外に出ると、雨が降っていた。
しかも、割と粒の大きなモノ。
「……つめて」
傘なんて持って出なかった俺は、当然ズブ濡れになって。
ぴったりと張り付く様に身体へまとわり付くシャツを剥がしながら玄関に入ると、中からは明かりなんて漏れていなかった。
……まだ、帰ってないのか。
時間は、もう既に遅い。
なのにも関わらず、家に人の気配は無い。
普段は割と早い絵里も、今日に限って遅いのか。
…俺にとっては、好都合。
まだちゃんと頭も心も整理がついてないから、今からじっくり考えれば丁度いいだろう。
「……しっかし、ツイてねぇな」
「同感ね」
「うお!?」
すぐ後ろで聞こえた呟きで、半ば飛び上がるようにそちらを振り返る。
…すると、俺と同じように髪から雫をたらした絵里が、俯いた状態で立っていた。
「…え…り」
「……私、家に居ろって言ったわよね」
「あー……そ、だっけ?」
「言った」
普段と違って、妙にトーンの低い声。
それが何とも遣り辛くて、色々と調子が狂う。
「これ」
「…は?」
「何なのよ、コレは」
何やら白い紙のような物を取り出した絵里が、その時ようやく顔を上げた。
…あー……。
「…もしかして、探したの?お前」
「こんな置手紙するなんて、馬鹿にも程があるんだけど」
「……別に、探してくれなんて頼んでない」
「私だって、探してなんか居ないわよ」
『じゃあな』と一言だけ書いて、テーブルへ残した紙。
そこに記された俺の字は、雨に濡れたせいか、滲んで元の字を殆ど残していなかった。
ガラじゃないとは思ったが、何も残さないと言うのも気がひけてした事。
それなのに、まさかソレを見てコイツが外へ出ていたとは。
「……悪い」
「話は後。…とりあえず、さっさとシャワー浴びて来なさい」
「………はー…」
「…?聞こえなかった?だから、とりあえずシャ――」
「お前が浴びるんだよ馬鹿」
大きくうなだれてから絵里の肩を掴み、くるっと回して洗面所へと向かわせる。
だが、それが気に入らなかったのか何だか知らないが、絵里はこちらを振り返りながら眉を寄せた。
「っ…ちょ…!?ちょっと!私じゃな――」
「…ったく。馬鹿かお前は」
「なっ…んですって!?」
「あのな。目の前でびしょ濡れになってる女が居るのに、『それじゃ』って先に風呂入る男がどこにいんだよ」
「あ、だ、ちょっ…!だから!」
「いーから、お前が入ってこい」
「わっ!?」
どん、と軽く洗面所へと押し込んでからドアを閉め、そこにもたれる。
暫くドンドンとしつこく叩いていたが、それでも珍しく折れて大人しくなった。
「……………」
…馬鹿か、ホントに。
あんな風に必死に探したなんて形跡見つけちまったら、手離せるワケねーだろが。
「……はぁ」
瞳を閉じて頭をかき、『これから』の事をふと考えてみる。
時間はもう、十分な程は無い。
むしろ、これから互いに風呂へ入れば――…そのまま越えてしまうかも知れない程度しか残っていない。
……どうすればいい?
俺は、これからアイツに何を言えばいい?
そもそも、俺は――……懇願でもするつもりなのか…?
「……馬鹿か…」
頭悪いヤツ。
これまで行動を起こさなかった自分が悪いのに。
この時初めて、『後悔』という物を知ったような気がした。

「……………」
人気の無い寝室へ向かい、濡れた服を脱ぐ。
時期的にもこんな格好で居られるような気候じゃないが、濡れたままの服を着ているよりもずっとマシだと思う。
「…あ?」
普段絵里が使っているベッドへ座ろうとした、その時。
ふと、いつも以上に散らかっているのが目に入った。
「………何だコレ」
いかにも、『脱ぎ散らかしました』と言っているようなスーツ。
それが、そっくりそのまま形を作ってここに残っていた。
……確かに、絵里は割と大雑把だと思う。
だが、それでもスーツだけはきちんと自分で掛けていた。
彼女にとっての、勝負服。
まさにこれはそんな名前がぴったりだからこそ、絵里は自分で管理をしっかりとしていた。
………それなのに、だ。
どうしてこんな風に、粗末に扱われている?
型崩れしないようにって、人一倍気遣ってたアイツなのに。
それなのに――……どうして?
「…………」
そんなに、大事だったのか?
俺を見つけに行く時間ってヤツの方が。
……期待なんてするモンじゃない。
それは、良く分かってる。
だが、それでもやっぱり考えずにはいられなかった。
絵里の中での優先順位というモノを、はっきりと目の当たりにしてしまった気がして。
「……純也?」
「こんなに急いでたのか?」
「…え?」
「…そんなに大事な用でもあったのか?」
電気もつけないまま佇んでいた俺を呼んだ絵里を振り返ると、風呂上りらしい甘い香りを身に付けてすぐそこに立っていた。
「……仕方ないでしょ」
「…なんで?」
「…………大事なんだから」
それまで合わしていた瞳を一度逸らしてから再び合わせ、僅かに絵里が俯いた。
――…それが、俺の中では決定的だった。
「っ…じゅ…んや…!?」
「…ンな顔見せんじゃねぇよ」
「は……はぁ!?」
「仮にもお前、これからヨソの男と暮らすんだぞ?何とも思ってねぇ男に、そんな顔するな!」
「な…んでキレてんの!?ワケ分かんない!っていうか、何よその態度!人が折角探してあげたのに!!」
「だから!探してくれなんて、頼んでねぇっつってんだろ!?」
「はぁ!?何様よ、アンタ!人の好意も分からないなんて、さいってー!!恩を仇で返す人間なんて、初めて見た!」
「あーそーかよ!何とでも言え!でも、お前が悪いんだからな!!っつーか、そもそも何で俺がお前と暮らさなきゃなんねぇんだよ!おかしいだろ!?」
「だから!それは私じゃなくて、両親に言ってよ!!知らないわよ、そんな事で文句言われたって!筋違いにも程があるんだから!」
「何だと!?」
「何よ!!」
互いにぎりぎりまで顔を近づけて、結局言いたい事を言うしか出来なかった。
俺だって、最後の夜にこんな事するつもりもなかったし、したくなんてない。
だけど、どうしても黙ってなんて居られなかった。
自分自身の気持ちを知っているであろうコイツに、何のアクションも示さないで終わるなんて事は。
――…だけど。
だけどそれでもやっぱり、俺の知らない男に対して申し訳ない気持ちもあった。
絵里がそいつを本気で好きで、そいつもきっと絵里の事を大切に思って居て。
……でも。
それでも俺は我侭だから。
俺の事を『大事』だと言う絵里が、俺以上に『大事』だと言うヤツなんかの存在が正直許せなかった。
コイツにとってそう言われるべき人間は、二人もいらない。
むしろ、俺だけで十分だろう?
この時はもう、そんな我侭な事しか思い浮かばなかった。


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