「……あれ……」
「どーも」
 羽織を引っ張るような格好で準備室に入ると、当然のように祐恭先生が瞳を丸くした。
 ま、そうでしょ。
 だって本来ここに来るべき人間は、愛しの彼女ちゃんだけで充分なはずなんだから。
 ……でもね。
 今はどーしても、先生に付き合ってもらいたいことがあるの。
 だから、そんな顔しないでくれる?
 訝しげに眉を寄せて私と後ろにいる羽織を見比べる彼に、とりあえず眉を寄せて抗議しておく。
「っ……あ」
 彼へにっこり笑ってから、羽織の腕を取って前へ。
 すると『本気なの?』みたいに不安そうな顔をしたけれど、私がなんて答えるかってことは、よーくわかってくれてるみたいで。
 祐恭先生に見せたのとはちょっと違う笑顔で首をかしげてやると、小さくため息をつきながらも、ちゃんと彼へ向き直った。
 ……ふ。
 それでこそ、羽織。
 長年付き合ってきた友人として、申し分ない反応だわ。
「……あの……先生」
「ん?」
「えっと……」
 一歩離れた場所から羽織を見守ると、心底困ったような顔をしながらもじもじと所在なさげに両手を絡ませていた。
 ……いじらしい子。
 ついついそんな仕草にも、かわいさがこみ上げる。
 ――……って私は何。ちょっと変態さん?
 ふと我に返って咳払いをし、改めて動向を見守ることに専念した。
「……あの、ですね……」
「うん」

「……そのっ……お金、貸してもらえませんかっ」

 彼の視線を困ったように受け流していた羽織が、申し訳なさそうに瞳を閉じてから言葉をひねり出した。
 ……言った。
 いくら私が言って聞かせたところで、もしかしたら羽織はできないんじゃないかと思ってた。
 だけど、実際に彼女は――……こうして予想以上のできを見せてくれたワケで。
 ……うん。
 やっぱり羽織は、いざというときにはちゃんとできる子なのよね。
 なんていうかこう……期待を裏切らないっていうか。
 ……ありがとう、羽織。
 あなたの行為は、決して無駄にしないわよ。
 頬杖をついたまま少しだけ瞳を丸くした祐恭先生を見ながら、何度かうなずいてしまった。
「まぁ……それは別に構わないけど……」
「えぇ!? いっ……いいんですか……!?」
「うん」
 ぽりぽりと頬をかいた彼に、羽織はものすごくびっくりしたような顔をした。
 だけど、当然といえば当然のように、彼はそんな羽織を見て逆に驚いたらしい。
 ……まぁ、そうよね。
 『貸して』って言った人間がそんな反応したら、誰だって不思議に思うだろう。
「それで、いくら?」
「え」
「あ」
 ふたつ折りの財布を取り出した彼の言葉で、羽織とまったく同じタイミングで声をあげてしまった。
 ……マズイ。
 ていうか、実際金額までは考えてなかった。
「…………」
「…………」
 ……どうしよ。
 眉を寄せて困ったように私を見る羽織に、ついつい何も返せない。
 ……うー。
 だって、そういえば金額は決めてなかったんだもん。

 『お金貸してって言われたら、何も言わずにいくら貸してくれるか?』

 実は、そんなことを準備室に入る前に羽織と話していて。
 それで……実行してもらったんだけれど。
 …………ぐあ。
 マズい。
 非常にマズい。
 これじゃあ、身も蓋もないっていうか、せっかくの計画が水の泡っていうか――……。
「はい」
「え? っ……せんせ、これ……!」
 などと、独りで内心慌てまくっていた……そのとき。
 羽織の手を取った彼の行動に、思わず何も言えなかった。
「いっ……ちまんえん、ですか……!?」
「うん。いいよ、持ってって」
「っでも……! でも、私……」
「困ってるんだろ? それで足りなかったら、また言ってくれればいいから」
「……先生……」
「だから、持ってっていいよ」
 ……驚いた。
 あわてふためく羽織に、彼はただただ彼女を落ち着かせるように静かなトーンで言葉を続けて。
 そして、半分に折ったまま手に握らせたひとりの福沢諭吉を……1度も見ずに、ずっと羽織だけを見つめていた。
 ……うっわ。
 何?
 なんか、めちゃめちゃスマートなんですけど。
 横で見ていた私でさえこれだけどきどきしたんだから、当の本人である羽織は――……あー……言わんこっちゃない。
 この顔は、惚れ直してる最中ねきっと。
 ……間違いない。
 瞳を丸くしたまま呆然と彼を見つめているその顔には、自分を信頼して行動を起こしてくれた彼に対する、深い愛情と感謝の念がものすごくどころか、めいっぱい込められていた。
「ありがとうございます……っ」
「いいえ」
 にっこり笑って首を振った彼を見つめたまま、心底嬉しそうに唇を噛んだ羽織は――……とっても幸せそうで。
 ……あー。いいなぁ。
 これぞまさに、パートナー。
 そんな感じが、何も語ってないふたりからびしばし伝わってくる。
 ……うん。
 よっしゃ。それじゃ次は私の番ね。
 なぜか私がここに入って来たときもまったく反応を見せなかった、祐恭先生の真向かいに座っている純也。
 そんな彼に身体ごと向き直ると、まるで今気づいたかのような顔で私を見上げた。
 ……うわ。
 何? その、まだ何も言ってないのにものすごく迷惑そうな顔は。
 祐恭先生とえらい違いね。
 ひどく邪険にされている感じが、もんのすごく伝わってきて、自然と眉間に皺が寄った。
「あのね」
「なんだ」
「ちょっと、お金貸してほしいんだけど」
「断る」
「…………」
「…………」
 しゅーりょー。
 ……って、ちょっと待った!!
「っはぁ!? ちょっ……何よそれ! っていうか私、まだ何も言ってない!!」
「知らねーよ。どーせ、ロクでもねーことに遣うんだろ? ンな無駄銭はねぇよ」
 訝しげどころか、めちゃめちゃ機嫌悪そうな顔で純也は私をさらりと一喝した。
 ……っていうか!
 そんなにあっさり締めくくられちゃったら、立場っていうか、二の句っていうかがまったくもって継げないんですけど!
「ちょっと!!」
「……なんだよ、うるせーなぁ……」
「だから!! どうして羽織は認められたのに、肝心の私はダメなワケ!?」
「……はぁ?」
 ばしっと机を両手で叩き、キッと真正面から彼を睨みつけてやる。
 ――……だけど。
 だけど純也はそんな私を見てもまったく気にする様子すら見せずに、大きなため息を盛大に吐いた。
「……当たり前だろ? 羽織ちゃんは、お前と違って無計画なんかじゃないんだから」
 祐恭君だってそれは百も承知だろうが。
 そう言って純也は、私から目を逸らした。
 ……あーそー。
 あーーそーーーですかーー。
 そうですね。
 確かに、おっしゃる通りですわね。
 そりゃあ、羽織は私と違ってしっかりした子ですよ。
 無駄なことになんてお金遣わない、計画的な現代っ子ですよ。
 ……でもね。
 でも、羽織と私は違うの。
 確かに純也の言うこともわかるけれど、でも――……それでも違うのに。
 私は私で、羽織は羽織なのに。
「……わかった」
「あ? ……おい、絵里?」
「いいわよ。わかったから、もういい」
 ぽつりと呟いて伏し目がちに純也を見ると、先ほどまでとは少し違って、どこか心配そうな顔を見せた。
 ……フン。
 遅いのよアンタは、何もかも。
 どうしてそうやって………欲しいときに、欲しいことしてくれないわけ?
 さっきまでと全然違う純也の反応が、悔しくもあり切なくもある。
「あっ。絵里!?」
「教室戻るわよ」
「えぇ!? あ、で、でもっ……」
「いーから!」
 相変わらず祐恭先生にほれぼれしていた羽織の腕を掴み、後ろ向きのまま出口へと引っ張っていく。
 ……もー、いいわよ。
 純也がそこまで言うなら、私にだって考えがあるんだから。
 ……っていうか――……!
「最初から決めてたことがあるんだから」
 準備室のドアに向かいながらそんなことを呟くと、自然に口角が上がった。
 待ってなさい、田代純也。
 ……目にモノ見せてやるんだから。
 一世一代と言ってもイイくらいの――……華麗な変身を。

「今夜、羽織ン家泊めてね」

「えぇ!?」
 ぼそっと呟いてから彼女を見ると、ものすごく大きなリアクションのまま瞳を丸くした。
 ……でもね?
 今さらもう、あとには引けないことなの。
 だから、お願い。
 今晩私に付き合って。
 できれば、朝まで。
 困ったように顎へ手を当てた彼女にウィンクを見せると、薄っすら唇を開いてから、やっぱり困ったように笑みを浮かべた。


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