「……絵里?」
「え?」
いつの間にか、黙り込んでしまったらしい。
名前を呼ばれて顔を上げると、羽織はどこか心配そうな顔をしていた。
「あー……ごめん。うん」
情けなくも、感傷ってに浸りかけていたらしい。
……だって、正直こんなふうになったのは今回が初めてなんだもん。
普段は、たとえどんなに言い合っていようと、お互いにぶつかり合ってるから……まだそんなにツラくない。
言ってほしいことを言ってもらえてるから。
どんなに腹立つ言葉でも、そこに純也の意見があるから。
だから……納得できなくても、理解することはできる。
ああそうだったのか、って。
純也はそう思ってたのか、って。
……だけど、今回はそれがない。
ないのよ、全然。
一度だって声を荒げなかった。
いつだって、気持ち悪いくらい冷静で、大人しくて。
何を聞いても、返ってくるのは『なんでもない』ばかり。
それが1番不安になるってこと、わかんないのかしら。
いろいろと、ああでもないこうでもないって想像しちゃって深みにはまるってのに。
「でっ!」
「え?」
なんともいえない微妙な空気が漂っちゃったのがわかって、パンパン手を叩いてから場を仕切り直す。
いかんいかん。
こんなのやっぱ私らしくないし。
それに! あくまでも今から、その原因を突き止めるべく行動を起こすんだから。
『これまで』は必要ないの。
大事なのは、結果を生み出す『これから』なんだから。
「純也がね、『う』って言ったのよ!」
「うん。それは……さっきも……」
うなずきながらふっつーに返事をされて、自分でも『あ』と思った。
……うぬぅ。
どーしてこーもエンドレス方向に向いていくのかしら。
もう少しシャキっとしなさい、私。
陣頭指揮を取れるのは、私しかいないんだから。
「どこに行くのって聞いて、『う』って答えが出たんだから……それはもう、祐恭センセの家しかないでしょ?」
びしぃっとオートロックの文字盤を指差し、羽織に笑みを向ける。
……だけどイマイチよくわかってないらしい彼女は、眉を寄せたまま首をかしげた。
「いや……だからさ。あのね? ほら、だって……ねぇ? 『う』で始まる場所なんて、『祐恭君のところ』しかないでしょ?」
「そうなの?」
「そーなの! だって純也、車使ってないんだもん」
徒歩で行ける範囲となれば限られてくる。
いや……まぁ、ね?
誰かに迎えに来てもらって、一緒に乗ってっちゃった……とかになると、また話は別なんだけど。
でも!!
「たとえ違ったとしても、祐恭先生なら何か知ってるでしょ? きっと!」
「あ。それは……そうだね。うん。知ってるかも」
……およ、いい反応。
こうもすんなりと受け止めてもらえるなんて、正直予想外だわ。
思わず、差していた指がへにょりと曲がる。
「と……とにかく。それじゃまあ、いっちょ突入ってことで」
「え? あ、でも一応チャイム鳴らしてみない?」
「……それじゃ、突入の意味ないじゃない」
「別に突入しなくても……」
苦笑を返されるも、若干納得いかない。
こーゆーのはなんといっても雰囲気が1番大事なんだから。
……むぅ。
ロマンってモノをわかってないわね、羽織ってば。
相変わらず、優しいんだから。
ていうか、浮気現場を押さえるときって、大抵相手に何も知らせず踏み込むってのがセオリーでしょ?
だいたい、事前に情報をもたらしちゃったら、意味ないじゃない。
証拠隠滅とか図られでもしたら、それこそおしまいなんだし……。
ぴんぽーん
「あっ!?」
「え?」
ひとり黙々と考え込んでいたら、その隙になんの躊躇もなく羽織がボタンを押したらしく、チャイムの音で思わず声が上がった。
いや……しょ、しょうがないけど。
いつかはって言うか、まぁ、そのうち押すつもりではいたんだし。
……だけど。
「…………」
「…………」
「……出ないね」
「出ないわね」
すでに19時を回ってるというのに、インターホンの向こうからは応答がまったくなかった。
しんと静まり返る、エントランス。
気味の悪さとかそんなモンよりも、ずっと……後味の悪いモノが満ちていく。
「……やっぱり」
「え?」
留守なのかななんて呑気に呟いた羽織とは違い、まったく表情がブレない私。
ぴぴーんと来た、ぴぴーんと。
何がってそりゃあ……もちろんアレよアレ。
女の勘ってヤツが今!
「怪しい」
「……絵里?」
「怪しいわよ、絶対! っていうか、羽織もそう思わない!?」
ばっと顔をそちらへ向け、眉を思いきりひそめたままでがしっと肩を掴む。
少し驚いたような顔をしたのがわかったけれど、今さらもうどうにも止められない。
馬鹿な真似をしてるのなんて、ウチの純也だけだと思ってたけど……どうやら違ったみたいね。
類は友を呼ぶ。
……それとも、ミイラ取りがミイラ?
何はともあれ、もう、あのふたりはダメだという結論にしか達しない。
なぜならば、あやつらめは今間違いなく――。
「……よその女連れ込んでるわね」
「えぇ!?」
ぼそりと確信めいた言葉を口にした瞬間、とんでもない声が隣から聞こえた。
「間違いないわ。絶対よ、絶対」
「なっ……なんでそんな……」
「だって、純也もここにいるのよ!? なのに、誰も出ないなんて……ありえない。絶対、私たちの姿を見て焦って出ないに決まってるわ」
「でも……だってほら、お仕事かもしれないでしょ? それに、田代先生がここにいるってまだ決まったわけじゃ……」
「いーえ、間違いないわ。純也の持って帰って来た、汚れたエプロン……アレが動かぬ証拠よ」
眉を寄せて『絶対違う』と首を振る羽織に、こちらも首を振って否定を重ねる。
……そう。
忘れようとしてもできるワケがない、あの、白いエプロン。
どこが汚れてるのかはわからなかったけれど、でも、『汚れてる』でしかも『見せられない』ようなモノだとしたら、それはもー……間違いない。
「……裸エプロンよ」
きゅぴーん、と頭に閃いた単語。
躊躇なく口にして、羽織を見つめる。
「間違いないわ」
「えぇえ……!?」
だけど、やっぱり羽織は同意してくれそうになかった。
困惑というよりは、『え! 何それ!?』みたいな困惑度90%の眼差し。
どうやら羽織は頭から祐恭先生を信じきっているようで、『ありえないよ、そんなの! っていうか、誰に!?』みたいな顔をしていた。
「馬鹿ね、ひらひらのフリルつきエプロンを汚したってことは、それしかないじゃない!」
「な……なんでそんな理由に……」
「ったりまえでしょ!! ワケを話せないようなシミ付きエプロンなんて、そうに決まってる!!」
「えぇー!?」
思わず、ぐーを作りながら力説し、オーバーアクションを交えつつ説得を続ける。
そりゃまあ、そうでなければいいと私だって何度思ったか。
でも、しょうがないじゃない?
事実、それが……悲しいけれど、男のサガってヤツなんだから。
「男ってのはね、エプロン見たら裸にさせてそれだけ着せたがるようなイキモノなの!」
「まさか! そ……そんな、いくらなんでもそれは……」
「えぇい、あまーい! 甘いわよ羽織! そんなんじゃ、祐恭先生にいつかさせられるんだから!!」
びしぃっと指差しながら羽織を『違う!』とか『甘い!』とかって言葉で責め続け、我が道をばく進する。
だけど。
一瞬羽織の表情が、微妙になんともいえない色を帯びたのは……気のせいでも目の錯覚でもなく。
「羽織……アンタまさか」
「うぇ!?」
瞳を細めながら羽織ににじり寄り、ずずいっと顔を近づける。
……あ。
今、何気に目逸らしたわね。
ってことは、間違いない。
この子も何気にわかりやすい子だからこそ……そう。
実は『すでに体感済み』ってことね。
もちろん“身をもって”って言葉が前につくけど。
「アンタ、祐恭先生にすでに仕込まれ――」
「……あれ。ふたりとも、どうしたの?」
「え?」
「あれ!?」
ずずいっと3cmくらいの距離まで詰めてから逃げ場をなくしてやった、そのとき。
場にはそぐわない、穏やかな声が聞こえた。
「葉月ちゃん!?」
「ふたりとも、何してるの?」
そこには紛れもなく、かわいい顔で不思議そうに私たちを見つめている葉月ちゃんその人がいた。
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