「あ。こっちこ――……ッわぁ!?」
お昼休み。
学食で昨日と同じ場所を取ってから入り口を見ていたら、まだ来ていなかった絵里が姿を見せた。
……まではよかった。
『おーい』と手を振った途端、ものすごい速さで近づいてきた彼女が、がばぁっと思いきり私を抱きしめたから……当然そのパワーすべてを受け止められなくて、がしゃん、とテーブルにぶつかる。
……痛い。
斜めになりながら彼女を受け止めたものの、腰が思いきりテーブルへぶつかり、じんじんと痛みが全身に広がる。
それでも絵里は私を抱きしめたまま離れず、さらに腕へ力を込めた。
「……う……あ、のっ……絵里……!? ちょっ……ぅ……苦し……!」
「っぶあぁーー!! 羽織ぃぃぃい!!」
「えぇ!? 何!?」
「よかった……!!」
「っ……」
「よかったわね、ホントに!! あぁあああぁもぉ!! こいつー!」
「いたっ!!」
「心配かけるんじゃないわよっ! お馬鹿っ!」
「いたたっ……ちょ、絵里っ! 痛いってば! もう!!」
ぎゅううっと思いきり力を込めて抱きしめられ、わずかに骨が軋んだような気がした。
ぽき、と腕から音がして、一瞬不安になったほど。
そのとき、麦茶を3つトレイで運んできてくれた葉月が、私たちを見て笑った。
「ふふ。絵里ちゃん、よっぽど嬉しかったのね」
「そりゃあもう!! だって、葉月ちゃんもそうでしょ!?」
「もちろん! 昨日は、すごく嬉しくて……ちょっと泣いちゃった」
「うっそ、ホントに!? やだもー! ちょーかわいい!!」
「わ!?」
絵里ちゃんたら……とくすくす笑っていた葉月までもが、今度は巻き込まれた。
間一髪、トレイはテーブルへ置かれたあとだったから、被害はなかったけれど。
「あーー……満足」
「……っ……はぁ」
「あはは」
息がほんの少し詰まったところで、ようやく絵里が解放してくれた。
見ると、その顔は本当に満足そうで。
そして、とても嬉しそうだった。
「やー、でもホント嬉しいわ。純也も喜んでたし」
「田代先生も?」
「うん。昨日ね、メール貰ってすぐ電話してやったら、そうかそうかぁよかったなー、なんて言ってたわ。思わず、父親かってつっこんじゃったわよ」
椅子に足を組んで座ってから、湯のみの縁を持って飲む絵里こそ一瞬お父さんみたいに見えたけれど、それは内緒。
田代先生も、そう言ってくれたんだ。
……ということは、もしかしたらすでに何か彼と話をしているかもしれない。
そう思うと、ちょっとだけ照れくさかった。
「で?」
「え?」
「どこまでヤったの?」
「ごほっ! え、絵里!!」
とんでもないセリフに麦茶を吹きそうになり、思わず咳き込む。
だけど、絵里はそんな私を見てさらにニヤりと表情を変えた。
「えー? だってー。オトナ同士が付き合うっつったら、『好きです』『付き合ってください』だけで済むワケがないでしょ? 『それじゃ今夜はウチに』とか『今から部屋に……』とかなんとかなかったの?」
「そんなわけないでしょ!」
「なんでよー。だって、その割には昨日の昼休み帰って来なかったじゃない?」
「……う」
「どうなのよ、その辺はー。えぇ? うりうりー。何してたのよー」
「わわっ! 絵里、やめてよー!」
つんつん、と脇をつつかれて身をよじるものの、絵里は相変わらずあの意味ありげな顔のまま突つくのをやめてはくれなかった。
……うぅ。
でも、別に昨日は何もやましいことなんてしてないのに。
ただ――……彼の研究室へ行って、膝枕をさせてもらっただけ。
本当に。
それ以外は、本当に何もなかった。
放課後も彼は仕事があるから、昼休みのあとは結局会うこともなかったし。
……本当は……お家、行きたかったの。
待っていたかった。
でも、昨日は『私たち』として付き合うことになった最初の日。
だから、そこであれもこれもと望むのはなんだかいけないような気がして、特に何か『恋人』らしいことはできていない。
メールも、寝る前にひとことおやすみなさいと伝えはしたけれど、返事があったのは0時をすぎてからだったし……今朝はまだ送っていない。
忙しいのがわかるから。
私を向いてほしいけれど、そればかりじゃダメになってしまう。
彼には彼の生活があって、仕事があって、時間があって。
同じように、私にも決められているやらなきゃいけないことがあるから。
「……はっ」
「んふふー。いい顔してるわねー、アンタ」
「っ……ちがっ……!」
「違わないでしょ! まったく。でれでれしちゃって」
「……してないもん」
「してた」
「……うぅ」
あれこれと考えを巡らせていたら、どうやら自分の世界に浸りきってしまっていたらしく、絵里にほっぺたをつつかれるまで気付かなかった。
……うぅ。
確かに、いろんな顔をしてたような気がする。
途中、考えながら眉が寄ったり、逆にふにゃんと頬が緩んだりした気がするから。
「ちゅーはしたんでしょ? ちゅーは」
「っ……!」
「……ふむ。それじゃ次は、アレか……」
「絵里っ!」
む、と思わず唇を一文字に結んだのを見て推測したらしく、絵里がふむ、とばかりに頬へ指を当てた。
アレって何? と聞き返したりはしない。
だって、今の絵里の顔と口調からしたら、恐らくお昼にそぐわない内容の言葉が出てきちゃうだろうから。
「もぅ。絵里ってば、本当に……」
麦茶をひと口飲んでから彼女を見ると、ぺろっと舌先を見せてから楽しそうに笑った。
その顔。
それって、ずるいんだよね。
どんなに『もぅ』と思っていても、その無邪気な顔見たら表情が緩んじゃうんだから。
「……でも、ホントよかった」
くす、と小さく笑った絵里が姿勢を正した。
それを見て、葉月が同意するようにうなずいてから私を見る。
ふたりとも、同じ顔。
優しい眼差しに、柔らかい笑みを口元に浮かべている。
「羽織が笑えるようになって、よかった」
「っ……」
「アンタは、そうやって笑ってるのが1番イイわね。やっぱり」
ふふ、と葉月が笑ったあとで、絵里が私を指差した。
途端、ふと頭に蘇る言葉。
『やっぱり羽織ちゃんは笑ってるほうがいいよ』
ずっと昔じゃない。
1年前の遠足のとき、バスの中で彼に言われた言葉。
あのとき……彼がこう言ってくれたあのときも、ふたりと同じように優しい顔をしていた。
「……っ……羽織?」
「どうしたの?」
「……あ、ううん。なんでもないの」
つい、当時の彼のことを思い出してしまい、涙がほんのわずかに滲んだ。
だけど理由はわからない。
もう1度彼と繋がることができるようになったのは、何よりも嬉しくて幸せなのに。
それ以外の何ものでもないのに。
……私の中では、ふたりいる。
ようやくリンクでき始めた今の彼と、ずっとずっと深いところまで繋がっている彼と。
比べるつもりはないのに、不意に自分の中で戻る光景がある。
言葉がある。
声が、表情が、当時の彼を彩る沢山の情報が。
……忘れたくない。
そう思っているからなのか、忘れちゃいけない、という義務感なのか。
そのどちらなのか、それともどちらでもないのかは、私には判断できそうにない。
「……えへへ。ありがと。2人とも」
まばたきを増やして涙を打ち消してから、笑みを浮かべる。
だけど、ふたりの笑顔がほんの少しだけ曇ってしまったように見えて、申し訳なかった。
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