「……あの、先生」
「ん?」
 ちらりと横を見ると、やっぱり普段とはまったく違う雰囲気の彼がいた。
 ……なんか……すごく、緊張っていうか、どきどきする。
 でも、仕方ないと思うけれど。
 だって、こんな格好するなんて……思わなかった。
 自分もだけど、彼の格好はもっとそうだ。
「…………」
 今はまだ、校門までの道をとぼとぼ歩いている段階。
 この日のためにと、衣装に合わせた黒のエナメルの靴まで絵里が用意していた。
 先生は、さすがにいつもと同じ革靴だけど。
 …………だけど……。
「…………」
「何?」
「っあ、え、えと……っ」
 やっぱり、なんていうのかなぁ。
 こう、雰囲気がまるで違って。
 つい、まじまじと見入ってしまい、慌てて手を振る。
 ……うぅ。頬が熱い。
 いつもと違ういでたち。
 だけど向けられるのは、いつもと同じ表情。
 いたずらっぽいというか、意地悪っていうか。
 そのギャップがやっぱり、私には刺激として強すぎる。
「ま、がんばって配って」
「……配り終わるのかな……」
「ひとりに5枚ずつ渡せばすぐなくなると思うけど」
「そ……それは、どうなんですか」
 さらりと言われた、とんでもない手法。
 見ると、思いきり私の反応を伺うためのコメントだったようで、本人は楽しそうに笑っていた。
 『冗談だよ』なんて言葉は聞こえないけれど、でも、冗談なんだろうなぁ。
 …………。
 ……そうであってほしい。
「でも、よかったんですか?」
「何が?」
「あの……こんなカッコで一緒に……ビラ配りなんて」
 手にした、束のままの紙。
 それを握り締めると、涼しい顔をした彼が少しだけ肩をすくめた。
「かわいい彼女を、いくらなんでも危ない場所へひとりでやれない」
「っ……そ……れは……」
「他校の人間――……特に、冬瀬なんかはもう、随分前から浮き足立ってたし」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろ。なんてったって、大っぴらに女子高の中へ入れるんだぞ?」
 さらりと聞き直したら、今度はちょっとだけ怖い顔になった。
 心なしか、『だから危ないんだよ』なんて言葉が聞こえたような気もする。
「ただでさえ女子高なんて場所なのに、そこでメイドの格好してる子がいたりしたら……危ない。絶対危ない」
「……うぅ……」
「写真とか撮られたらどうするんだよ。困るだろ?」
 どうしてだろう。
 彼が持っていたチラシが、ぎち、と音を立てて皺の寄った途端、痛そうに見えたのは。
 そしてそして――……彼の言葉の後半から全部が、独り言というには強すぎるオーラを伴っていたように思えたのは。
「というわけだから、君は女性専門にあげなさい」
「え?」
「え、じゃないだろう。……俺の話聞いてた?」
「っ……き、聞いてました」
「なら、そうするように」
「…………はぃ」
 一瞬、ものすごく怖い感じがしたんですけれど……それは、気のせいじゃないですよね?
 思いきり眉を寄せて、かつ瞳を細めて。
 ……舌打ちは聞こえなかったと思う。
 うん。
 そういうことにしておこう。
「……それにしても、優人のヤツか。この企画を持ちかけたのは」
「みたいですね」
「ったく。……アイツは……」
 今度は間違いなく、舌打ちが聞こえた。
 ふと彼を見上げると、それに比例するかのような表情を浮かべていて。
 ……でも。
 そうは言いながらも、よく彼がこんな格好をしてくれることになったなぁとちょっと感心でもあり、不思議でもある。
 だって、執事さんだよ?
 それこそ、コスプレなのに。
 ……うーん……。
 絵里ってば、いったいどんな言葉で先生たちを説得したんだろう。
「…………」
 それが気にはなる。
 だけど……なぜだろう。
 こうも第六感が強く『聞いちゃいけない』と言っているように感じるのは。
「……さて。それじゃ、とっとと配るか」
「え? あ、でも、まだ開門してないですよ?」
「いいんだよ。外部の人間に配るのも、内部の人間に配るのも、同じ客だろ?」
「それは……ま、まぁ……あの……」
 彼ってば、実は結構したたかなのかな。
 ……それとも、単なる面倒臭がりさん?
「…………」
 パンフレットの準備をしていた生徒会のテントに近寄り、配るというよりは押し付け始めた彼の後ろ姿を見ながら、ちょっとだけ苦笑が浮かんだ。
「半分、くれる?」
「え?」
 からかわれつつも、彼を見習って門のそばにいた隣のクラスの子たちに配っていると、ほどなくしてから彼が私に手のひらを向けた。
「……?」
 あれ、と思うのはちょっとあと。
 それよりもまず、彼の普通すぎる表情が『ん?』だった。
「えっと……先生」
「何?」

「さっきまでのチラシは、どうしたんですか?」

 私も、つくづく鈍いのかもしれないとはちょっと思った。
 だって、彼に言われた通り半分を手渡しながら口にしていたんだから。
「あぁ、アレなら渡して来たけど」
「え!! も、もうですか!?」
 さらりと、いかにも平然とした顔で言われ、こちらは逆にものすごく慌てた。
 だ、だって!
 まだ、彼が配り始めて5分と経ってないんだよ!?
 それなのに……まさか、すべて配り終えてしかも私の分まで手伝いに入ってくれるなんて。
 …………ごくり。
 彼を見たまま唇が開き、喉が鳴る。
 どうしよう。
 彼って、実はものすごくヤリ手なのかもしれない。
 だって、同じ時間これでも精一杯配っていたのに、私はまだ8枚がやっとだったのに。
「さて。それじゃ、そろそろ戻るか」
「えぇ!? な……っだ、だめですよ! だって、まだこんなに沢山……」
 ぱらぱらぱら、と本でもめくるように手にしたチラシを見た彼が、さらりと言った。
 ……うぅ。
 なんだかもう、さっきから見事なまでに『えぇ!?』しか言えてない。
 今日の先生は、ちょっとだけ掴めない感じ。
 それはやっぱり、今のこの格好が影響として現れているんだろうか。
「……コレだけあれば、口実に一緒に回れるだろ?」
「え……?」
「さっきも言ったように、校内の生徒にも宣伝しなきゃいけない。……だよね?」
「それは……はい」
 ぼそ、と隣に立った彼が私を見下ろした。
 だけど、目線はとっても優しい。
「どれだけ俺たちが親密に校内をウロついていたとしても、それは部の宣伝のために、副部長と副顧問が一肌脱いでる。……そう取るだろ? 今日ならば」
「っ……!」
 にっと微笑まれ、瞳が一層丸くなった。
 確かにそれは……そう。
 そうかもしれない。
 ましてや、一緒に回りながらチラシを配っていれば……尚さら。
 こんな格好で校内を巡っていても、それは単なる部の宣伝だと取ってもらえるかもしれない。
「きっと、皆瀬部長もそうやって気を回してくれたんだと思うよ」
「え?」
「なんせ、チーフですから」
 少しだけ肩をすくめた彼が、改めて背を正した。
 服の皺を伸ばすように撫でてから、私に身体ごと向き直る。

「さあ、参りましょう」

「っ……」
「そろそろ、開門時間です」
 まるで、エスコートしてくれるかのように。
 彼が私へ手のひらを上に向けて差し出してくれながら、にっこりと微笑んだ。
 その笑みは、普段とは少しだけ違う、優しさが満ちている独特のもので。
「……はい」
 頬が染まったのを感じただけでなく、いつものように手を握ってしまいそうになった。

 ――……ちなみに。
「あーーーもー!! 始まるってのに、何してんのよ! あのふたりは!!」
 化学室では、部長が焦りから地団駄を踏んでいた。
 キーキーという高い声。
 それらから想像が容易につくように、彼の推理が実はサッパリことごとく外れていたのは、言うまでもない。


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