「…………」
 学食の、掲示板側の入り口。
 自動ドア付近まで足をすすめたものの、そこで止まってしまった。
 彼はすぐそこにいる。
 このドアが開けば、もしかしたら気付いてくれるかもしれない。
 だからこそ……できなかった。
 彼は今、真剣な顔をで話をしていて。
 間違いなくお仕事のことだろうから、どうしても邪魔したくなかった。
 先に行くね、と席を離れたふたりは、ここではなく、教学課の近くにある出口から図書館へ向かった。
 テーブルから離れるとき、絵里がバッグから2冊の本を取り出していたから、アレは口実なんかじゃなくてホントのことなんだろう。
 ……でも、気を遣ってくれたのは確かなんだよね。
 改めて、ふたりへのありがたさと……気遣わせてしまった申し訳なさが浮かんだけれど、だからこそ私は今彼のところへ行かなければいけないと思う。
 って……違うよね。
 だって、彼を見てすぐ自分から行きたいと思ったんだから。
「…………」
 肘まで腕まくりをしている、濃い青の長袖のシャツ。
 その手首に見知っている時計を見つけ、鼓動が大きく鳴った。
 夏の日差しを受けてときおり光る、銀。
 だけどすぐ、そこから紙面に当てられている指先へと目が移る。
 長い指。
 骨っぽさがある、きれいな手。
 それが、不意に眼鏡へと移った。
「っ……」
 ほんの一瞬。
 先じゃなく、人差し指の第2関節で眼鏡を上げた彼と、瞬間的に目が合った。
 本当は、相手の人を見るために視線を上げたんだと思う。
 でも、その端に映り込んだんだ。
 『あ』と思ったとき、彼が一瞬動きを止めたのがわかって、心臓が跳ねた。
 そこからの時間の流れは……本当に速くて。
 持っていた紙を相手の人に渡したかと思いきや、いくつかのやり取りをしてすぐ切りあげてしまった。
「え、えっ……」
 それを見て、びっくりしたのはこちら。
 思わず口元に手を当て、1歩後ずさってしまう。
 だって、これって私のせい……だよね。
 自惚れかもしれない。
 たまたまキリがよかったからかもしれない。
 だけど、今目が合ったの。
 だから――……。
「……あ……」
「こんにちは、だね。もう」
 自動ドアが開いてすぐ、彼の声が直接聞こえた。
 どくん、と鼓動が鳴る。
 聞きたかった声。
 欲しかった音。
 待っていたモノなのに瞬時に反応できなくて、こくこくと2度うなずくのが最初に取ったリアクションだった。
「……こんにちは」
 ようやく出た言葉は、なんだかとっても間の抜けたもので。
 自分で言ったのに、何を言ってるんだろうって情けなくなった。
「……ちょっと、いい?」
「え?」
「時間あるかな?」
「っ……大丈夫です!」
 本当に久しぶりに聞いた気がする、彼の囁き。
 身体が震えて、痺れのせいで返事をするまで少し時間がかかってしまった。
「あ……えと……」
 思いきり断言してしまい、顔が赤くなる。
 でも彼は一瞬驚いた顔を見せたものの、すぐに優しく笑ってくれた。
 ……ぅ。
 その顔、反則です。
 眩しいんだよね、本当に。
 どきっとするというより、ぎゅっと全部鷲掴みにされる感じで、また一瞬動けなかった。
「じゃ、ちょっと場所変えようか」
「あ、はいっ」
 ザワザワしているというのもあるし、沢山の人がいるというのもある、この場所。
 人の目が沢山あるからこそ、できれば彼だけを意識できるような場所へ行きたいのは事実。
 やっぱり……好きな人、だもん。
 見られるのは構わないけれど、でも、集中したい。
 彼だけに。
 その声を、表情を、仕草を、全部……独り占めしたい。
 前からもそう思っていたはずなのに、今のほうが彼に対してずっと強くそう思うようになった。
 自分だけの彼でいてほしい、って。
 私だけの、特別であってほしい、って。
 我侭になったのかもしれない。
 でも、でも……やっぱり、好きなんだもん。
「……っ……」
 少しだけ先を歩く彼の背を見ながらどうしてもまた笑みが浮かび、慌ててふにゃんとなりすぎた頬を押さえるべく両手が動いた。

「実は、明日なんだけど……ごあいさつに伺おうかと思ってるんだ」
「えっ!」
 中庭から理学部の建物まで伸びている、細い道。
 入り口までもうすぐそこになったとき、彼が足を止めて私を見下ろした。
「ご両親にまず、きちんと話をさせていただきたいんだけど、どうかな?」
「……あ……」
 彼らしいセリフだと思う。
 だけど、それだけじゃない。
 まず最初に感じたデジャヴにも似たモノに、唇が開く。
「それが筋だと思うし、何よりもやっぱり……了解を得られないと、落ち着かないんだ」
 ……自分が。
 ほんの少しだけ困ったような顔をして続けられたひとことに、また、あの感覚に陥る。
「……どうかした?」
「っえ、あ……いえ。なんでもないです」
 慌てて手を振り、笑みを浮かべる。
 だけど、少しだけそれがぎこちなくなった気がして、嫌だと思った。
 昔も今も同一人物なんだから、ダブるところが幾つあってもおかしくないのに。
 ……なのに、自分の中で妙な違和感のようなモノを抱いている自分もいる。
 それが――……すごく嫌だ。
 同じなのに。
 間違いないのに。
 なのに、違うと思っている部分があるんだろうか。
 彼なのに彼でない、と。
 そんな、否定するような考えが。
「明日は20時過ぎまでには伺えるように仕事を調整するから、その……できれば、一緒に行ってもらえると嬉しいんだ」
「私……ですか?」
「うん。……ダメかな?」
「ダメなんかじゃないですよ! 全然っ……大丈夫、です」
 めいっぱい否定してしまい、恥ずかしくなって語尾をすぼめると、小さく彼が笑った気がした。
「ありがとう」
「っ……」
 目の前で微笑まれ、どきりと心臓が跳ねる。
 眼差しが、とびきり優しい。
 先ほど、仕事の話をしていたときの彼とは、まるで別人。
 本当に柔らかくて、優しくて。
 想いがたっぷり込められているような気がして、ただどきどきする。
 見惚れる、と言ったほうが正しいかもしれない。
 それくらい、目の前の彼はなんだか特別だった。
「時間が時間だし、大学じゃなくて家で待っててもらえると安心なんだけど」
「……え……?」
 ジャラと音を立てて、彼がポケットから小さな束のようなモノを取り出した。
 硬い、金属の音。
 見るとそれは、今も昔も変わらずに使われている彼のキーケースだった。
「これ」
「あ……っ」
 数本の鍵の中の、ひとつ。
 金色に光る小さな鍵を外した彼が、私へ差し出した。
 見覚えもある、感触に覚えもある鍵。
 それどころか……このキーケース内には明らかに異質なもの。
 だって、ほかは鍵むき出しなのに、この鍵だけは……かわいらしいうさぎの根付が付いてるんだから。
 ……久しぶりに見たな。
 ――……そう。
 これは以前、彼に貰った……彼の部屋の鍵だ。
「コレは、俺が持つべきモノじゃない」
「でもっ……!」
「持っててくれるよね?」
 手のひらを上に向けてそこに置かれた鍵を、もう片手で包み込むように彼の手が重なる。
 冷たい金属の感触。
 だけど、当然私には覚えがあって、なんともいえない感じからほんの少しだけ背中が粟立った。
「その代わり、期待するよ」
「え……?」
「これからは……それこそ毎日。玄関を開けたら、そこにいるんじゃないかって。おかえり、って……出迎えてくれるんじゃないか、って」
「っ……」
「それでもいい?」
 すぐここ。
 きゅ、と手首を掴まれたまま引き寄せられ、見上げるとすぐここに彼の顔があった。
 ……だけじゃない。
 優しく囁かれた言葉とともに降りてきた、大きな手のひら。
 髪を撫でるように指で梳かれ、そのまま頬に触れられる。
 まるで、大事なものを扱うかのように、優しく、決して力強くなく。
 親指が唇の端に当たり、1度だけ触れるようにしてから耳へ髪をかけた。
「…………」
 その間、ずっと何も言えなかった。
 ただ、眼差しが優しくて。
 すごくどきどきするのに、決して目を離せなくて。
 まばたきするのも忘れてしまったかのように、彼の瞳を見つめていた。
「……いいんですか?」
「ん?」
「私、勝手にお邪魔して……」
 願ってもないほど、とても嬉しい申し出。
 だけど、同時にほんの少し不安が湧く。
 いいんだろうか。
 私がまた、好きに家の中のものを触らせてもらっても。
 許して……もらえるんだろうか。
「勝手にじゃないよ。俺がねだったんだから」
「っ……」
 半ば強制かな。
 そう言って苦笑を浮かべた彼に、こちらも笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。ありがとう」
 ぎゅ、と鍵を握り締めてから彼を見上げると、瞳を細めて微笑んでくれた。
 どうしよう。
 私、嬉しくて嬉しくて、今すごい顔してる。
 それこそ、さっきふたりに言われたのよりもずっと、緩んだ顔だ。
「……参ったな」
「え?」
「なんか……恥ずかしい」
 視線を逸らすと同時に口元へ手を当てた彼が、そっぽを向いた。
 その横顔が確かに照れているように見えて、思わず目が丸くなる。
「あはは」
 小さく笑いが漏れたのは、彼がらしくなく見えたからじゃない。
 こんな姿を見せてもらえたことが、嬉しくてたまらなかったから。
 ……だって、だって。
 こんな日が来るなんて、本当に夢みたいなんだもん。
 ううん、夢以上のもの。
 それこそ、奇跡と呼んでもいいんじゃないだろうか。
「……えへへ」
 嬉しすぎて、顔が元に戻らない。
 鍵を握り締めたまま頬に手を当てると、彼もまた小さく微笑んだのが見えた。


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