テスト期間に入って数日経った、本日。
いよいよ最終日とあって誰しも気合の入った様子で教科書を開いたり単語帳を見たりしているわけだが、相変わらず孝之だけはいつもと変わらない姿を見せていた。
テスト前の休み時間だというのに、教科書も開かずに眠っている。
……まぁ、3年間同じスタイルってのは、ある意味すごいかもな。
などと考えていたら、いよいよ英語のテストのために彼女が入って来た。
「じゃあ、テスト用紙配るから教科書閉じてねー」
いつも通りの表情は、今日も変わらなかった。
結局、あの遠足以来変わった話をするでもなく、当たり障りのないやりとりをするだけ。
連絡を聞きにいって、それを伝えて。
……まあ、あからさまに避けられるわけでもないんだから、別にいいんだけど。
「…………」
配られた問題を裏返したまま回すと、すぐ開始時間になった。
例に漏れず表に返し、当たり前のように問題文を読み始める。
特にひねった形跡もなく、いたって普通の問題。
……シンプルで、彼女らしいといえば、らしい。
などと頭のどこかで彼女の父である瀬那先生の問題との対比をしながら答えを書いていたのだが、途中の問題でシャーペンが止まった。
取り上げられているのは、ある恋愛映画の一場面。
主人公の気持ちを表している一節を文中から抜き出すというものなのだが、ここでほんの少しだけ『やるか』という気になった。
少しだけ、ね。
答えといえば、答えだろう。
主人公じゃなくて俺の気持ちだが、俺の人生の主人公は俺に変わりないんだ。
……なんていうのは、ただの屁理屈か。
採点するときの彼女は、いったいどんな顔をするんだろうか。
困るのか、それとも――……などと想像するだけで、苦笑が漏れる。
時間通りに答えを書き終え、見直しをしてからシャーペンを置くと、ほどなくして終了のチャイムが響いた。
解答用紙を集めてから整えた彼女が、簡単なSHRを行って教室をあとにする。
その後ろ姿も、いつもと同じ。
何も変わりない……いや、これから変わるのか。もしかしたら。
心のどこかで『あの解答を見た彼女が変わってくれることを』を願っている自分がいて、それもどうなんだとは正直思うが、こればかりは仕方ない。
「っし。テストも終わったし、帰ろうぜ」
「ああ」
苦笑を浮べながら彼に続いて教室を出たあと、昇降口から駐輪場へ向かう。
バイクの後ろに乗って向かうのは、何度となく通った彼の家。
暑い日だからこそ、風が心地よかった。
孝之の家に上がりこんで、ゲームやら何やらをしていたら、いつの間にやらほかにも数人の友人らがあがりこんでいた。
時計を見ると、すでに18時半を回っていて。
それでも明日が土曜で休みということもあってか、誰も帰ろうとはしなかった。
「…………」
彼女が帰宅しているかどうかは、わからない。
それでも、もしかしたらすでに答案は見られているのではないか、とは予想できる。
……どういう顔するんだろうな。
まだ見ていない彼女の反応が内心気にはなるものの、反面、不安でもあった。
「……あ?」
そんなとき、不意にドアがノックされた。
控えめな、2回のノック。
どうやら相手が誰か孝之にはわかったらしく、いぶかしげに眉を寄せてドアを見やる。
「ごめんね、祐恭君……ちょっといい?」
「……え?」
「ンだよ。学校じゃねーんだから、呼び出すこたねーだろ」
「だって……」
少しだけ開いたドアからのぞいた顔は、いつもと違って不安そうに見えた。
気のせいだろうとは思うが、もしかしたら俺の気分がそう映し出しているのかもしれない。
「いいですよ」
「……ごめんね」
制そうとした孝之に手を振り、立ち上がって彼女のあとを追う。
正面にある、ドア。
そこはこれまで一度たりとも入ったことがなかったが、どうやら彼女の部屋らしい。
開け放たれているドアから、孝之の部屋とはまるで違う色が見えている。
「……学校で話そうかと思ったんだけど……」
座るように言われてから腰をおろすと、対面に彼女が座った。
「これって……どういうことかな?」
「どうもこうも。主人公の気持ちだけど」
「だけどっ! これは……文にないでしょ?」
「文になくちゃいけないわけ?」
「……それは……」
だって、設問が……なんて小さく聞こえた気がするが、視線を合わせていると彼女が俯いてしまった。
明らかに困っている。
……まぁ、そうだろう。
まさか、答案に彼女のことを書かれるなんて思いもしなかっただろうし。
「本気だって言ったらどうする?」
「え……」
頬杖をつきながら彼女を見ると、目を丸くしてから眉を寄せた。
「俺が好きだ、って言ったら……先生はどうするの?」
「っ……そんな……もぅ、教師をからかうものじゃ――」
「からかってない」
「けど……!」
「……じゃあ、証拠見せようか?」
「証拠……?」
「そう」
不思議そうな顔をした彼女の頬に手を当てる。
滑らかな、あたたかい頬。
俺とは何もかもが違う存在に触れ、ガラにもなくドキリとした。
あの、水族館のときとは違う。
今は誰の目を気にするでもなく、行動することができるから。
「っ……いい……」
「よくない」
「や……っ! 祐恭く……」
「……本気だって言っただろ」
「だか――っ!」
文句を言いそうな彼女の唇を、無理矢理に塞いでしまう。
力ずくで……という表現が正しかったかもしれない。
ただ、触れるだけのキス。
それでも考えていた以上に身体へ力が入っていたらしく、ゆっくり手を離すと、心なしか痺れが残っていた気もした。
「…………」
謝りはしない。
音のない部屋に残るのは、言いようのない重たい雰囲気だけ。
彼女を離して立ち上がり、何も言わず部屋をあとにする。
きっと、俺はずるい。
孝之の部屋に戻ってバッグを持ち、開けたままのドアへ向かう。
「帰るな」
「あ? なんだ、もう帰るのかよ」
「ああ。じゃ、また月曜」
「おー」
ドアを閉め、階段を下りて玄関へ。
そのとき、リビングから出てきた葉月先生と鉢合わせするも、彼女は普段と変わらない笑みを浮かべた。
「お邪魔しました」
「ごはんの支度、できたから……一緒に食べていったらいいのに」
「いえ。……失礼します」
「あ……それじゃあ、気をつけてね」
少し残念そうな彼女に頭を下げ、靴を履いて玄関を出ると、少しだけ生ぬるい空気に当たった。
……気まずくて当たり前。
それでも、どうしてあのときキスをしたのかは、自分がよくわかっている。
単なる自己顕示欲と、悔しさ。
あのときの俺を突き動かしたのは、そんな本能に近い部分。
彼女が俺をひとりの生徒としてしか見ていなかったことは最初からわかってたはずなのに、いざ目の当たりにしてみるとどうしようもなく悔しくて。
きっと、俺が生徒じゃなくて彼女の同僚だったら、全然違うはずなんだ。
そうだったら彼女は――きっと、同じように俺を意識してくれたはずなのに。
「…………クソ」
外階段を下りながら毒づき、どうしようもできないことに腹を立てる。
……違うな。
それじゃ子どもと同じ。
どうしようもできない、ことじゃない。
ここから、俺なりに俺にしかできない方法で攻めればいいんだ。
「………………」
そうだな。
我ながら不意に浮かんだ考えで口角が上がり、自然と彼女の部屋の窓へと目を向けていた。
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