ひとり歩く道。
 それは、バス停から自宅までの短い距離。
「…………」
 6月に入った途端、すごく暑い日があるようになって。
 今ではもう、すっかり半袖。
 じりじり照りつける太陽も、いかにも『夏』の象徴だ。
 ……雨なんて、降りそうにないよね。
 手をかざしながら空を見上げると、苦笑が浮かんだ。
 でも、頬を撫でる風はときおり、湿っぽさを含んでもいる。
 ……雨……降るのかな。
 青く晴れている曇りない空を見ていると、そんなふうにはとても思えないのに。
 でも、もしかしたらどこかで降っているのかもしれない。
 ここではない――……遠いどこかで。
「…………」
 慣れないことをしたような気はする。
 でも、これはこれで……実は結構気に入っていて。
 だって、決めてたことだから。
 いざって決意したとき、迷わなかったから。
 ……だから……こうしたかった。
 許してくれるかな。
 もしかしたら……怒るかな。
 誰のことでもないつもりなのに、つい浮かんでしまうのは……特定のあの人。
 いつも髪を撫でてくれた。
 さらさら弄って、口づけてくれたこともあった。
 ……だからこそ。
 もう一度。
 もう一度……最初、ではないけれど。
 でも、今までと違うことをしたかった。
 同じでは、ダメ。
 それがよくわかったから。
「…………」
 改めて、私を『瀬那羽織』として見てもらうには、どうしたらいいだろう。
 そればかりをずっと、ずっと考えてた。
 悩んでた。
 どうしたって彼は、私を『元・付き合っていた子』として見ている部分があるから。
 そして――……それに対する、まるで申し訳なさのような感じも、伝わってきていたから。
 ……だけど、それはやっぱり違うって思ったの。
 確かにそれは事実だけど、でも……彼は今、私に対してそんな思いは抱いていないはず。
 戸惑って、迷って、苦しんでる。
 ……だから……このままじゃ、見てもらえないから。
 何より、なんだかフェアじゃない気もして。
 おかしなこと言ってるのは、わかってる。
 でも……これしか、思いつかなかったから。
 彼に、私を私として見てもらうためには、こうするしかないって思ったから。
 だから、情けないけど……これしか、考えられなかった。
 彼との関係。
 その繋がりは、私の中ではまだ終わってない。
 だけど……彼の中では、まだ始まってすらいない。
 悲しいけれど、でもそれが現実。
「…………」
 ……だから。
 これから、ここから。
 今までと違う形で、今までと違う方向からがんばるって決めた。
 努力するって決めた。
 ……そうするの。

 これが私の、決意の証。

「…………」
 家の前に立って短くなった髪を撫でると、自然に顔がほころんだ。

「ただいまー」
「あ、おか……っ……羽織……!!」
 ドアを開けてすぐ、にっこり笑って出迎えてくれた葉月の顔が一瞬で変わった。
 驚いているのが、第一。
 だけど、不安そうな……心配そうな。
 そんなものも感じられて、苦笑が浮かぶ。
「えへへ。どうかな?」
 改めて笑みを浮かべ、髪の先をつまんで見せる。
 今日、こんなふうに髪を切ること。
 それは、実は誰にも話したりしなかった。
 ……だって、言ったら絶対心配されるし、いろいろ勘違いさせちゃいそうだから。
 あくまでも、イメージを変えるため。
 私の中でも、それが大きい。
「……ん。かわいいよ」
「ほんと?」
「もちろん!」
 なんて優しく笑うんだろう。
 そう思うくらい穏やかな顔で、葉月がうなずいてくれた。
 ……なんか……ちょっと泣きそうになる。
 何も詮索せず、ただ黙ってうなずいてくれて。
 受け入れてくれて。
 それって、簡単なようで実は難しいのに。
 …………やっぱり、葉月は違う。
 こんなふうに髪を切って最初に会ったのが、彼女でよかった。
「でも、随分印象変わるのね」
「そうだね。私もちょっと、びっくりした」
 靴を脱いでから上がり、彼女の横に並ぶ。
 ……んー……。
 なんだか、ちょっとくすぐったい。
 まじまじと見つめられ、そっと指先で撫でられる。
「……私も切ろうかな」
「え? 切っちゃうの?」
「だって、こんなふうに印象変わ――」

 ごほん

「っ……たーくん……」
「…………」
 見事なまでに、あからさまな作りもの。
 そんな咳払いで後ろを見ると、瞳を細めているお兄ちゃんが立っていた。
「…………」
「…………」
 無言。
 何も言わず、動作もなく。
 ただただまじまじ見つめてくるだけ。
 ……な……何も言われないのって、結構つらいなぁ。
 眉を寄せて彼を見返しながらも、何も言えなかった。
「……随分、ガキくせー頭にしたもんだな、また」
「っ……おにいちゃん!」
 は、と短く笑ったかと思いきや、とんでもないことを言われた。
 ……葉月と全然違う。
 かわいくない。
 っていうか、ものすごく性格悪いと思う。
 なんで葉月は、こんな人と一緒に居るんだろう。
 ……よくわからない。
 兄妹だからこそ、余計に。
「もう。たーくん、そんなふうに……」
「そうだよ! ……ひどい」
「うるせーな。俺はただ、思ったことを言ったまでだ」
 眉を寄せて抗議してくれた葉月に、便乗。
 ……だって、確かにちょっと照れくさいというのはあるから。
 それこそ、ここ何年もこんなに切ることなかったんだもん。
「ま、いーんじゃね?」
「……え……」
「あ……」
 もうひとつ何か言ってやろうと思った瞬間、肩をすくめた彼は、そのままリビングへ入って行った。
 あとから、『葉月、コーヒー』という、なんとも横柄な声が聞こえたけれど……でも、それきり。
 夜になっても次の日になっても、それ以上お兄ちゃんが何かを言うことはなかった。
「……たーくんらしいね」
「かもね」
 当然のように、葉月と顔を見合わせながらそんなことを口にしたのは、言うまでもない。


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