「……っかしいわよ……」
 腕の中で震える彼女が、涙声で呟いた。
「おかしいわよ……! どうして……? どうして、そんなこと言うの?」
 ぎゅっとシャツを掴んだ彼女が、顔を上げてまっすぐに見つめる。
 ……涙が伝った頬が、痛ましくて。
 明らかに俺のせいで泣いているのがつらくて……眉が寄った。
「騙されてるってわかってるのに……! なのに、どうして……!!」
 ぎゅうっと握られた部分から、じんわりとした痛みが伝わる。
 ……彼女は、もっとつらかっただろう。
 ずっとひとりで抱え込んで、悩んで、苦しんで。
「っ……!!」
「理屈じゃない。……好きだから………ただ、それだけだ」
 彼女を再び抱きしめ、髪に顔を埋める。
 ……この髪に触れれば、嬉しそうな顔を見せてくれた。
 自分と同じ匂いがして、さらりと指の間を通って。
 心底、彼女がそばにいることを実感できて、好きだった。
「……ぇ……っく」
 静かに漏れ始めた、嗚咽。
 それが痛ましくて、より一層腕に力がこもる。

 『ねぇ、先生』
 いつも彼女は、笑顔で俺を呼んで。

 『……ありがとう』
 はにかみながら笑みを見せた。

 ――……彼女が見せてくれた笑みも、嘘だったと言えるのか?

「……たとえ演技でも」
 掠れた声のまま喉を鳴らし、瞳を閉じる。
 ……すぐに浮かぶのは、あの、穏やかな眼差しの彼女。
 今、腕の中で身体を震わせている――……彼女に間違いない、あの姿。
「……素直に人を受け入れられるのは能力だぞ」
 いつだって優しくて。
 どんな人間をも、包み込んでくれて。
 ……俺は、何度となくそんな彼女に救われた。
「ふぇ……っ……ぅ……」
 耳に届く押しこめたような嗚咽に、眉が寄る。
 これまではずっと、俺が与えてもらってきたんだ。
 演技だろうとなんだろうと、彼女に救われてきたのは事実。
 ――……だから。
 だから、今度は俺の番。
「っ……!」
 そっと頬を包み込むように手のひらをあて、ゆっくりと上を向かせる。
 幾筋もできている涙の跡を正視するのは当然つらいが……拭ってやることはできる。
 ……そして、これからの彼女にこんな顔を二度とさせないことも。
「……もう人に媚びる生き方はするな」
 眉を寄せたまま彼女を見てから、瞳に溜まっていた涙を拭う。
 すると、一瞬瞳を丸くした彼女が――……わずかにうなずいたように見えた。
「……っ……」
 そっと唇を塞ぎ、短く口づけてから離れる。
 ……同じ。
 そのとき見せた顔は、俺が好きだった彼女の表情と一緒だった。
 …………ほらみろ。
 『同じ』部分がちゃんとあったじゃないか。
 自分に言い聞かせるようにしたその言葉で、ずっと思い詰めていた何かからようやく解放された。
「……ん……」
 再び唇を合わせ、今度は深く口づける。
 そうすれば、いつもと同じ感触で。
 舌で撫でれば、同じ反応を見せて。
「……ん……っ……ん…」
 喉から漏らす声も。
 ぎゅっとシャツを握り締める仕草も。
「……は……ぁ」
 瞳を閉じたまま見せる、深い吐息も、その艶やかな表情も。
 そのどれもが、やはり彼女に違いなかった。
「……先生……」
 少し戸惑ったような瞳ながらも、先ほどまでの……強情な感じじゃなかった。
 ……ようやく、つっぱってるほうでも演じてるほうでもない、彼女自身が見えた感じだ。
 それが、心底嬉しいと思った。
「……いいの?」
「何が?」
「私……素直でもないし……大人しい子でもないんですよ?」
 まるで悪いことをして、それを親に報告してるような……そんな子どもみたいな顔。
 上目遣いに表情を探り、言葉を区切りながら口にする。
 ……周りの大人のせいというのもあるかもな。
 彼女がこうなってしまったのは。
「知ってる」
 まっすぐに彼女を見て呟くと、自然に笑みが漏れた。
 当然ながら、彼女がそれを見て瞳を丸くする。
 ……俺だって、予想外だ。
 だけど、つい……出たんだから仕方ないだろ?
 そんな意味を込めて頬を撫でると、同じように柔らかい笑みを彼女が見せた。
 ……そうだ。
 そういう顔も、ちゃんとできるじゃないか。
 彼女が見せた素直な笑顔が嬉しかった。
「……先生らしくない」
「そう?」
「……ん……」
 くすくす笑いながら首に腕をかけ、彼女が擦り寄ってきた。
 ……以前と変わらない、嬉しそうな顔のままで。

 『羽織にとって先生は、特別な人なんだと思う』

 ……自惚れさせてもらうならば。
 俺の前でだけ見せてくれていた『彼女自身』もあったのかもしれない。
「……ねぇ、先生」
「ん……?」
 甘い、柔らかい声で呼ばれ、彼女を抱きしめる腕に力がこもった。
 ……変わらない、存在。
 俺にとって、『愛しい』と思える彼女。
 だからこそ、そんなふうに呼ばれれば――……嬉しくないはずがない。
「でも、気をつけなきゃダメですよ?」
「……気をつける?」
「うん。反省してください」
 いきなり突拍子も身に覚えもないことを言われて、身体が離れた。
「……何を?」
「えー? わからないんですか? ……もー……ダメですよー?」
 眉を寄せて彼女を見ると、瞳を丸くしてからまるで子どもを叱るみたいに眉尻を下げた。
「だいたい、反省って……何が?」
「それは、もちろん私に対してですよ」
「……羽織ちゃんに?」
「そう」
 うんうん、とうなずきながら、今度は彼女がぴっと人差し指を立てた。
 ……あー。
 この仕草、遺伝なのかもいれないな。
 孝之がよくやる印象が強いからか、そんな彼女を見ながらふと思う。
「抗わないからって、なんでもかんでも言っちゃダメです」
 『わかりました?』と言いながら続けた彼女に、瞳が丸くなった。
 ……えー……と。
 それはやっぱり、普段の俺に言ってるんだろうか。
 ……いや、そうだろうな。
 そりゃまぁ確かに、彼女がすんなりうなずいてくれるからって……あれこれ言ったりしたけどさ。
 でも、それはすべて『嫌』と断ってくれても全然構わなくて。
 俺はただ、彼女の反応が見たいだけなんだから。
 ……だけど。
「……善処する」
「どこの政治家ですか」
「まぁ……うん。なるべく、言わないようにするよ」
 少し呆れたようにしながらも笑みを見せた彼女に、苦笑が浮かんだ。
 ……俺の場合は、一種のクセみたいなもんだからな。
 我ながら困ったクセだとは思うが。
「……もー。そうしないと、また会っちゃいますよ?」
「…………会う?」
 思わず彼女にたずねかえすと、くすくす笑いながら髪を撫でて頬に手のひらを当てた。
 ……いつもと、逆。
 膝で立っている彼女が、俺をわずかに見下ろす格好だ。

「そ。――……私に、ね?」

「ッ……!?」
 くす、と笑った彼女は、これまで見せていた顔じゃなかった。
 ……あの……これまでと同じ、顔。
 世の中を賢く生きるために身に付けた術をうまく使う、あの……したたかな女の顔だった。
「ちょ、まっ……!?」
「じゃあね、センセイ。……私、忙しいの」
 すっ、と離れて立ち上がり、彼女はこちらを振り返らずに玄関へ向かった。
「ちょっと待てって!!」
 慌てて自分もあとを追うが、うまく足が出ない。
 走ろうともがいているみたいな……そんな感じに包まれて、もどかしさだけが先に立つ。
 ――……と、そんなとき。
 彼女が俺を振り返った。
「ねぇ、先生」
「……っ……んだよ……!」
 先ほどまでと、まったく違う呼び方。
 それに、眉が寄る。
 ……同じって思ったハズなのに。
 彼女は、掴みどころというモノがないんだろうか。

「早く起きないと、戻れなくなるわよ?」

「ッ……な……!?」
 くす、と笑って唇を指でなぞった彼女に、瞳が丸くなる。
 ――……と同時に。
 どくん、と大きく耳に聞こえるほど、心臓が大きく脈打った。


ひとつ戻る  目次へ  次へ