「私さ、次の時間アレなのよ」
「え?」
「祐恭センセの講義」
 にやり。
 ストローを離した絵里が、いたずらっぽく笑う。
「今までは、それこそ敵意むき出しな顔してたからねー。今日からは、満面絵里ちゃんスマイルでやれるようにするわ」
「満面……」
「何よ」
「ううん。いいと思う」
 一瞬きらりんと輝く絵里の姿が頭に浮かび、小さく噴きだしてしまったのをやっぱり見逃してはくれなかった。
 慌てて手を振るものの、眉を寄せて『まったく』と怒られる始末。
 でも……敵意むき出し、かぁ。
 つい先日。
 それこそ、1週間前の状況とは180度異なっている現在に、正直まだ実感が湧いていない。
 あんなだったのに。
 避けられてる、って思ったこともあったのに。
 なのに……昨日。
 まだ1日しか経ってないからこそ、なんだかふわふわした感じが消えない。
 現実味がないというか、なんというか。
 それも恐らくは、昨日から彼に直接会っていないということも大きな影響があるんだとは思うけれど。
「羽織」
「…………」
「おーい」
「…………」
「はおりんちょー?」
「…………」
「…………」
「…………」
「ていっ」
「いっ!!」
 いきなり鼻に痛みを感じて、声が出た。
 でも、お陰でぼーっとしていた意識が引き戻されたというのもある。
「絵里!」
「なーにー?」
「っ……」
「ひょっとして、准センセのこと考えてたのかしらん?」
「……じゅんセンセ……?」
「あら。噂をすれば」
「え?」
 つつ、と頬に当てていた指を、ぴ、と窓の外へ向けた絵里につられて、視線がそちらへ向いた。
 天気のいい、中庭。
 その、ちょうど掲示板との境に濃い色のシャツを着ている――……彼が、いた。
 沢山の人が居るのに、ひときわ目立って見える。
 明るさが違う。
 光の受け方が違う。
 何より、オーラと呼べるような雰囲気が。
「…………」
 真面目な顔をして、すぐ隣にいる男の人と紙を見ながら話をしている。
 その、口元。
 眼差し。
 そして……指先。
 彼が動きを見せるたびに目を奪われ、そのたびにどきどきする。
 ……どきどき。
 カッコいいなぁと思うのもあるけれど、そこじゃない。
 好き、っていう気持ちが強すぎて、大きすぎて、彼をあらわすすべてにどきどきする。
 苦しくなる。
 でも、でも、違うの。
 胸の奥がすごく熱くなって、ぎゅうっとなって、そして……。
「……羽織」
「え?」
「顔。すっごい緩んでる」
「ぅ……!」
 そうなの。
 自然と頬が緩んでしまって、だらしないような顔になってしまう。
 絵里に指摘され、慌てて両手を頬に当てるものの、それだけじゃ抑えきれない。
 熱い。
 でも、ダメなの。
 ……抑えられないの。
 だって、違いすぎるんだもん。
 昨日のこの時間を迎える前までと、彼との関係が。
「行ってきなさいよ」
「え?」
「行きたい、って顔してるよ」
「っ……」
 つんつん、と絵里が肩をつついたあと、葉月が小さく笑った。
 途端、顔が赤くなる。
 だって、ふたりともすごい優しい顔なんだもん。
 ……うぅ。
 なんだか、全部見透かされちゃってるような気分。
 でも、仕方ないのかな。
 だって私、今自分でも『すごい顔して見てた』って気付いたから。
「さー。葉月ちゃん、図書館付き合ってくれない?」
「ん。喜んで」
「……えっ!? ちょ、ふたりとも……!」
 がた、と音を立てて絵里が立ち上がり、葉月を誘った。
 まるで、最初からそんな打ち合わせをしていたかのように、スムーズに行われたやり取り。
 あまりにも鮮やか過ぎて、一瞬何が起こったのかわからなかった。
「え、え!? ちょっと待ってよ!」
「いーっていーって。ほら、行って来なさいよ。ふらーっと」
「ダメだってば! そんな……だって、お仕事中だし……」
「関係ないでしょ、ンなモン」
「あるでしょ!」
 ひしっと絵里の腕を掴むと、面倒くさそうな顔をしてから手を振られた。
 横に、じゃない。
 しっし、とまるで追い払われるかのようにだ。
「行っておいでよ」
「っ……葉月まで……」
「今、誰よりも1番会いたい人でしょう?」
「それは……そうだけど……」
 湯飲みの載ったトレイを持った葉月が、ぽん、と頭に触れた。
 『ね?』とあやすように撫でられ、寄っていた眉がふにゃんと下がる。
「もう、自分に嘘つかなくていいんだから」
「っ……」
「行っておいで」
 決して大きくない声なのに、じんと胸に響くのはどうしてだろう。
 はっとさせられる言葉だからなのかな。
 それとも――……やっぱり、今自分が思ってることをそのまま表現してくれてるからなのかな。
「……うん」
 立ち上がったふたりを見ていたら、ほどなくしてうなずいていた。
 と同時に彼へと顔が向き、ひとつひとつの動作を追うように視線が動く。
「決まりね」
「わっ」
 ぽん、と絵里が手を叩いてから、私の頭を撫でた。
 くしゃくしゃとされ、一瞬驚くもののすぐに笑みが浮かぶ。
 ……すぐそこにいる彼。
 昨日会って以来の、想い人。
「行ってくるね」
「ん。いってらっしゃい」
 バッグを持ち、ふたりを振り返る。
 そのとき浮かんだ笑みは、にっこりというよりは、照れ隠しというか……ううん。
 あの、緩みきったにんまりしたモノになった。


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