昨日の夜、彼にメールを送ることはなかった。
おやすみなさい、のメールは送らないことに決めたから。
私にとって『おやすみなさい』の時間が、決して彼にとってイコールでないとわかったからだ。
夜だけじゃなく、朝もそう。
4限目が終わった現在まで、彼に対してメールでのコンタクトは取っていない。
今日のお昼は、昨日のようにうまく会う機会はなかったけれど、でも、気持ちは安定を保ったまま。
寂しくない。
もちろん、見かけることができればそれだけで嬉しくはなるけれど、会えないからってため息をついたりしない。
もう1度、彼を表すものを貰うことができたから。
「……はぁ」
17時少し前。
私は今、彼のマンションの前にいる。
4限目が終わってすぐ大学を出て、早足でマンションを目指した。
バスで行ってもいいんだけど、でも、ここから見えているしそう遠くないのはわかってる。
だから、歩きたかった。
バスを待つ時間がもったいないと思ったくらい、じっとしていられなかった。
……そして、今。
少し息が上がっているけれど、顔には笑顔がある。
来たのは、確かについ先日もそうだけど……でも、気持ちがまるで違う。
もう、飛び出したりしない。
逃げる必要はない。
ここが今私にとって、きっと1番留まっていたい場所に違いないから。
数段の階段を上がり、エントランスへ。
この前ここに来たときは、彼が開けてくれた。
びしょ濡れのままだった私を、招き入れてくれた。
……でも、途中で私逃げたんだよね。
彼のせいにして、認めるのがただ怖くて。
「…………」
今は違う。
変わったのか、変えられたのか、どっちだろう。
でも、彼のお陰で今の関係があるというのは間違いない。
……幸せもの、だよね。私は。
ゆっくりとキーを差し込んでから回すと、スムーズに開いた目の前の自動ドア。
久しぶりの感覚だからか、一瞬『おかえり』と言ってもらえたような気がして、思わず苦笑が漏れた。
すぐそこにあるエレベーターホールへ向かい、ボタンを押して呼び寄せる――……までもなく。
押してすぐドアが開き、誰もいない中へ乗り込む。
『4』のボタンを押すとき、なんだか嬉しくてつい数字をなぞるように指が動いた。
ひとりきりのエレベーター内。
それが、春休みをふと思い出す。
あのときは、彼はもちろんお仕事があったから、私だけ春休みで家にいることが多かった。
だから、乗り慣れたんだよね。このエレベーターも。
そして――……まっすぐ伸びる、廊下も。
チン、と小さな音とともに開いたドアから降り、1番奥の部屋を目指す。
……どうしてかな。
歩き慣れたはずの廊下なのに、初めて来たときみたいにどきどきするのは。
コツコツと響く足音が、なんともいえず嬉しい。
今、ここにいることを実感できて、自然と顔がにやける。
「……っ……」
そのピークは、彼の部屋の前にある門扉を見たときだった。
一瞬止まった足を、ゆっくりと動かす。
一歩。
そして、もう一歩。
ひたり、と門扉に手を置くと、冷たくて心地よかった。
いつぶりだろう。こんなふうに触れたのは。
……久しぶりだなぁ。
そう思うと、なんともいえない気持ちが広がる。
「…………」
中に入り、玄関の前へ。
背の高い大きなドア。
ふたつの鍵穴へゆっくり鍵を差し込むと、思ったより大きな音とともに鍵が開いた。
手に伝わる、少し重たい感触が好き。
開いたときの嬉しさは、やっぱり何度味わっても変わらないから。
「……お邪魔します」
カシャン、と音を立ててドアを開け、ひょっこり顔だけで中を覗く。
お邪魔します、って言葉は変かな?
でも――……まだ、言えない。
『ただいま』
コレは、まだ。
入ってから後ろ手に鍵を閉めたとき、この家特有の匂いがした。
自分の家とは違う、匂い。
……懐かしいな。
不意にそう思ったとき、涙がほんのわずか滲んだ。
靴を脱いでから揃え、1段上がる。
逆L字に曲がった廊下。
ゆっくりゆっくり1歩ずつ踏みしめるように廊下を進むと、1番奥から光が差し込んできていた。
最奥にある、だけどとても広い場所。
それが――……。
「っ……わ」
キッチンに入ってすぐ、積まれている容器に目が行った。
多分、アレ。
……コンビニのお弁当……かな。
近づいてみると、間違いない。
きれいに積まれてはいるけれど、あのプラスチック容器に違いなかった。
「たくさん……」
シンク横にある、作業スペース。
所狭しというよりは、重ねられてきれいに整っているんだけど、なんだかこう……やっぱり存在感があるなぁ。
もしかしたら、毎日かもしれない量。
それでも、種類ごとに整えられているというあたりに、彼の変化が伺える。
以前ならば――……それこそ、こんなふうに片付けたりせず、そのままの形でゴミ袋へ行っていたに違いない。
でも、今は違う。
こんなふうに片付けるようになったなんて、なんだかちょっぴり不思議な感じだ。
「……はぁ」
シンクに両手を乗せ、少し前までしていたみたいにキッチンからリビングを眺める。
途端、感情が昂ぶって、ぞわぞわと背中が粟立つのがわかった。
……それだけじゃない。
まるで滲み出たかのような、笑顔も。
どうしよう。どうしよう。
私、今ものすごく幸せ。
嬉しくて嬉しくてたまらなくて、感情が抑えきれない。
「っ……」
たまらず両手で口元を覆ってから、にんまりしてしまう頬に手を当てる。
……しあわせ。
もう1度、この場所に立つことができるなんて。
もう1度……彼に寄り添うことができるなんて。
幸せだ。
恵まれている。
そんな言葉でしか、今の自分は言い表せない。
「……えへへ」
音のない室内。
だけど、寂しさも悲しさもそこにはない。
あるのはただ、何も変わらない光景。
何ひとつ、というわけではないけれど、でも、同じものが沢山ある。
テーブルも、パソコンも、ソファもチェストも。
そして――……。
「っ……!」
パソコンラックに置かれている、あの、うさぎの置物もそう。
目に入った途端、そちらへと足が動いた。
1歩1歩ゆっくり近づき、そっと手を伸ばす。
硬い、ほのかに冷たい感触のうさぎ。
今は腕時計がなく、ただ独りで佇んでいる。
「…………」
――……あのとき。
音を立てて落ちたあの日以降、直視していたようでできなかった、もののひとつ。
幸いなことに傷は付いておらず、緩やかなカーブのある耳もそのまま。
両手でそっと元に戻し、両手を後ろに回してから組む。
もう1度、私をここに導いてくれた……のかな。
変わらない、ぽわんとした表情のうさぎ。
だけど今はまるで、どこかの大明神のようにさえ見える気がする。
「……うんっ」
これを見て、改めて確信した。
私が今いるのは、彼の部屋。
彼が毎日を過ごしている、彼の中心である場所。
そこに今、立っている。
……少し前までの私と同じように、今の私が。
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