翌日の月曜日も、いい天気だった。
6月も半ば。
だけどまだ、雨の気配はない。
……やっぱり、今年も7月にずれ込むのかな。
テレビで水不足がどうのとかってニュースを見ると、ひとごとじゃないからつい心配しちゃうんだけど。
…………でも。
「はぁっ……!」
今はまだ、その心配よりももっとずっと身近なほうが先。
切実な、今日のお昼ごはんのこと。
……うぅ。
今日はちょっと寝坊しちゃって、お弁当作れなかったんだもん。
珍しく、葉月も一緒に。
「絵里、ごめん! 遅くなっちゃった」
「……ったくもー。こっちはさっきの時間休講……っぶおぁ!? 羽織!? アンタ……!」
ぐぶじゅる、とものすごい音とともに、ものすごい量の牛乳がぼたぼたとテーブルにこぼれた。
「うわ!」
「わ!? 大丈夫!?」
当然、それらは絵里の服にもかかって。
慌ててティッシュやハンカチで拭きながら、無残にも原型を留められなくなったパックは、ゴミ箱へ放られることになった。
「……もー。びっくりさせないでよね」
「ぅ。……ごめん……」
なんで謝ったのか、言ってから『あれ?』って思ったけれど、でも、別にいっか。
……だって、絵里にも言ってなかったんだしね。
今日が、初めてのお披露目。
だから、同じクラスの子たちにも結構驚かれた。
「……それにしてもまた、随分短くしたわね」
「そうかな?」
「だって、アンタがこんな髪型するのって……いつぶり? 中学とか以来じゃない?」
「んー……かもしれない」
確かに、中学のときが1番短かったかな。
ショートカットにしたんだよね、一度だけ。
理由は……流行ったドラマと、絵里と……もうひとり。
小学校のときから、スポーツも勉強もなんでもできる、とってもアクティブな女の子がいた。
……いた、っていうのは正確じゃないかな。
だって、彼女とは今、同じ学科で毎日勉強してるんだもん。
その子と、絵里の影響……って言ったら、ふたりは笑うかもしれない。
でも、憧れっていうか、同じ髪型にしたらふたりみたいになれるかなって思ったんだけど、いざ同じ髪型にしてみたら……ホント笑っちゃうくらい似合わなくて。
毎日毎日ブラッシングしながら、早く伸びてっておまじないかけてたっけ。
「……いいの? 切っちゃって」
あのときのことを知ってるのと、そして……今の私の状況を知ってる絵里だから、そう言ってくれたんだろう。
心配そうな顔をされて、申し訳なくなってしまう。
「……いいの」
笑顔で。
囁きながらうなずくものの、やっぱり絵里は不安そうな顔。
……大丈夫だよ。そんなに心配しないで。
なんて意味を込めながら、改めて笑う。
「これから、伸ばすの」
「……羽織……」
「改めて。……これからね」
何もかもが、最初からじゃない。
だけど、こんな形であっても、気持ちの切り替えをしなくちゃ。
……私も、そして……できることなら、彼にも。
「……そっか」
そこでようやく、絵里が笑った。
ほんのちょっとだけ、『しょうがないわね』なんて顔をしながら。
「イイ女になったわね。アンタ」
「……そうかな?」
「そーよ」
むにょん、と頬を指でつつかれ、情けない顔になった。
……でも、これから。
ここから始めたいから。
そのための支度は……整ったよね。
そんなことを改めて自分に問いかけながら、やっぱりまた笑みが浮かんだ。
「……おや、珍しいところで」
「え?」
「……っ……あ!」
聞き慣れない、低い声。
だけどとても穏やかで、すごく……優しくて。
でも私は絵里と違って、誰かまったく気付かなかった。
だって彼は――……私の、すぐ後ろに立っていたから。
「宮代先生……!」
「こんにちは。……ん? 雰囲気が変わったかな?」
「……あ……。ええと、実は……髪を切りまして」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。
だけど彼は、軽く手を振りながら空いていた椅子を寄せてそこに座った。
「ああ、なるほど。……どうりで、以前と感じ方が違うはずだ」
手に持っていたのは、お茶の入った紙コップ。
……どこから手に入れたんだろう。
それがちょっと不思議だった。
「瀬尋君とは、会ったかな?」
「っ……」
「宮代先生……!」
彼は、祐恭さんのことを知っている。
彼が今どういう状況にあって、そして……私と、どうなっているかも。
もしかしたら、人づてに話が入ったのかもしれない。
少なくとも、何も知らないような感じじゃなかったから、私はそう思っていたんだけど……。
「……あまり……会ってないんです」
一瞬落ちた視線。
絵里も何も言わず、そしてまた彼も何も口にしない。
周りはすごくいろんな音が溢れてるのに、ここだけ全部吸い取られてしまっているような。
そんな気まずさがあって、顔が上がった。
「……え……?」
その、途端。
目が合った彼は、にっこり笑って少しだけおかしそうに声をあげた。
「なんとかとハサミは使いようって言葉、ご存知かな」
「……ハサミ……ですか?」
ひと口お茶を飲んだ彼が、紙コップを持ったまま人差し指で私をさした。
なぜか、やっぱり楽しそうな顔のまま。
ハサミ……って……やっぱり、あのことわざなのかな。
思わず眉を寄せて彼を見ると、まるで私の考えていることがわかったかのように、おかしそうに笑いながら『そう。それだよ』と笑ってうなずいた。
「彼もまた同じこと」
「……え……?」
「何もかもすべて、あなた次第なんですよ」
ふっと笑った彼が、表情を変えた。
とても優しくて、温かくて……でも、ちょっぴりの鋭さがあって。
……不思議な人。
だからこそ、この人が彼の先生であるのもうなずける。
「彼は今、復元とオゾンに関する研究を行っていてね」
「……復元……」
「そう。なのに、そんな人間が自分自身のリカバリーができなきゃ……笑い話にもならないでしょう?」
肩をすくめ、一気にお茶を飲み干す。
その眼差しはさっきまでと同じはずなのに、見ている先は、私でもなく絵里でもなく。
何か遠くのものを見つめるかのようにしてから、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。彼よりもまず――……あなた自身を信じなさい」
「……っ」
「答えが出ないから悩むんであって……答えが出ているモノは、悩みの内に入らないんじゃないかな?」
頬杖を付き、近い距離で笑われる。
屈託のない笑み。
男性で、年上で。
私なんかよりずっともっと人生を経験してきた人だからこその、深み。
一瞬見惚れてしまってから慌てて自分を正すと、くすくす楽しそうに笑いながら、彼もまた席を立った。
「ま、暇なときはいつでも自由に訪ねてみるといいかもしれないよ」
「……え……?」
「彼もまた、あなたと同じような顔をして思いつめるクセがあるからね」
初めて聞いたことに、瞳が丸くなった。
だって、私が知っている彼はいつでも強くて、しゃんとしてて、迷ったりしなくて……。
……祐恭さんも、思いつめて……?
思い当たる場面も雰囲気もまったく覚えがなくて、いつしか考え込むように顎へ手を当てていた。
「どちらかが動かなきゃ、何が変わるワケがない。……それに、いつまでも気まずいって思っていたら、いつまでもそれは続くよ」
「……それは……」
「これまでと違う行動を取らなきゃ」
センスのいいネクタイを締め直した彼が、紙コップをひねり潰してから……また、遠くを見つめた。
でも、今度は明らかに違う。
対象を、私もちゃんと見てとることができた。
「……でも、次は彼の番かな」
「え……?」
「だってほら。……君は先に動いたじゃない」
「っ……」
ふっと笑って指差され、瞳が丸くなった。
優しい笑顔。
どこか祐恭さんに似ているものがあって、一瞬どきりとした。
「よく似合っていますよ」
「……あ……。ありがとうございます……!」
優しい言葉。
決して厳しくない、だけど自分じゃ気付けなかったこと。
そこを真正面から指摘してもらえて、素直に気付いたことが多くて。
「それじゃ、また」
「はい……っ」
彼を見送るように頭を下げると、素直な笑みが浮かんだ。
……ちょっとだけ……ほっとしたような。
そんな、久しぶりに感じた穏やかな気持ちとともに。
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