「葉月ちゃん、もっと怒ってもいいと思うよ?」
 ホワイトデーのお返しに、クッキーを作りたいと瀬尋先生が電話をしてきたのは、昨日の朝。
 家の電話へ直接かかってきた申し出に、もちろんぜひとお返事をした。
 でも、そういえばあのときも、たーくんはどこか腑に落ちない顔をしていたんだよね。
 気づけなかったのは私の落ち度だと思うし、何より、彼と先に約束をしていたのに簡単になかったことにしてしまったのは、いけなかった。
 優先順位をつけなきゃいけないって言葉は、まさに的確で。
 たーくんのことも……きっと、巡り巡って自分自身のことも傷つけたんだと、指摘されたことで気づけた。
「えっと……どうしてですか?」
 たーくんがガレージの片付けをする、と玄関から出てすぐに瀬尋先生が口にしたセリフは、意外といえば意外なもので。
 でも、きっとたーくんを気遣ってコーヒーを淹れた姿があったからなんだろうけれど、私にとってあの行動はもちろん苦ではなかった。
 瀬尋先生の言いたいことが、わからないわけじゃない。
 だけど、私にとってはたーくんの言い方や行動に対して不満があるわけではなく、まさにそのものだから、わずかに首をかしげるしかできなかった。
「いや……だってほら。アイツ、わがままでしょ」
「ふふ。そうですね」
「葉月ちゃんはやることやってるだけなのに、気を引くような素振りしたし」
「瀬尋先生、気づいてたんですか?」
「え? あー……うん、まぁ。なんとなくだけど」
 あのとき、たーくんはただ頬杖をついていただけ。
 視線は瀬尋先生と私に向けられていて……でも、表情がとってもおもしろくなさそうだったの。
 それで私は声をかけたんだけど、そっか、瀬尋先生もわかってたんだ。
 もう、本当に周りに気遣ってもらえる人なんだから。
 きっと、たーくんはそうやって周りの人にたくさん甘えさせてもらってきたのね。
「アイツ、機嫌悪くなるとたちまちわかるっていうか。ほら、この間の卒業式も、俺が葉月ちゃんと話せば話すほどおもしろくなさそうな顔してたでしょ? 子どもそのものだなって」
「もしかしたら、お腹が空いてたのかなとは思うんですけれど……そんなに顔に出てました?」
「そりゃもう。噛みつく勢いだったでしょ」
「あはは」
 たーくんを知らない第三者からすれば、今のは短所の指摘みたいに思われるかもしれない。
 でも、違うの。
 魅力……って言ったら、笑われるかな。
 そういう全部が、彼という人格を形作ってる。
 だから、素直にうなずくしかない。
 ………だって、本当のことなんだもん。
「私にとってたーくんは本当に大人で……昔からそうなんです。なんでもできて、たくさんの人が集まってくれるすごい人で。……なのに、ときどきまるで小さな男の子みたいな反応して。きっと叱られるでしょうけれど、そういう反応がかわいく見えませんか?」
「かわいくはないけど、まあ子どもだなとは思うよ」
「ふふ。そうですね」
 いつだって彼は、私にとって憧れの人そのもので。
 背を伸ばして相手が誰であっても対等に意見し、だけど決してねじふせるわけじゃない。
 相手にぴったり合う形を探るようにコミュニケーションをはかり、お互いの妥協点を探る。
 そういうところは、まさに大人。
 でも、お腹が空いたり眠いときは少しイライラして見えたり、おもしろくないことがあるとたちまち表情が変わるのも……信頼している身近な人にはありのままの姿を見せるところも、まるで小さな男の子みたいでとてもかわいく思えてしまう。
 ……本当に、かわいい人。
 絶対口には出せないけれど、たーくんはそんな二面を見せてくれる特別な人だ。
「アイツは幸せだと思うよ」
「え?」
「本気で誰かに口説かれても、葉月ちゃんは孝之以外に一切なびかない気がする」
「……それは……」
「あんなヤツだけど、アイツのこと本気で好きでいてくれてるんでしょ?」
 確信がある。
 にっこり笑った瀬尋先生の言葉で、ああこの人は本当にたーくんの友達なんだなと思った。
 普段、顔を合わせれば冗談めいたやり取りがあるけれど、それこそ仲のよさそのものなんだろう。
 休みの日に出かけることも、平日の夜に飲みに行くこともしている相手。
 何年経っても繕うことなく等身大の姿を見せているのは、たーくんもよほど瀬尋先生のことを信頼している証拠なんだろう。
 『俺の勝ちかな』なんて言われ、くすくす笑いが漏れる。
「参りました」
「でもさ、アイツがここまで固執するのは初めてだと思うよ」
「……え?」
「昔から、物事にほとんど執着しないヤツだった。少なくとも、俺が知ってる限りではね? だから久しぶりだよ。アイツが自分の感情そのまま出すのを見るのは」
 バターとお砂糖に小麦粉を合わせたボウルを、瀬尋先生は器用にゴムベラで混ぜ始めた。
 視線は、ずっと落ちたまま。
 だけど、口元には笑みが浮かんでいる。
 ……初めて。
 確か、瀬尋先生はたーくんを高校のときから知ってるはず。
 そんな人から“限定”を示す言葉を告げられ、なんだか少しくすぐったい。
「なんでもかんでも、すぐ『いいんじゃね?』って妥協するアイツが、感情剥き出しにしたでしょ? それこそ、人に固執するなんて、初めて見たよ。……葉月ちゃんが初めて」
「……え……」
「普段は、来るもの拒まず去るもの追わずだからね。なのに、よっぽど大事なんだなって思うよ」
「私が、ですか?」
「ま、アイツ自身は気付いてないかもしれないけど」
 ふっと笑った瀬尋先生をまっすぐ見つめるものの、言葉が出なかった。
 初めてという言葉と、私という限定。
 そんなこと、ほかの誰からも言われたことがなかっただけに、どう対応していいのか困ってしまう。
 そうですね、なんて肯定することはできない。
 だって、私にはそんな確証がまったくないから。
 ……でも、簡単に違います、なんて否定もしたくない。
 これはあくまでも、願望からくる私の我侭な気持ち。
「だいたい、アイツはわかってないんだよ」
「え?」
「俺がアイツのそばにいるから、葉月ちゃんが気にかけてくれるってこと」
「っ……そんなつもりじゃ……」
「いや、いいんだよ。実際そうでしょ? もし、俺が何も繋がりのない人間だったら、普通はここまで気にかけたりしないじゃない。けど、孝之と……羽織ちゃんもそう。葉月ちゃんにとって身近な人間のそばにいる俺だからここまでしてくれるんだって、アイツは気付いてないんだよな」
 呆れたようにため息をつくと、瀬尋先生らしからぬ『馬鹿だから』なんてセリフが聞こえた気がした。
 ……でもその顔を見れば、今の言葉が決して悪意から来るものなんかじゃないってわかって。
「ん?」
「本当に仲がいいんですね」
「俺が? ……アイツと?」
「違いますか?」
「いや、違うっていうか……なんか、気持ち悪いな。それは」
「ふふ」
 頬を緩めると、それはそれは怪訝そうに眉を寄せた。
 普段見ていても、思ったこと。
 だけど、こうして話を聞いていると、一層そう思う。
 ……いいなぁ。
 ほんの少しだけ、瀬尋先生が羨ましい。
 私の知らないたーくんを知ってるのもそう。
 だけどそれ以上に、彼だから築けるたーくんとの関係も、少しだけ羨ましかった。
「……っと。こんなモンでどうかな?」
「十分です。それじゃ、少し冷蔵庫で寝かせましょうか」
「そうなんだ。了解」
 ボウルの中身をきれいにまとめてくれた彼が、両手を叩いた。
 普段の彼からは想像できない姿だけに、ちょっとおかしくなる。
「ん?」
「羽織、とっても喜ぶでしょうね」
「だといいんだけど」
 両手を粉だらけにした彼に笑うと、まんざらでもなさそうな顔で笑みを浮かべた。
 間違いなく、この姿を羽織に見せたら喜ぶと思う。
 ……あ。写真とか撮っておいたらよかったかな。
 手を洗っている彼を見ながら、ふとそんなことが浮かんだ。
「にしても、アイツほんと素直じゃないね。そんなに俺が葉月ちゃんのそばにいるのおもしろくないなら、一緒に作るとか言えばいいのに」
 おもしろくない……なんて思ってくれたのかな。
 でも、たーくんはそんなこと言わない気がする。
 だってそれじゃあまるで、瀬尋先生に妬いてるみたいでしょう?
 ……ありえないと思うんだけれど。
 どちらかというと、私が彼と出かけることを反故にしたほうが影響あるんじゃないかな。
「ガレージって言ってたけど、案外すぐそこにいるかもね」
「庭にですか?」
「ああ言った手前出ざるを得なくなったものの、内心は心配でたまらないはずだし。今ここで葉月ちゃんが大声出したら、慌てて飛んでくるかもよ? スーパーマンばりに」
「あはは」
 スーパーマンという単語とたーくんの姿があまりにもミスマッチすぎて、つい笑ってしまった。
 ……ふふ。きっと聞いたら嫌そうな顔するんだろうな。
 両手をまっすぐ伸ばした瀬尋先生のジェスチャーとたーくんの姿があまりにも相容れなさそうで、くすくす笑いは続いた。
 だからこそ、まさかボウルを落としたとき彼が姿を見せるとは思わなくて。
 たーくんは理由がわかってなさそうだったけれど、さすがに言えなかった。

 でも、瀬尋先生の指摘が十分的を射ていたとわかったのは、その日の夜遅く。
 普段ならまず寝てしまっている時間帯にたーくんを訪れたときの言葉は、本当に意外でしかなかった。
 お腹が空いているわけでも、眠いわけでもなさそうなのに、彼から出たのは『おもしろくない』とでも言わんばかりの言葉ばかりで。
 どうしてそんなふうに言うのか不思議でたまらなくて、つい昼間聞いた“ありえない”ことが思い浮かんだ。
「だって、その言い方じゃまるで、たーくんが妬いて……」
 言いかけたところで、気づいた。
 きっと、たーくんも同じタイミングで理解したんだろう。
 思わず頬が緩むのを見て舌打ちした彼は、珍しく何かに躊躇したようだった。
「違うっつの。そーゆーンじゃねぇよ」
「でも……」
「別にそういうわけじゃ……ッ、だから」
 視線を外したあと、たーくんは首筋を撫でるように手を置いた。
 のに気づき、慌てたように手を振る。
 ……ああもう、どうしてこんなにストレートな人なんだろう。
 そばにいられるようになって、どんどん私の知らない彼を知ることができてとても嬉しい。
 羽織の卒業式も、たーくんはいつになく不機嫌そうだった。
 すべての始まりは、式のあと瀬尋先生や優人さんと話したところからだもんね。
 お腹が空いてるからかなと思ったんだけど、もしかして今と同じ気持ちでいたんだろうか。
 だとしたら……もう。
 嬉しい気持ちになっちゃうじゃない。
「そういう顔すんな」
「ふふ」
 舌打ちして視線を決して合わせてくれないけれど、横顔に笑みが漏れる。
 かわいい人。
 普段、“かわいい”なんて言葉からはもっとも遠いところにいる、誰よりもステキでカッコイイ人なのに。
 自信に満ちていて、迷わなくて、当然狼狽することもない。
 そんな彼が見せてくれるふとした瞬間の姿が、あまりにも特別すぎて、気持ちを向けていたころよりもずっと強く彼に惹かれている。
 ……たーくん、気づいてくれてるかな。
 ふふ。もちろん、気づかれていなくても十分。
 これからもずっとずっと、そんな新しい姿にどきどきしていくんだろうな。
 ため息をついた彼へ手を伸ばしながら、あのときはとても嬉しい気持ちでいっぱいだった。

 目次へ  次へ