「…………」
いつもと同じ、土曜出勤の朝。
上だけワイシャツへ着替え、階段に向かって……そろそろと降りながら足が止まる。
いや、別になんでもねぇし。
つか、いつもと同じ。
そう。
いつもと同じなんだよ。
そうは思うが……。
「……ガラじゃねぇな」
自分がくれてやったものを想像以上に喜ばれることが、こんなに動揺するとは正直思いもしなかった。
「たーくん?」
「っ……ぶね!」
階段の窓から外を見ながら、ため息ひとつついたのがまずかったらしい。
葉月の声で危うく踏み外しそうになり、両手で手すりをつかむ。
どうやら玄関の花瓶の水を替えていたらしく、ピンクと白の椿が見えた。
「はよ」
「おはよう」
にっこり笑った葉月が、玄関の棚へ花瓶を置いた。
その後ろ姿を見ながらも、まじまじ視線が張りつくのは……頭のてっぺん。
いや、てっぺんとは少し違うな。
これまで葉月がバレッタで留めていた場所には、昨日俺が渡したばかりのかんざしが刺さっている。
……器用だな、こいつ。
正直、使い方はよく知らないまま『長い髪に』ってPOPを見て買っただけ。
昨日たまたま帰りに寄った、本屋の隣の雑貨屋にあったピンクゴールドのかんざしは、和と洋が見るからにミックスされていて、単純に葉月っぽいなと思った。
あしらわれている宝飾がピンク系で、チャームまで同じく。
一見すると桜がかたどられているようにも見えて、好きそうって思ったから……なだけで。
別に深い意味はない。
記念でもなんでもない。
だからこそ、昨日は帰宅と同時に、しゃれっ気も何もない紙袋のまま放るように渡した。
店の名前が入ったシールで封がされているだけのもの。
しょーがねーだろ。
『プレゼント用ですか?』って聞かれて、つい『いや』って言っちゃったんだから。
「……あ?」
花瓶の位置を調整していた葉月が、振り返ると同時に俺の頭へ視線を向けて笑った。
なんだよ。何かついてるのか?
思わず手を伸ばすと、首を振って『違うの』とつぶやく。
「寝癖がついてるなんて、普段のたーくんを知る人が見たら、驚くだろうなと思ったの」
「普段の俺?」
「ん。私にとっては、お休みの日にゆっくり寝てるのも、こんなふうに半分だけ着替えてる姿も当たり前だけど、お仕事しているときは違うでしょう? いつだってきちんとした格好で、寝癖も当然ついてないから」
「そりゃな。人間、見た目が9割っつーらしいじゃん。きちっとした格好でいりゃ、文句も減るだろ? 使えるモンはなんでも使う主義なんだよ」
いつどこで聞いたのか、もしかしたら学生のときの心理学の授業かもしれない。
人は初対面であればあるほど、視覚的な情報が優先されると。
だから、初対面の印象こそきちんとしたものを植えつけておかないと厳しい、ってな。
「ふふ。そういうところが、お父さんに似てるなぁって思うの」
「……恭介さんに?」
「ん。お父さんは、出かける直前までパジャマで過ごすから、いつも朝はパジャマのままご飯食べるんだよ」
「まじで?」
「ニュースを見てるなと思ったら、ソファでうたたねしてることもあるし……同じように寝癖ついてることも多いの」
葉月は、彼のそんな姿を思い浮かべるかのように笑った。
俺に見せてる姿と、娘に見せてる姿は完全に別なんだろうな。
そりゃそうだろうけど、わかっているようでわからない部分だけに、聞いていて少しおもしろくもある。
「だから、外でのお父さんしか知らない人には、絶対言えない秘密みたいなものだね」
「そうだろうな。恭介さんは……まぁ、オンオフの差が激しいっつーか、きっちりしてるっつーか。でも、ちょっと安心した。俺の中の恭介さんは、24時間完璧超人だったぜ」
すげぇ存外過ぎる情報を受け、内心では弱みを握れた気持ちに少しだけなった。
つい先日藤沢駅で見かけたときの恭介さんは、いちぶの隙もないような完璧社会人だったからな。
それどころか、俺よりも何ランクも上の生活と仕事してんだろうなってのがわかるような、オーラもまとってたし。
それが……寝癖とか、どんなだよ。
うわ、ちょっと見てみてぇ。
多分永遠になさそうだけど。
「お前も、わりときっちりしてるけどな」
「え?」
「見た目とか、格好とか。大概、朝からちゃんと着替えてんじゃん」
葉月と違い、羽織はパジャマのまま朝飯を食ってることもたまにある。
ま、アイツはぎりぎりまで寝てるタチだからな。
そもそもの習慣が違うって意味で言えば、当然だろうが。
「朝は着替えてるけど……でも、夜は早めにパジャマになっちゃうよ?」
「そりゃ、寝るのが早いからだろ」
「小さいころからの習慣が抜けないのかもしれないね。22時には眠くなっちゃうから」
ま、恭介さんの教育のたまものってやつだろうな。
夜更かしせず、まさに朝型。
夜型が多いウチの中で、2番目には風呂を済ませてる。
ちなみに、ラストはお袋。
アイツは深夜の通販まで見てから風呂に入るから、深夜がザラ。
ま、いいけど。別に。
俺が光熱費払ってるわけじゃねーし。
「あ。ごはんとパン、どっちがいい?」
「あー……今日はパンにする」
「ん、わかった」
土曜出勤の朝は、たいてい葉月とふたりのことが多い。
こうして、葉月が一緒に生活するようになってからは俺の朝食がバージョンアップされたが、それまでは自分で適当に食うかコンビニで買っていた。
お袋は、寝てるか早々に親父と出かけてるかのどっちか。
ま、別に困んねぇしな。
リビングで食パン食いながらテレビ見ても、誰も文句言わねぇし。
「……え?」
すり抜けてダイニングへ向かおうとした葉月の手を、ふいにつかむ。
かんざしのチャームが小さく音を立て、きらりと光をまとった。
不思議そうな顔だが……どこかで、物足りなさを感じる。
これまでの当たり前の表情なのに、な。
比べるのは当然、あのときの顔。
キスされて、俺でいっぱいになってる余裕のない顔じゃないのが、なんとなく引っかかった……のかもしれない。
「っ……」
黙ったまま耳元へ手をあて、わずかに顔を寄せる。
それだけで瞳を揺らし、困ったように唇を噛んだのが見えた。
そうそう、それだよ。
いつだって余裕めいた顔してンだから、俺といるときくらい余裕なくしとけ。
目を合わせたまま鼻先のつく距離まで近づくと、先に葉月が瞳を閉じたのがわかった。
ガチャリ
なんの前触れもなく玄関のドアが開き、新聞を手にしたパジャマ姿のお袋と目が合った。
げ。
瞬間的に葉月から手を離すも、まじまじと光景を見つめ……にやりと笑う。
うわ。
うっわ。
くそが、最悪だ。
「…………」
「ごめーん、邪魔したわね」
「あ……伯母さ――っ!」
返事の代わりに大きく舌打ちし、葉月の腕を引っ張る。
が、葉月がお袋へ何か言いかけたのが見えて、思わず口を塞いでいた。
お前、何言うつもりだ。
いや、ひょっとしたら俺が想像してる方面じゃねぇのかもしんねーけど、今はとりあえずこの場を去るのがベストだろ。
だが、お袋はそんな俺を見てニヤニヤ笑うと、サンダルを脱いで葉月の隣へ並んだ。
「ルナちゃん、不肖な愚息で申し訳ないけど、よろしくお願いするわね」
「失礼だぞお前」
「アンタに言ってないわよ。いい? 何かあったらすぐに私に言ってね。ちゃんとしつけ直すから」
つか、目がマジとかやめろ。
両手を肩へ置き、葉月の顔を覗きこんだのを見てため息をつくも、なぜか葉月が『ありがとうございます』と礼を言ったのが聞こえ、改めて舌打ちが漏れる。
「あ、ちょっと」
「……ンだよ」
ダイニングへ直接向かおうとしたものの、半分ほど身体が入ったところで呼び止められた。
いーじゃん。ほっとけよ。
この歳でうっかりキスシーン見られそうになった息子の気持ちも考えろ。
全然嬉しくねぇどころか、どっちかっつーと全部消したい。
「恭介君にちゃんと言っておきなさいよ」
「……何を」
「馬鹿なの?」
「うるせぇな」
瞬間的にすこぶる機嫌が悪い状態にもかかわらず、お袋は普段とまったく変わらない顔で肩をすくめた。
「ルナちゃんに手ぇ出してること、あとで知ったら恭介君怒るわよ」
「っ……」
怒るわよ、どころじゃない姿が一瞬想像でき、さすがに閉口。
あとで。
つーか、そもそも俺が葉月に手を出したことを知られたとしたら、恭介さんはどんな反応をするんだろうか。
いつもにこやかに笑っている彼だが、こと葉月となると表情も態度も一変する。
湯河原で、女将が恭介さんへ放ったひとことのあとの顔は、それこそ小さい子どもが見たら泣くようなレベルだった。
……ヤバい。
が、今さら引くわけにもいかない。
手どころか、がっつり口まで出してる今、彼へ伝えずにこれ以上葉月へ手を出すのはそれこそ命の危機を伴う。
「……考えとく」
「いや、そこは即答しなさいよ」
「今に今はちょっと……つか、作戦立ててからするから、ほっといてくれ」
ひらひら手を振り、キッチンへ向かう。
ダイニングテーブルには俺のものとおぼしき目玉焼きプラスおかずセットが置かれているも、さっきと違って少しだけ食欲が失せたのは気のせいじゃなかった。
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