「それじゃ、ここから自由行動になる。あまり無茶な行動はしないようにー。あと、他校の生徒に絡んだりもしないようにな」
遠足当日。
天気には恵まれなかったが、別に土砂降りでなければ問題ないだろう。
どうせ、同じグループのメンツからして水族館くらいしか行かないだろうし。
などと考えていたら、孝之が肩を叩いた。
「ほら、行こうぜ」
「ああ」
……なんだかんだ言いながら、コイツら絶対楽しんでるよな。
口では『今さら八景島とかねーわ』など言っているものの、顔は思いきり笑ってるし、後ろ姿も浮き足立っている。
結局は、みんなガキってことか。
まあ、恐らく自分も巻き込まれているのだから仕方ないな……と思うと、少し悲しいがどうしようもない。
同じ穴のムジナ、か。
「あー、涼しくね?」
「てか、懐かし!」
「…………」
館内に入る前にふと、彼女の姿を無意識のうちに探している自分に気付いた。
あの、駅まで送ってもらった夜以来、どうも彼女を無意識のうちに追っているらしいのだ。
とはいえ、別に孝之やほかのヤツに言われたわけじゃないんだが……不思議なんだよな。
年上なのに、感じるのは年下のような甘さで。
自分のなかで微妙なラインを保ったままだからこそ、あの笑みを見るたび、ついつい見入ってしまう。
……危ないな。
小さくため息をついて館内に入ると、視線が落ちた。
「すげー! でけぇー!」
目の前にある回遊魚の巨大水槽へ張り付くようにして、班の連中が声をあげていた。
……恥ずかしいヤツら。
小さくため息をついて先に進むことを告げ、ひとり違う場所へ向かうべく足を向ける。
あの様子じゃ、しばらくあそこから離れないだろうし。
平日ということもあって、あまり人がいないせいか、やけに館内が広く感じられる。
――……と。
「……あれ」
奥まった水槽へもたれるように、立っている人物。
後ろ姿ながらも、彼女であることがすぐわかった。
……どうりで見当たらないわけだ。
「…………先生?」
「え?」
歩み寄ると、瞳を閉じて少しだるそうにしていた。
だが、声をかけた途端、俺だとわかったからか慌てて笑顔を浮かべる。
「あ、どうしたの?」
「それはこっちのセリフ。どうしたの? こんなところで」
「……う、ん。ちょっとね」
パンフレットで口元を押さえながら壁にもたれる姿は、いかにも具合が悪そうだった。
「気分悪い?」
「……ん。ちょっと……」
小さく訊ねると、苦笑を浮かべて彼女がうなずく。
ほの暗い館内ながらも、顔色がよくなさそうには見えるもので。
触るつもりなんてないのに、思わず手を伸ばしていた。
「あ、でも、大丈夫だよ? ほら、立て――……っ」
「っ……!」
壁から身体を離してにっこり笑った瞬間、膝が折れた。
慌てて抱きとめて顔を覗くと、苦笑を浮かべて立ち上がりこそするものの、まったく平気そうじゃない。
「……ごめんね」
「全然大丈夫じゃないだろ。どこかで休んだほうが――……」
「ん、そうする。……だから、私のことは気にしないで?」
……はぁ。
思わずため息が漏れた。
この人は本当にわかってるようで、何もわかってないのか。
「そうですか、って離せるわけないだろ? ……ったく。どこか休むとこ――っ……」
あたりを見回したとき、ふいに彼女がもたれてきた。
これまで感じたことのない柔らかさで身体が先に反応し、びくりと肩が震える。
顎下にある、彼女の頭。
自分とは違う甘い香りがして、情けなくも喉が鳴る。
「せ……んせ?」
「ごめん……ちょっとだけ……祐恭君貸して?」
「…………いいけど」
「ありがとう」
ぺたり、と抱きつかれる格好のまま、なるべく人目につかないように……と奥まった水槽の壁際へもたれる。
どういう理由があれ、制服着てる俺が私服の彼女を抱きしめてるのを見られるのはマズいだろ。
それに――なんとなく、勝手な優越感を味わいたくて、というのもあったのかもしれない。
「…………」
膝より少し上の丈のスカートに、ノースリーブのシャツ。
どこからどう見ても教師には見えない格好をまじまじ見てしまってから、視線が逸れる。
……教師がこんな格好するなよ。
ただでさえ抱きつかれている状況なのに、素肌を見てしまうと結構キツいわけで。
「……ありがとう。ごめんね、急に」
「いや、それは別に……でも平気? もっときちんと休んだほうがいいと思うけど」
「うん。ちょっと、貧血……かなぁ。最近、あまり眠れてなくて」
「……そうなの?」
「ほら、もうすぐ期末テストがあるでしょ? だから……かな」
彼女にとって初めての期末テスト。
だからこそ、余計にプレッシャーがあるのだろう。
微笑んでみせたものの、やはり笑顔はどこかぎこちなくて、思わず眉をしかめる。
「もっと休んだほうがいいって」
「……うん。そうするね」
彼女に触れていた手を離してから小さく苦笑すると、素直にうなずいた。
そのとき、肩から滑り落ちる髪を目で追ってしまい、また、喉が鳴る。
……マズいな。
身長差があるために、彼女はいつも自分を見上げる格好になるのだが……今だけは、抱きつかれたということもあってか、ちょっと――……。
「っ……祐恭、君?」
無意識のうちに、頬へ触れていた。
驚いたように見上げる彼女の瞳が驚いたように見張ったかと思いきや、どこか不安げに揺れて……。
「おーい、祐恭!」
「っ……」
名前を呼ばれて、やっと我に返る。
途端、彼女が頬を染めて苦笑を浮かべた。
「……じゃあ、私……行くね」
「あ、うん」
慌てたように彼女がその場を去ると、後ろから孝之が来たらしく、『お前さー』なんて声が聞こえた。
だが、コイツは何も知らない。
まさか今ここで、自分の姉が俺と…………なんてことは、まったく。
「何してたんだ? こんなトコで」
「まぁ……ちょっとした経験」
「は? なんだそれ。あ、そうそう。そろそろシロイルカのショーやるんだとよ。見に行こうぜ」
「あぁ、いいけど」
「よし」
やたら嬉しそうにうなずいた孝之を合図に、グループメンバーがともに来た道を引き返し始める。
エレベーターに乗り込んで向かうのは、CMなどでも何度も見たことのある、シーパラダイスの巨大プール。
すでに結構な人数が入っていたが、大半がうちの学校の制服を着ていた。
前のほうの席がまだ空いていたのでそこに座ると、水槽と目の高さがほぼ一緒になる。
……これは、水被るかもな。
「ん?」
ここより数列前に彼女の姿があった。
葉月先生とともに、何やら楽しそうに話をしている。
……具合、よくなったみたいだな。
先ほどまでとは違う表情の明るさが見え、自然に笑みが漏れた。
時間通りにショーが始まり、ギャグなのか? と思われるシロイルカとトレーナーのやりとりが結構笑えたりして。
そのうちアザラシやらペンギンやらトドやらと、さまざまな動物がショーをしていく。
「うわ、でかっ!」
「すごいな」
思わず、そんな声が出てしまうのも無理はないだろう。
それこそ、テレビで見るよりもずっと大きなシャチが現れ、ひととおり豪快なショーを見せると、最後にトレーナーを乗せてプールを周遊した。
ザバァッ
「うっわ!?」
「きゃー!」
案の定、水槽の近くの人間は、ヤツによって水をかけられるわけで……。
結構離れていたとはいえ、俺たちもそこそこ濡れる羽目になった。
「……うわ、結構濡れたな……」
「だな」
「あはは、すっげぇ冷てぇ」
とはいえ、どいつもこいつも楽しそうで。
同じように笑ってばかりなのが、妙におかしい。
――……そういえば。
俺たちより前に座っていたあのふたりは、もっと濡れたんじゃ――……やっぱり。
困ったように笑いながら、女性教師ふたりはびしょ濡れに近かった。
なんか……まるで子どもみたいだな。
私服だからか、余計にそんな考えが及ぶ。
「あの馬鹿。あんなところに座るから……」
「まぁ、楽しそうだからいいんじゃないか?」
「……そーゆー問題か?」
孝之も彼女らを見つけたらしく、ため息混じりに呟く。
しかし、楽しそうに笑うセンセイだな。
ああいう顔を見れただけでも、結構収穫あったかも。
――……って、なんの収穫だか。
「…………」
まだ彼女の感触が残っているような気のする、身体。
あのときの優越感からか笑みが漏れ、孝之に指摘されたが『なんでもない』とだけくり返した。
「……くん、祐恭君!」
「…………ん……」
聞き覚えのある声でまぶたを開けると、そこには彼女がいた。
「っ……先生」
「学校、着いたよ?」
あまりの近さに慌てて窓の外を見ると、確かに学校だった。
……あれ?
俺、寝なかったつもりなんだけど……。
「疲れた?」
「……かも」
立ち上がって伸びをしながら彼女に言うと、小さく笑い声が聞こえた。
そんな彼女に、つい意地悪っぽく笑みが漏れる。
「……先生が抱きつくから」
「えっ……や、あの、あれはっ……」
案の定困ったように眉を寄せて俺を見上げた彼女を見下ろしながら、ふと……また手が伸びそうになった。
俺よりも小さくて、華奢で、柔らかくて。
孝之も知らない、彼女の事実。
いや、きっとこの学校内では俺以外ほかの誰も知らないことだろう。
「……先生さ」
「え?」
「そういうかわいい顔は、あまりしないほうがいいと思うよ?」
「……か……かわいい、顔……?」
「うん。そうやって上目遣いに見上げられると……ヤバいって思うヤツもいるんだから」
「そう……なのかな。でも、こうしないと視線合わないでしょ?」
「そうだけど……」
自覚なし、か。
だからこそ、余計にたちが悪い。
「簡単にキスされても知らないよ」
「っ……ま、まさか! そんなこと……ないもん」
「どうかな」
小さく呟くと、彼女が頬を染めて首を振った。
あと、少し。
もう少しだけ距離を縮めてしまえれば、俺は――……。
「……そんなことないから。ほらぁ、祐恭君も早く降りてね」
うまくかわされた、ってところか。
ふい、と彼女が先に背を向けてバスを降りてしまい、仕方なくあとを追う。
すでに集合していたクラスの連中のところへ戻ると、瀬那先生から少し話があったものの、すぐに解散となった。
帰り際、ついいつものクセで彼女へと視線がさまよっていたが、結局目が合うことはなかった。
まぁ、あんなこと言えば当然かもな。
なんて少しばかりの罪悪感を感じながらも、家路につくことにした。
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