「……はぁ……」
日曜日の朝。
いつもよりはずっと遅い時間にリビングへ降りると、すでにお洗濯は終えられていた。
どうやら伯父さんと伯母さんはもう出かけたようで、朝食の形跡はあるけれど姿はない。
羽織は……ふふ。たーくんも、きっとまだ起きてこないだろうな。
誰もいないリビングのソファへ腰かけると、漏れたため息が大きく聞こえた。
もうすっかり3月も半分ほど過ぎようとしているけれど、朝晩は冷える。
カーディガンは羽織っているけれど、それでもまだ肩は冷たい気がした。
……きっと、さっきまでの温もりが今はないからなんだろうな。
たーくんのベッドで一緒に寝られるなんて、想像したことは……もしかしたらあったのかな。
きっと寝にくかっただろうし、肩もこったかもしれない。
けれど、目が覚めたとき、目の前には彼の身体があって……腕が回されていて。
なんて特別な朝なんだろうと、起きてすぐ頬が緩んで戻らなかった。
寝顔を見たことは何度もあるけれど、あんなに近い距離でじゃない。
……2回目だね。
湯河原での初めての朝に続く、今日。
うっすら開いた唇も、ゆっくり上下する胸元も。
すぐに手が届く距離にあって、起こしてしまうかなと思ったけれど、ついそっと手は伸びていた。
柔らかな髪も、輪郭も。
あんなふうに手を伸ばせるようになることを、少し前の私が知ったらどう思うだろう。
……ふふ。でも、知らないほうがとても嬉しいだろうな。
きっと、知ってしまったら隠せない。
なんでもないところで頬が緩んで、今よりもずっと怪しい人になっていただろう。
「…………」
すり寄った身体はあたたかくて、でもそれ以上に嬉しくて……どきどきして。
離れがたい時間だったけれど、お天気がいいなら時間も大切にしたいなと思って、そっとベッドを抜けたのはついさっき。
湯飲みではなく、マグへ淹れた緑茶に口づけるものの、ふとした瞬間に思い出してしまう。
たーくんの声も、仕草も……眼差しも。
普段見せているのとは明らかに違って、ぞくぞくするようなもので。
……本当に、いけない人なんだから。
「あー……ねみ」
「っ……」
階段を踏む音が聞こえてきたと思ったら、たーくんが姿を見せた。
時間はいつもよりずっと早くて、普段ならまずありえないとき。
大きく伸びをすると、私を見て眉を寄せる。
「ンな意外か? 俺がこの時間に起きるの」
「そうじゃないんだけど……だって、さっきまでぐっすり眠ってたでしょう?」
「お前、なんかちょっかい出してたろ」
「っ……」
どうして。
ひとりごとのように囁くと、たーくんはすぐ隣へ座りながら両手を頭の後ろで組んだ。
「寝てたけど、半分くらい起きてたからな。お前がいなくなって、寒くて起きた」
「……そうなの?」
「まぁ半分はな。あとはスマフォが鳴ったせい」
あくびをしながら、たーくんがスマフォを操作した。
どうやらメッセージを打ち終えたらしく、テーブルへ放るように滑らせる。
横顔と……その手元と、指先。
なにげないことなのに、視線が捕われる。
「なんだ?」
「え、と……」
別に、まじまじ見ていたわけじゃない。
なのに、たーくんはこちらへ身体ごと向き直ると顔を近づけた。
……もう。
そんな楽しそうに、からかわないで?
顔が赤くなる気がして、恥ずかしいんだから。
「…………」
どう話せばいいんだろう。
何を言えばいいんだろう。
どんな顔をすれば?
どんな態度を取れば?
湯河原での朝も感じたけれど、日常そのもののこの家で迎える朝だからか、どうしていいか余計にわからなくなる。
誰からももらえない。
繰り返し実感しながら経ていくしかないけれど、どきどきして苦しくて……でも嬉しくて……ああ、やっぱり困る。
「っ……!」
「どうした? ……ンな顔して」
ずい、と顔を近づけるとすぐここで笑った。
気まずさとはまた違う気持ち。
……でも、恥ずかしくて……もう。
全部わかってるんでしょう?
「っ……たーくん……」
「ンだよ」
「やっ……ねぇ、ちょっ……ちょっと待って。ね?」
からかわれてるっていうのは、わかってる。
でも、どうしようもないんだもん。
……こんなふうに見られて、笑われて。
どうしても、つい……夜と今とを、無意識の内に比べてしまう。
「ん……っ」
目の前で笑った彼が、耳元へ手のひらを当てて引き寄せた。
唇が塞がれ、まるで確かめるかのように唇を舐めた舌が入り込む。
昨日と同じ、ぬくもり。
ぞくりと背中が震えて、だけどとても嬉しい。
あのとき。……あの、声。
そして、表情。仕草。
何もかもが目に浮かんで、焼きついて決して離れない。
……薄れたりしない。
むしろ、時間が経てば経つほどより一層鮮明に、濃いものになっていく気がする。
今朝も、そう。
ベッドの中にいるのに、気付けば、思い出すかのようにたーくんとのことを考えていて。
すぐここにいるのに……ううん。
いるからこそ、なんだか気恥ずかしくて。
だから――……。
「……ん」
小さな音とともに唇が離れ、息を漏らす。
今、胸に手を当てられたらどれほどどきどきしているかわかっちゃうだろうな。
胸元へ触れるように両手を当てると、私とは違ってたーくんはいつもと同じような鼓動のままだった。
「顔赤いぞ」
「もう……だって、朝なのに……」
「別に、ダメな理由ねぇだろ」
くすくす笑われ、くすぐったさとバツの悪さとで眉が寄る。
けれど、たーくんは私を引き寄せると、ソファにもたれて目を閉じた。
「あー……ねっむ」
「…………」
「つか、お前のほうが眠いだろ」
「ん……ちょっとだけ」
「寝れば? どうせなんも用……あー、ダメだ。これから恭介さんくるつってたぞ」
頬へ流れた髪を耳へかけてくれながら、たーくんが私を見下ろす。
お父さんが……ここへ?
昨日はメッセージのやり取りをしなかったから、私は聞いていない。
でも、もしかしなくてもセットと考えられているんだろう。
きっと、私宛てにメッセージが送られていたら、同じようにたーくんへ伝えるだろうから。
「そうなの?」
「ああ。車、納車なんだとよ」
「わ……きっと喜ぶね」
「だろうな」
向こうでずっと乗っていた車には、もちろん私も強い思い入れがある。
免許取得のために練習したのもそうならば、学校への送り迎えだけでなく、キャンプやスキー、トレッキングにドライブとさまざまな時間を過ごしてきた。
けれど、日本へ帰国することになったとき、お父さんは言ったんだよね。
『もう少し、人数が乗れるほうがいいかもしれないな』って。
どういう意味で言ったのかはわからないけれど、きっとお母さんのことも含まれていたんだろう。
たーくんのことは……含まれていたのかどうか、わからない。
私が彼を好きだという気持ちは、きっと伝わってなかったと思うけれど、お父さん……勘も鋭いんだよね。
そしてそれ以上に、根拠から論理的な展開をする人だから。
「…………」
抱きよせられたまま彼を見ると、やっぱりまだ眠そうで。
……人のぬくもりがこんなに心地いいって、知っていたようで知らなかったんだろうな。
ましてや、好きな人とゼロ距離でそばにいられることが、こんなにも心穏やかになるなんて知らなかった。
「……たーくん」
「なんだ」
「もう少しだけ、こうしてていい?」
無意識かのように髪を撫でる手つきが、穏やかで。柔らかくて。
温かさもあいまって、とろんと眠たくなる。
……特別な時間。
お父さんがどれくらいでここにくるのかはわからないけれど、もう少しだけ、どうか到着が遅れてくれますようにとも願う。
「……んっ!」
「こないだ言ったろ? ただくっつかれてるだけだと、ストレスたまるって」
「でもっ……もう。朝だよ?」
「だから。朝は触れねぇって誰が決めたんだよ」
手つきが一瞬変わり、大きな手のひらが腰を撫でるように動いた。
くすぐったさとは違う感覚に声が漏れたのもいけなかっただろうけれど、たーくんはどこかいたずらっぽく口角を上げる。
……もう。知らなかったんだからね。
こんなふうに触ってくれるようになるなんて、少し前までは……きっと、私も彼も。
「高ぇぞ」
「ふふ。嬉しい」
「……ち。少しは焦れ」
「どうして?」
「なんでもねぇよ」
そっと背中へ腕を回し、より身体を寄せる。
あたたかくて、でも……私とはまるで違うがっしりとした感触があって。
……大好き。
漏れた笑みを噛みしめながら目を閉じると、穏やかな自分の鼓動が聞こえるような気がした。
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