……でも、どう言えばお前に笑顔が戻るかわかるからこそ、俺にしかできないことだろ? これは。
「え……?」
「いや。……とりあえず風呂入れ。まだ甘い」
「っ……ぅ。入ってくるね」
 重ねるだけのキスをした途端、比喩ではなく十分甘かった。
 てことは、舐め取っただけの首筋あたりも当然まだべったべただろうよ。
 忘れてた。
 さすがに指摘はしないが、表情には十分出ていたらしく、葉月はほんのり頬を染めると視線をそらした。
「明日、ケーキ焼いたら食べてくれる?」
「ああ。何時でもいいぞ」
 ドアへ向かった葉月が、思い立ったように振り返った。
 同じく立ち上がり、放ったままだったコートをハンガーへかける。
 ある意味愚問じゃね?
 俺が食わない選択肢ねぇだろ。
「じゃあ、明日作るね」
「おー」
 ほっとしたように笑ったのを見て、こっちまでつい笑いそうになった。
 俺のひとことでお前の気分が変わるなら、いくらでも頭使う。
 ……それが、役目でもあるんだろうからな。
 ちなみに、葉月が言う『明日』はそれこそ早朝そのものだったらしく、朝起きたら甘い匂いが漂っていた。
 アイツ、そーゆーとこマメだよな。
 朝飯は朝飯できっちり食ったが、デザートとして小皿に乗る程度の“生チョコ”みたいなチョコレートケーキを食べ、帰宅後改めて生クリームと一緒にがっつり食べたのは言うまでもない。
 
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