「おそーーーーい!!!」
「ご、ごめんっ!!」
「ごめんじゃ済まないわよ! まったくもー! こっちは猫の手どころかその尻尾まで借りたいくらいだってのに!」
2号館の3階。
その1番奥にある化学室に辿り付く前から、早くも暗雲は立ち込めていた。
とにかく、人。
人、人、人。
予想しなかったほど人がいて、入り口前に用意した待ち合い用の椅子なんてまったく役に立っていないほど。
……まさか、こんなに人気が出るなんて。
正直、準備室から中へ入った途端、申し訳なさが頭の先からつま先までいっぱいに広がった。
「しょうがないだろ? チラシ配ってたんだから」
「ウソつけぇい! なんか、ふたり揃ってやたらめったらむちゃんこおいしそうな匂いするわよ!?」
「……ぅ」
「ほらみなさい!!」
言葉に詰まった私を、びしっとした顔で絵里がめいっぱい非難する。
……うぅ。
だ、だって、正直こんなに混むなんて思わなかったんだもん。
ごめんね、絵里。
すっかり、彼と一緒に最後の文化祭を満喫しちゃいました。
改めて彼女に頭を下げてから、胸の中で両手を合わせる。
「まぁいいわ。とにかくっ! 今すぐに入って! 洗い物でもなんでもいいから、手伝ってちょーだい!」
「う、うん!」
クーラーが入っているはずなのに、なぜかむっとする室内。
それはやっぱり、この人数のせいなのかな。
心なしか、やっぱり客層は男性に集中しているような……しかもしかも、どこか似たような雰囲気をかもし出している感じの。
「とにかく今、漏斗が足りないのよ!漏斗が!」
「……漏斗が?」
「そう!」
一角に設けられたスペースへ向かうと、絵里が言った通り、ものすごい数の使い終えた漏斗がシンクスペースに山になっていた。
これでも、新しい器具とか増やしたはずなのに……。
どうやら、本気で足りてないらしい。
「……フフ。でも、案の定大盛況ね」
「え?」
「やっぱり、この『夢を現実に! ビーカーdeコーヒーを!』がメガヒットなのよね」
ぐっと拳を握り締めた絵里が、それはそれは楽しそうに笑ってチラシを見つめた。
……そう。
何を隠そう、彼女が喫茶をやりたいと言い出したのは、それが発端。
彼女が持ちかけたのだ。
『私はこうして淹れたコーヒーが飲みたい』と。
「やっぱ、みんな考えることは同じなのよねー。バーナーで沸かしたお湯を使って、漏斗でこす。しかもそれを、ビーカーで! 無論、砂糖とミルクを入れるお皿は乳鉢にして、混ぜる際は薬さじで!ってね。……あー、楽しい」
「……絵里」
まるで、恍惚。
……そうだった。
そういえば、この発案でひとり熱弁を奮っていたときも、彼女はこうだった。
やけに楽しげで、ちょっぴり興奮していて。
…………うーん。
やっぱりコレは、絵里の夢の喫茶店のようだ。
「実は、どれかひとつだけこれまでの実験で使い続けてきたビーカーが……とかってのも、ある意味罰ゲームっぽくって惹かれはしたけど……でもま、それはさすがにね。保健所に呼び出されても困るし」
そ……それは初めて聞いた。
まさか、そんなことまで実は考えていたなんて。
「……残念だけど、ま、しょうがないわね。それは今後の部活でやりましょ」
「え!」
「冗談よ」
え、ええとええと。
ふふふと笑いながらも、目がまったく笑ってないんですけど……?
「…………ごくり」
妖しげな笑いを残して去っていった彼女の背中を見送りながら、どうか現実にだけはなりませんようにとただただ祈るばかりだった。
「はー……。ようやく落ちついてきたわね」
それは、14時を回って少ししたときだった。
ようやく人の波が落ちつき始めたのを見て、絵里が背を正して伸ばす。
「どれ。そんじゃま、私たちも少し休憩しましょっか」
「え? ……でも、いいの? 私まで」
「いーわよ、別に。だってアンタまだ休憩取ってないでしょ?」
「それは……そう、だけど……」
でも、開店際にしっかりある意味休憩してたんだけどなぁ……。
なんて、ちょっぴり思いはする。
「あ。ほら、取り置きしといたケーキ。あれ、食べちゃったら?」
「いいの?」
「当たり前でしょ? 休憩なんだから」
つい反射的に聞いてしまい、苦笑を浮かべた絵里が『しょうがないわね』と付け加えた。
……でも、いいのかな。
だって、みんなはまだ忙しそうにしてるのに。
「大丈夫よ。ちゃんとみんな休憩できるように、時間配分してるから」
「そう? なら……貰っちゃおうかな」
私の考えを読んだかのように、絵里がキッチンスペースへ向かいながら声をあげた。
それを聞いて、ちょっとほっとする。
「それじゃ、持ってくから準備室にいなさい」
「あ、うん。ありがとう」
準備室へのドアを指差した彼女を見てからうなずき、足を向ける。
そのとき、ふと『そういえば先生たちって、どこにいるんだろう』なんて考えが浮かんだけれど、ドアをくぐるまでまったく気付いていなかった。
――……その先に待ち受けているものがあった、なんてことには。
「お疲れ」
「……あれ?」
誰もいないと思っていたからこそ、普通に意外だった。
……だって、そこにいたんだもん。
これまで姿の見えなかった、彼自身が。
「え……先生……?」
「何。俺がいちゃ不満?」
「っまさか! そんなことは……ないんですけれど」
タイを緩めてボタンを外した彼が、普通に椅子へ腰かけている。
それは普段と大差ないはずなのに、まるで違っていて。
……うぅ。なんか、ちょっと……苦手っていうか……。
「…………え?」
苦笑を浮かべながら座れる場所を探すと、そんな彼が小さく笑った。
「ここに座れば?」
「ッ……! せ、先生!」
ニヤっと笑った彼が、ぽん、と膝を叩いた。
と同時にそれまで組んでいた足を崩し、椅子ごとこちらに向き直る。
「なっ……なな……っ」
「冗談だよ?」
「っ……知ってます!」
くすくす笑いながら言われ、顔が赤くなる。
わかってるもん。
彼が冗談を言ったってことは。
だけど……やっぱり、半分は本気に取っていたから。
ついつい、視線を逸らしながらも鼓動の早さはそのままだった。
「……でも、先生いいんですか? 休憩してて……」
「何? それは。俺に休みなく働けって意味?」
「ち、違いますよ!」
「そう? ……なんか……顔はそう言ってないみたいだけど」
「まさかっ!」
ジト目を嫌というほど向けられ、慌てて手と首を振る。
だけどやっぱり、彼は顎に手を当てたまま私を軽く睨むのをやめてくれなかった。
「酷いな。俺たち教師は、このあともまだ普通業務があるっていうのに」
「……え……。そうなんですか?」
「そうだよ。……ほら。そこにあるだろ? 仕事着」
はーあ、と大げさにため息をついた彼が、人差し指でさりげに私の斜め後ろをさした。
……仕事着。
その言葉が彼らしくなくて少し不思議な感じはしたけれど、でも、反射的にそちらを振り向く。
――……でも。
「……え……?」
振り返った先にあったのは、私の予想というか想像というかをはるかに超越しすぎているものだった。
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