「………………」
 カチャ、という小さな音とともにドアを薄く開き、中をのぞく。
 すると、窓際に寝ころんで本を読んでいた彼が、ちらりと私を見た――……ものの、それは一瞬で。
 すぐに視線を本へ戻すと、同時に身体の向きを変えてしまった。
「…………」
 もぅ。
 彼に気づかれないよう小さく笑い、ゆっくりと中に入る。
 床に置かれている、いくつかの分厚い本。
 相変わらず、彼には“無駄な時間”というものがないんだと実感する。
 遊びにきてくれたふたりは、つい先ほど帰っていった。
 その際、あえて彼に声をかけなかったけれど、ふたりはそれでいいんだと何度も言っていた。
 ああなったときのお兄ちゃんは、そっとしておくのが1番だから。
 苦笑まじりにそう言った紗那さんを見て、やっぱり私なんかよりもずっと彼のことをわかってるんだなぁ、と少しだけ羨ましくもなる。
 兄妹だから当然といえばそうかもしれないけれど――……でも、やっぱり羨ましいよね。
 って、もしかしたらそんな思いを葉月も、私に持っているのかもしれない。
 ……そういえば、そんなことを前に言われたことがあった気もするし。
「…………」
 静かに彼の隣へ腰を下ろし、窓を見る。
 きっと、何も言わなくても彼は先ほどふたりが帰ったのを知っているだろうし、こうして私がここにくることも、わかっていたんだろう。
 彼はそういう人だから。
 ……そう思えるようになったあたり、私も紗那さんたちに1歩近づけたのかな。
「何かヘンな話、聞いたろ」
「え? 聞いてませんよ?」
「……ふぅん」
 ぽつりと呟かれた言葉で彼を見ると、私のほうを見ずに身体を起こした。
 読んでいたページを確かめることなく閉じ、床に積む。
 そして、今度は私の膝へと頭を下ろした。
「…………」
 目を閉じたまま外した眼鏡を床へ置き、小さくため息ひとつ。
 そんな彼がふとかわいく感じて髪を指ですくと、うっすら瞳を開いて私を見つめた。
 心地よい髪の感触。
 今でこそこんなふうに誰の許可を得ることなく触れられるけれど、昔の私には考えられなくて。
 誰かの“特別”になることも予想すらできなかったし、好きになった人と本当に結ばれることがあるんだっていうのも知らなかった。
 ……こういうのを、しあわせって言うんだよね。
 どうやら、にまにまと頬が緩んでいたらしく、彼の大きな手のひらが頬を撫でた。

「お兄ちゃんてね、いつもそうなの」
 紗那さんは、そう言うと小さく笑った。
「まだ私が小さかったころだけど……でも、ほら。5歳違うでしょ? だから、幼稚園のころでも、お兄ちゃんはもう小学生で。今振り返ってみると、きっと、いろいろ感じてたんだろうなぁって思うんだよね」
「そうそ。兄貴、ああ見えて面倒見すげーいいし。何より、やっぱ……“兄貴”なんだよな」
「そうなんだよね。頼りになるし、いざってときに相談するのは、お父さんとかお母さんよりもまず、お兄ちゃんだもん」
 目の前で彼の弟妹のやり取りを聞き、改めて彼がふたりに与えている影響力の大きさがわかる。
 たしかに、大きい存在なんだろうなぁ。
 絶対に追い越せない相手、とでもいえばいいだろうか。
 ……私がお兄ちゃんに感じてることと、一緒なんだよね。
 そういう意味では、やっぱりどこの家庭の兄弟でも通じることなのかもしれない。
「昔から、いろんな大人に囲まれて育ってきたから余計にそう思うのかもしれないけど、大人ってさ、小さい子をかわいがるじゃない?」
「小さい子……ですか?」
「そう。たとえば、幼稚園の子と生まれたばかりの赤ちゃんだったら、生まれたばかりの赤ちゃんのほうが主役になっちゃうっていうのかな……。んー。うまく言えないんだけど、なんかこう、同じ子どもでも、小さい子のほうがちやほやされるっていうか、甘やかされるっていうか……なんか、そんな感じ?」
「あ。でも、それはわかるかもしれないです。……って、私は“甘やかされる側”だったから、だと思いますけれど」
「ん、それはだいじょぶ。私たちも、一緒だから」
 くすくす笑ってうなずいた彼女に、思わず苦笑を浮かべる。
 そう言われてみれば、昔から、私もどちらかというと甘やかされて育ってきた。
 あんまり、周りの大人がお兄ちゃんに『お兄ちゃんなんだからガマンしなさい』とか『あなたはお兄ちゃんでしょ』なんて言ってる記憶はないけれど、でも、ケンカしたりしたときに大抵かばってもらえるのは、小さな私のほうで。
 だからこそ、彼に理不尽な行動をされるたび、内心『どうしてお兄ちゃんなのに』って思うことがあったりするんだよね。
 この間もそう。
 どうしてお兄ちゃんは私より年上なのに、勝手に私のプリンを食べちゃうんだろう、とか思ったもん。
 ……って、もしかしたらそれは、“お兄ちゃんだから”とかじゃなくて、“うちのお兄ちゃんだから”なのかもしれないけれど。
「周りの大人は、お兄ちゃんのことを『しっかりしてる』とか『いい子』とか言うけれど、『かわいい』とかって褒めることはないんだよね。そういう対象は私たちだったから……もしかしたら、お兄ちゃんはあんまり“よしよし”って頭を撫でられたことないかもしれない」
「え……そうなんですか?」
「うん。ほら、私たちが小さかったぶん、お兄ちゃんは大きかったから、“できて当たり前”みたいなところ、あったんだと思うの」
 正直、意外な話だ。
 だって、祐恭さんは私の頭をよく撫でてくれるから。
 それって、きっと昔そうやって褒められたことがあったから、してくれるんだって思っていたのに。
 ……でも、そう言われてみると、そうなのかもしれないって思うんだよね。
 祐恭さんは、いつもがんばっていて、なんでもできるイメージばかりで、つまずいたり、何かにぶつかったりして困っているイメージが浮かばないんだもん。
 逆に、そういう“できない”イメージしかないのは、私。
 祐恭さんにある、たくさんの“できる”ものは、私にはない。
「お兄ちゃん、慣れちゃってるんだよ」
「慣れ?」
「そ。周りの人間の関心が、自分じゃなくて私たちに向くのが」
 彼女らは私の家とは違い、いち企業を背負って生きている。
 だからきっと、親類以外の沢山の人たちと接してきたんだろう。
 中には、いわゆる“いい人”以外もいたのかもしれない。
 苦笑まじりに呟いた紗那さんの顔に、少しだけなんともいえない色が見える。
「だから、ね? さっき、羽織ちゃんに聞いてたでしょ? 『自分とアイツらとどっちが大事なんだ』って。あの姿見て、あー、羽織ちゃんにはそういう素の部分出せるんだなぁって……ちょっと嬉しくなっちゃった」
「そうそ。いっつも俺たち優先で、なんでも譲ってくれるのが兄貴だったからさ。そういうとこ比べちゃうんだーって、かなりニヤけたんだけど。俺」
「わかる! 私もそうだもん!」
 紗那さんと涼さんが、うんうんうなずいているのを見ながら、思わずまばたく。
 素の部分。
 ……祐恭さん、の?
「お兄ちゃんにも、やっとガマンしないで済む場所ができたんだなぁって。ふふ。ちょっと変だよね、私たち」
「かもな」
「っ……そんなことないですよ! だって……」
「いいのいいの。ちょっと変だから、ウチら」
「しょうがないよな。あんな、なんでもできるスーパー兄貴がいるんだから」
「……あ」
 苦笑まじりにうなずいた涼さんを見て、思わず胸が苦しくなる。
 それは……劣等感、というものだろうか。
 だとしたら私も一緒。
 お兄ちゃんはなんでもできて、なんでも手に入って……ずるいって思ったこともある。
 どうして私より何もかもがうまくいって、上手なんだろう、って。
 ……そうだよね。
 いつだって“できる”イメージが彼にあるのは、ふたりも一緒なんだ。
 比べたり、比べられたり、したことがあって当然。
 ましてや、一般家庭と違えばなおさらかもしれない。
「羽織ちゃん、これからもお兄ちゃんを受け入れてあげて」
「え?」
「兄貴にとって、羽織ちゃんだけなんだよ。ああやって、みっともないっつーか……かっこ悪いっつーか……なんだろな。ホントの自分に素直なとこを見せられる相手、がさ」
「ごめんね。超絶わがままで、きっと、すっごくやな人だと思うの。でも、そういう部分って普段は絶対人に見せないものだから。……だから……あんなふうに、全然繕わないお兄ちゃんを見れるのも、そういう態度をお兄ちゃんが見せるのも、羽織ちゃんだけなの」

「「だから、これからもそばにいてあげて」」

 声を合わせてふたりに見られ、思わずまばたく。
 でも、そのあとすぐ笑みが浮かんで、大きくうなずいていた。
 だって、彼以外なんて考えられない。
 そばにいさせてほしい人は、彼だけ。
「大丈夫です。私……」
 私、祐恭さんのこと、大好きだから。
 思わずそんな告白をしてしまいそうになり、はた、と止まれた自分を褒めてやりたい。
 ……うぅ。恥ずかしい思いするところだった。
 でも、どうやらそんな私の思いはふたりに伝わっているようで、熱くなった頬に両手を当てると、顔を見合わせてから『かわいーい』なんてからかわれてしまったけれど。



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