「……あ?」
 いつもと同じ、まさにルーティン。
 顔を洗ってからリビングへ向かう……が、普段ならこたつの上に置かれている新聞が今朝は見当たらなかった。
 今日は休刊日じゃない。
 のにないってことは、まだ取りに行ってねぇのか。
 前までは、お袋が取りに行っていたであろう新聞も、葉月が一緒に住むようになってからはほぼ毎朝アイツが取りに行っていた。
 ついでに朝から花壇の手入れをするマメさも発揮し、どうやらそのおかげで近所の年寄り……ではなく、朝から活動してる面々とは顔見知りになっているらしい。
「…………」
 キッチンを覗くも、葉月の姿はなかった。
 さすがにまだ洗濯干してなさそうだし……ってことは、外か? ひょっとして。
 念のため庭を見るも、当然おらず。
 玄関を確認すると鍵が開けっ放しになっていて、そっちが正解とわかった。
 ネクタイを首へかけたままサンダルを履き、ドアを開け……さっむ。
 もう3月を過ぎたというのに、朝が寒いのは相変わらず。
 しいていえば空が明るくなったとは思うが、気温はまだまだ上昇しにくいらしい。
「…………」
 音を立てて玄関を開け、表に出てみる。
 ウチの前には外階段があって、道路からこの玄関までは高さがある。
 お陰で、ポストは階段下。
 昔は、そこまで新聞を取りに行かされることも何度かあったが、さすがに中学へ入ったころからそれは俺の役目じゃなくなった。
「……何してんだアイツ」
 階段下を見てすぐ、眉が寄る……だけでなくため息も漏れた。
 ちょうど、ポストの前。
 案の定そこに葉月がいたものの、ほうきを手にしており、相変わらずマメだなとある意味感心する。
 が、その隣。葉月の目の前には、早朝だというのにもうひとりいた。
「……………」
 何か喋ってるのはわかるが、さすがにこれだけの距離があり内容までは当然わからない。
 ……何してんだよ、朝っぱらから。
 にこにこと愛想のよさそうな顔は相変わらずで、だがしかしわずかにイラッとしたのはなんでだろうな。
 相手は別に若い男でもなんでもない、どこかの……いやあれ自治会長だろ。
 正月の飲み会であいさつしたから、間違いない。
 彼は今でも俺のことを『瀬那先生のせがれ』と呼ぶ、ある意味古風な人だ。
「……あ?」
 まじまじ見ていたら、しばらくして葉月が頭を下げた。
 どうやら話が終わったらしく、ランニングウェアの自治会長は意気揚々とあちらへ走って行った。
「あ。おはよう、たーくん」
「お前、朝から何してんだよ」
 あいさつをするよりも先に小言が出……って別に小言じゃねぇよ。
 単なる興味だっつの。
「……? なんだ」
 俺に新聞を差し出しながら、葉月が笑った。
 意味がわからず、眉が寄る……ものの、どうやら俺に対するモノじゃないらしい。
 俺を見たまま『違うの』と首を横に振る。
「褒められちゃった」
「……は?」
 くすくす笑いながら告げられた言葉の意味を、一瞬理解できなかった。
 ……褒められた。
 何を。え? 掃除してたのをか?
 まぁそれはありえそうだが、少し違うような気もする。
 実際何をどう言われたのかさっぱりわからず、眉は寄ったままだった。
「ふふ。奥様に似てるんだって」
「誰が」
「私が」
「……で?」
「とってもきれいな奥様らしいの。たーくん、知ってる?」
 自治会長の奥さんは、婦人部にも所属してるから何度か見たことはある。
 まぁきれいかどうかは個人の好みによるからさておき、俺にとって彼女は豪快にビールを飲む酒豪のイメージしかねぇんだけど。
 ……葉月が似てる。
 え、それはなんだ。どこがどうなってそうなった?
「で?」
「ふふ。奥様の若いころにそっくりで、美人さんだねって」
「……ふぅん」
「何度かお会いしたことはあったけれど、そんなふうに言われたことなかったから……ちょっとだけ恥ずかしくなっちゃった」
 事実、葉月はどこか照れたように笑った。
 ほうきを持ったまま玄関へ入ろうとしたのに気づき、すぐそこの物置へ片付ける。
 が。
 問題なのはそこじゃねぇだろ。
 朝からンなセリフはかれてる場合か、っつの。
「で?」
「えっと……」
 玄関に入ったところで葉月を見ると、きょとんとした顔でまばたいた。
 外はかなり冷えていて、カーディガンを着てはいるが頬がやや赤い。
 てことはお前、相当前からいたろ。
 相変わらず、お人よしというか相手優先というか……。
 ため息をついてからサンダルを脱ぐと、慌てたように葉月が俺のすぐ隣へ寄ってきた。
「……たーくん、怒ってるの?」
「なんで?」
「え……ねぇ、どうして? ……私、何かした?」
「別に」
 つか、全然怒ってねぇけど。
 ただ多少イラっとしてはいる。
 理由はわかんねぇけどな。
 なんか、最近こんなんばっかじゃね?
 情緒不安定なのかなんなのか知らねぇけど、ストレスっつーか沸点がだいぶ下がったような気はしてる。
「ねぇ、どうし……っ」
「いつからあそこにいた」
「え? んー……わ、もうこんな時間なんだね。7時ごろからだよ」
 振り返ると、すぐここにいたらしく鼻先がつきそうな距離まで詰まった。
 壁の時計をちらりと見て、驚いたように声を上げる。
 まぁそうだろうよ。
 もうすでに20分過ぎてるからな。
「いくら朝だつったって、風邪引くぞ」
「それは……ごめんなさい」
「いや、俺に謝ることじゃねぇじゃん」
 どうやら俺がイライラしてるらしいと気づいたらしく、葉月が先に謝った。
 が、そうじゃない。
 別に俺がイライラしてる理由はお前と別のところにあるし、関係ないはず。
 ……そう。関係ないはずだろ? 葉月は別に。
「あ、スープ温めるね。ごはんとパン、どっちがいい?」
「パン」
 ひょっとして、腹減ってるせいかとか思ったろ。
 事実はまったく違うところにあるが、まぁ……俺自身もよくわかってねぇから黙っとく。
 空腹度が機嫌を左右するのは誰にでもあるだろうが、そうじゃない。
 が、明確な理由は俺にも正直よくわからない部分がある。
 ……ったく。律儀とも違うぞお前。
 あくまでも、俺が言ってるのは危機意識を持てってことのはず。
 つか、お前はのほほん日本育ちじゃなくて、もっとパリっとした意識持ってるオージーじゃねぇのか。
「……たく」
 新聞を持ったままダイニングへ向かうと、そこにはすでにサラダが盛り付けられていた。
 相変わらずマメだな。
 別の皿にはいちごもあり、すっかり我が家の定番となった朝食の光景に改めてアイツの意識の高さを実感もする。
 普段、まず果物を食べない。
 習慣づいてないってのもあるが、別に必要ってわけでもないから。
 だが、こうして盛り付けられていると、ひとつくらいは食べるかって気になる。
 アイツにとってこの光景が当たり前で、普段ウチの誰よりも果物を口にするのを見るから、定番なんだろう。
 習慣ってホント、人によって大きく違うよな。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
 トースターの音のあと、葉月はバターを手に目の前へ座った。
 俺と同じく、半分にカットしたトーストへ、コイツにとっての定番のアーモンドバターを塗る。
 当たり前の姿。
 だが、少し前はまるで違った光景。
 金曜の朝、お袋と親父は当然仕事だろうが、羽織はまだ寝てるんだろうよ。どうせな。
 先日の卒業式以降、アイツは部屋の片付けをずっとしているらしい。
 ま、きっちり片してから出るんだな。
 4月から……いや、きっと部屋が片付き次第アイツは祐恭と住み始めるんだろう。
 葉月がひどく嬉しそうに教えてくれたが、その情報を俺にどうしろと? とは多少思いもした。
 特別なんだろうよ。そりゃ、きっとな。
 好きになった相手と四六時中いることが幸せかどうか、俺にはわからなかった。
 し、今もよくわからない。
 好きなときに手を出せるメリットはあるが、ほかの連中がごろごろいるこの環境下では、コトを考えるときにそっちも配慮する必要があるわけで。
 ……ある意味ストレスでもあるしな。
 2月末、欲求不満の果てにどうにかなりそうだった自分を多少思い出し、一瞬思考が止まる。
 アレはなかなか……いや、だいぶキツかった。
 人間、ある程度ガス抜きしねぇとヤバいってのを身を持って知ったからな。
「ねぇ、たーくん。そういえばさっきね、『おめでとう』って言われたの」
「誰に」
「えっと……自治会長さん」
 トーストへバターを塗り終えたところで、葉月が俺を見つめた。
 が、表情とセリフが一致しない。
 珍しくどこか困惑している顔で、食おうとしたトーストを前に口が閉じる。
「最近、いろんな人にそう言われることが多くて……」
「例えば?」
「んー、近所の人たちっていうのかな。回覧板をいただくお隣のおばさまとか、この間自治会費の集金でいらした方に」
 いわゆるどころか、まさに地域の人間そのものじゃねぇか。
 普段、羽織を除く3人は日中まず家にいないが、葉月が住み始めたことはどうやら大きく影響してるらしい。
 そういや、こないだもお袋が『ルナちゃんのおかげで、忘れてた自治会費の集金助かったわ』つってたな。
 すっかりこのへんの連中に認知されたらしく、それは逆に葉月にとってはメリットになりそうなものの、やはり戸惑ってるような声は戻らなかった。
「みんな、どうして私の入学のこと知ってるんだろうって……ちょっとだけ、不思議で」
「……入学? なんで」
「だって、それ以外におめでとうなんて言わないでしょう? 羽織の卒業のことかなって思ったんだけど、ニュアンスがなんだか違う気がして」
「…………」
 あ。
 首をかしげたのを見て、だいぶ前のお袋の話を思い出す。
 つか、現場を押さえた。きっちりな。
 そういや、コイツには言ってなかった……つーか、言えるわけねぇじゃん。
 俺が結婚したって勘違いされてるとか、どの口で言う気だ。
「みんな、にこにこして『よかったわね』とか『おめでとう』とか……中には『幸せになるわよ』なんて言われたりして、毎回お礼は伝えるんだけど……それでいいのかな、って」
「…………」
「……たーくん?」
「まぁいいんじゃねーの。おめでとうって言われるだけなら、適当にあしらっとけば」
「でも……」
「なんかモノ持って来たら、お袋でもいいし俺でもいいからとりあえず相談しろ」
 不思議というよりも確実に戸惑ってるのはわかるが、詳細は述べないのが吉と見た。
 トーストをかじり、以上終了とばかりに視線を外す。
 不意に聞こえた、ニュースを読むのとはまた違うお気楽な高い声で、反射的にテレビへと意識が向かった。
「…………」
 別に、信じちゃいない。
 血液型云々だとか、星座別の占いだとかは。
 それでも、目にすれば多少気にはなる。
 『絶対ねぇな』と思っても、どこかで引っかかる。
 ……例えば、そう。
 悪いことが起きたときなんかは、特に。
「……ち」
 つい自分の星座まで順番待ちした挙句に出た、週末の運勢ランキング。
 眉が寄るような結果で、残りの星座を待たずにシャットアウト。
 せっかく、これから週末で休みだっつーのに、すげーテンション下がる。

 『週末は暗雲が立ちこめちゃうかも』

 余計なお世話。
 そうかどうかは俺が決める。
「…………」
 などと思いつつも、『関係ねぇし』と『いやあながち嘘じゃないかも』とで、葛藤している自分もいるから厄介だ。
 あーくそ。
 やっぱ、見るんじゃなかった。
 ……まぁ今さらおせぇけど。
「お前、何位だった?」
「え? おとめ座は2位だったよ」
「……ふぅん」
 普段と変わらず穏やかな笑みを見せたところからして、内容もよかったんだろう。
 ま、もしかしたら運勢とやかく言うタイプじゃねぇかもしんねーけど。
 半分ほど食べ終えたトーストを皿へ置くと、葉月が両手でスープのマグを包んだのが目に入った。

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