「………………」
 夕闇に包まれ始めた、道。
 そこをひとり歩きながら進むと、少しして開けた場所に出た。
 茶店のようなモノもあるのだが、さすがに今はもう時間外か。
 カーテンが引かれており、あたりにもひと気はほとんどない。
 ……懐かしい、というのが第一印象。
 久しぶりに来た。
 ただ――……それは、あくまでも自分の感想で。
 なぜなら『俺』は去年、ここを再び訪れているらしいからだ。
 …………そう。
 化学部の夏合宿の地として選んだココ、山梨県の忍野村を。
「…………」
 相変わらず、よく澄んだ深い色の青や緑にしか見えない、水が満ちている池。
 キレイだ。
 素直に、そう思う。
 ……ここに、来たんだな。
 去年確かに俺は、彼女と。

「……これは?」
 日が暮れ始めた、夕方。
 そんなとき、珍しく研究室を訪ねてきたのは、葉月ちゃんだった。
 ……珍しい、とも言えないな。
 彼女が個人的に俺を訪ねてくることなど、これが初めてだったんだから。
「きっと、お役に立つと思います」
 手渡された、小さなノート。
 その裏表をひっくりかえすように見てから彼女に聞くと、笑みを浮かべて少しだけ首をかしげた。
 手のひらに乗るほどの大きさしかない、小さなコレ。
 促されるままに中を開くと、細かい字で、何かが記されていた。
「そこにあるのは、私が羽織から聞いた想い出の場所です」
「……想い出……?」
「はい。瀬尋先生と行った場所、です」
「っ……!」
 4ページほどまで書かれていたモノ。
 だが、内容を読み始める前に、彼女の言葉で瞳が丸くなった。
「これまで話してくれた場所を思い出して書いたんです。……だから……もしかすると、少し月日が違っているかもしれませんけれど……。でも、場所は確かです」
 言われてから見てみれば……確かに。
 月と、そして場所。
 それらが、いくつかにわけて書かれていた。
 ……中には、そのときのエピソードだろうか。
 歩いた場所や見たものなどの、少し細かいことも記されている。
 そういえば……ここに記されている場所で撮ったらしき写真が、何枚か家にあったな。
 なぜこんな場所で? と少し不思議だったんだが……コレを見て、少しだけ合点がいった。
 ……だが、しかし。
 腑に落ちない大きな点が、ひとつ。
「……なんで……」
「はい?」
「どうして、こんなことまで……俺に」
 当然の疑問だ。
 これは、言うなれば俺とあの子とが歩いて来たアルバムのようなモノ。
 俺だけの力ではまず手に入らない、ある意味貴重な生の声だ。
 だが、だからと言って何も、俺に教えてくれなければいけないようなモノでもないし、そんな義務も義理も恐らく持ち合わせてはいないはず。
 ……にも関わらず。
 なぜこの子は、ここまで俺にしてくれるんだろうか。
 孝之の知り合いだから?
 ……いや。
 そんなこと、まったく関係ないだろうに。
「瀬尋先生は、恩人なんです」
「……恩人……? いや、俺は……」
「いえ。恩人です。それに――……羽織が笑ってくれないのは、つらいんです」
「っ……」
「せっかく、最近笑うようになったんです。……だから……こうすることが、きっと羽織のためにもなるから」
 少しでも、役に立てればと思って。
 寂しげにツラそうに笑みを浮かべた彼女は、静かにそう口にした。
 ……確かに。
 ここ最近、彼女をまた俺が傷つけ、遠ざける真似をした。
 そのせいであの子が苦しんでいるのは事実。
 …………そして、彼女もまた。
 同じ家にいて毎日その変化を近い場所で見ているからこそ、ツラいものがあるんだろう。
 当然だよな。
 なんせ彼女は、俺とあの子の昔の姿もちゃんと知ってる人なんだから。
「……借りてもいいかな」
 手にしたノートを閉じ、改めて彼女を見る。
 すると、瞳を一瞬丸くしてからすぐに嬉しそうな顔でうなずいた。
 手にした手がかり。
 恐らくは、俺の記憶を辿るための――……唯一の手段。
 ……そう。
 コレを彼女に借りることができたからこそ、わかったんだ。
 俺がしなければいけないことが。
 そして……俺だけにできること、が。
「……ありがとう」
 少しだけ力を込めてノートを握ると、なぜか自然に笑みが浮かんだのが、不思議ではあった。

「…………」
 スーツ姿でひとり、こんな時間にここを訪れる人間など俺以外に居るはずがない。
 ……ただ、それでも。
 不相応とか、相応とか。
 そんなことをイチイチ考えている余裕はなかった。
 俺には、時間がないんだ。
 ……なぜなら――……彼女の気持ちは、待ってくれない。
 刻々と時間を刻み、距離を開け、そして離れて行ってしまう。
 …………そう、されたくなかった。
 今になって、気付いたんだ。

 俺は今まで、彼女に受け入れてもらえていたから、平静を保っていられたんだということに。

 つまり、言い換えれば……単純なこと。
 俺は、弱い。
 彼女に離れられれば、そこから歩けなくなる。
 戸惑い、怯み、そして恐れる日々が来る。
 何ひとつ思い出せず、感覚もなく、頼れるモノがない今。
 彼女が俺のそばにいてくれることが、唯一でありそして絶対だった。
 ……なのに、気付けなかったんだ。
 甘えきっていたから。
 自分のせいじゃない、と。
 俺が悪いんじゃない、と。
 ただそうやって誰かを悪者にして、自分ができないことを棚に上げていただけだったのに。
 ……だから、わかったんだ。
 俺を振り向いてくれなくなるんじゃないか、という今になって……ようやく。

 彼女に否定されてしまうことで、自分が自分でいられなくなるという恐怖が。

 彼女に認めてもらえていたことだけが、俺が俺でいられる証だった。
 ……彼女だけが俺のすべてを知っている人だから。
 何もかも失った今でさえ、あるがままに受け入れてくれようとした人だから。
 だから――……俺は動かなければならない。
 そこに、ようやく気付いた。
 彼女のために、できることをしなければいけないんだと。
 なぜなら自分は――……。
「………………」
 左手の薬指。
 そこにはめられている、銀に光るリング。
 ……これだけが、俺と彼女を繋ぐ唯一の道だった。
 だが、それすらも今は細く消えてしまいそうになっている。
 ただし――……気付いた、今。
 自分の、彼女に対する想いがわかった今だからこそ、動こうと思う。
 動きたいと思う。
 これまでの方法では、何もかもがダメだから。
 待っているだけでは……してもらうだけでは、もう何も手に入らないことを知ったから。
「……今度は、俺の番」
 手を握り締めてから駐車場へ戻ると、改めて強い意欲が湧いてきたのに気付いた。


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