「……あの……ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「ひとつと言わず、幾つでもどうぞ」
 いつもと同じ、自宅の外階段前に停められた彼の車。
 ハザードのちかちかとした光だけが、暗闇を照らす。
「…………」
「ん?」
 手のひらを組み合わせたまま視線を落とし、オーディオの光を見つめる。
 ……聞いても……いいよね?
 彼だって許してくれたんだし、それにきっと――……いけないことじゃないと思うから。
「どうして……日曜日に、帰れって言ったんですか……?」
 おずおずと顔を上げて、彼を見つめる。
 ……と。
 一瞬だけ瞳を丸くしてから、気まずそうに口を開いた。
「……それは……なんていうか……」
 困ったように頭を掻き、シートにもたれる。
 そんな彼に、思わず喉が鳴った。
 ……いけないこと、言ったかな……。
 せっかくひとつの大きな誤解が解けたというのに、自分でまた余計なことをしてしまったんじゃ……なんて不安になる。
 ――……だけど。
 彼はしばらく私と視線を合わせてくれなかったんだけど、ふいに小さな咳払いをしてから、まるで観念したかのようにまっすぐに見つめた。
「……あれは、さ」
「…………あれは……?」

「………………歯止めが利かなくなりそうだったから」

「え……」
「だから、いつもみたいにはできなかったんだよ」
 こほん、と口元に手を当ててから、告げられた言葉。
 それは普段の彼の口調とは少し違って、ほんのちょっと……ぼそっとした感じというか。
 だから内容も想像していないようなものだった。
「どんなことにだって、ケジメってモノは必要だろ?」
「ケジメ……ですか?」
「そう。ほら、俺はさ……ご両親に最大限許してもらえてるんだ。だからこそ、裏切ることは絶対にできない」
 少しだけ困ったように笑ってから――……だけど、真剣な眼差しで。
 彼は、しっかりとした言葉をくれた。
「羽織ちゃんと会うためには、今目の前にある課題をひとつずつきちんとクリアしなきゃ許されないんだよ。……今いちばん大切なのは何? 受験だろ? 行きたい大学に合格して、春から自分がやりたいことを目一杯やること。それが、今の羽織ちゃんの仕事」
「っ……それは……」
「……それは?」
「…………そう、ですけれど……」
 ゆっくりとした、静かな言葉。
 だけど、私には『うん』以外言えないまさに正論だ。
「本来、俺と会う時間なんて二の次じゃなきゃいけないんだ」
「っけど……!」
「でも、ね? ……でも……ご両親は、俺たちと同じような経験をしてるから。だから、あれほど寛容な理解を示してくれてる。でも、俺がそれに甘えて目に見えない規則を破ったらどうなる? これまで築けていた、薄いながらも信用ってヤツが一気に崩れるだろ?」
「っ……違う」
「……え?」
「薄くなんかないです」
 私をなだめるかのように髪に触れてくれながら続ける彼に、慌てて首を振る。
 驚いたように瞳を丸くしたけれど、でも、ちゃんと教えてあげたかった。
 ……違うっていう証拠があるから。
 ちゃんとした、言葉が。
「だって、お父さんたちいつも言ってますよ? 『祐恭君には、感謝してもしきれない』って」
「……ふたりが?」
「はい」
 ぶんぶんと首を縦に振ると同時に、いつしかきゅっと彼の袖を掴んでいた。
 ――……すると。
「そっか……」
 小さな声で……だけど、本当に嬉しそうに。
 彼は柔らかく笑った。
 ……よかった……。
 そんな彼の顔を見れたからこそ、本当に嬉しくなる。
 彼にちゃんと伝えられて……そして、うなずいてもらえて。
 なんとなくだけれど、余計な力が抜けたような気がする。
「……でも……だったらなおさら、だろ?」
「え?」

「そこまで俺を認めてくれてる彼らの期待は、裏切れない」

 ふっ、と笑った彼が、表情を少しだけ元に戻した。
 あの……真剣な眼差しに切り替わる。
「……そんなことになったら、これまでみたいに会えない」
「え……っ」
「やることやらないで好き勝手なことばかりする。それは、“自由”じゃないよな?」
 『会えない』という最も聞きたくない言葉で彼を掴んでいた手に力を込めると、落ち着かせるかのように、髪と頬とを撫でた。
「“自由”っていうのは、なんでもかんでもやっていいって意味じゃないんだ。『自分で責任を取る』ってことが、絶対で最大の条件なんだよ」
 『それはわかるね?』と言って、少しだけ顔を覗き込んでくれる。
 その顔は、とても優しくて。
 本当に温かくて……速くなったままの鼓動が、徐々に落ち着くように感じられた。
「……だから」
「え……?」

「だから、羽織ちゃんを無事に帰さなきゃいけないって思った」

 苦笑交じりに呟いた彼に、瞳が丸くなった。
 ……それじゃ……あ。
 じゃあ、もしかしてそれで……?
 それで――……。
「……じゃあ、それで……キ――」
「…………キ?」
 っ……しまった。
 ぽろっと出た言葉を慌てて飲み込むかのように、両手で口を覆う。
 だけど……彼の顔は、これまでと違っていた。
「……その続きは?」
「っ……そ……れは」
「それは?」
「…………うぅ」
 今までとはまったく違う――……むしろ、正反対と言ってもいいほどの顔。
 いたずらっぽくて、少しだけ……意地悪そうで。
 そんな顔をした彼が、ハンドルに手をかけたままゆっくり顔を近づけた。
「…………」
「続きは?」
「……え、っと……」
 吐息がかかるような距離。
 ……近い。
 先生、顔がホントに近いです……。
 …………でも。
「ん?」
「……なんでもないです」
「ふぅん…………なんでもないのに、そんなふうに笑うんだ」
「ぅ。……だ、だって……」
「だって?」
「だ……ってぇ……」
 彼に指摘された通り、ひとりでに顔がにやけていた。
 瞳を細められて慌てて頬に両手を当てるけれど、そんな簡単に直ってくれるわけがなくて。
「…………」
「…………」
「……ったく」
「だって……」
 くすくす笑った彼が、私の手の上から重ねるように頬を包む。
 優しい顔。
 ……大好きな笑顔だ。

「それじゃ、キスしようか」

「っ……え!?」
「ん?」
「な、なんでっ……そんな! 私、だってまだ何もっ……」
「……わからないとでも?」
「っ……そ、いうわけじゃ……」
「……手を出すこと全部我慢してる人間が、答えられないワケないだろ?」

 『ずっと考えてるんだから』

 唇のすぐ前で囁いたあと、わずかに口づけられた。
 ……もしかしたらそれが、きっかけになったのかもしれない。
「……せんせ……」
「お守り代わり」
「え……?」
「……って言ったら……バチ当たるかな」
 少しだけ自嘲気味に笑った彼に、一瞬だけ瞳が丸くなる。
 だけど――……。
「……当たるなら、いいじゃないですか」
 くすっと笑って首を振り、改めて彼を見つめる。
 すると、私以上に驚いた顔をしてから、『そうだな』と笑った。
 改めて彼が顔を近づけ、唇を――……重ねる。
 いったい、いつぶりの口づけだろう。
 いつしか深く……丹念に繰り返されるモノへと変わったキスをしながら、どうしようもなくほっとして、嬉しくて……穏やかな気持ちがいっぱいに身体へ広がっていった。


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