「……は」
 エアコンの効いた車内から降りた途端、むっとする暑さに思わず眉が寄る。
 昼間のうだるような暑さとは違うものの、外気温はほとんど下がっていないらしい。
 帰り際、学生が中庭で水浴びをして怒られていたのを見て何をしてるんだと思ったが、まぁ、学生ならアレくらいやっても許されるか。
 ふと昔、自分が学生のときはそういえばプールに忍び込んだ覚えがあって、人のことは言えないが……と思い直す。
 昔。
 ……昔か。
 俺にとっては、そう遠くない昔。
 記憶の断片がすっぽり抜け落ちてしまっているせいか、学生のときの記憶のほうが鮮やかだ。
 それが、いいのか悪いのかは正直わからない。
 それでも、今の自分こそ自分にとって1番確かで。
 あやふやでない毎日がようやく訪れ始めたことが、正直何よりほっとしていた。
 何もかも手探りで掴んできた情報の束。
 それが、今はきちんと整理されて身についている。
 ……当たり前が1番幸せなことなんだな。
 学生のころには1番縁のない言葉だと思っていたが、日々の安寧こそ最大の幸せなんだと思う。
 今、あのときを経た経験があるからこそ。
「…………」
 車に鍵をかけてからマンションのエントランスを通り、エレベーターホールへ向かう。
 この道筋を、彼女も通ったんだろうか。
 今日、家にいてくれと強制はしていない。
 鍵を渡しただけで、あとは彼女に委ねた。
 だが、ドアを開ければ……そこには彼女がいてくれる気がする。
 あくまでも、予想であり希望。
 ……それでも期待している自分がいる。
 エレベーターに乗り込んですぐ『閉』ボタンを押した自分は、いつもとは違って急いでいるような気がした。
「…………」
 家の鍵を握ったまま、廊下を足早に奥まで進む。
 最奥の我が家。
 普段は何気ない距離だと感じていたのだが、今日に限ってはやけに遠く感じる。

 早く。

 もっと、早く辿り着きたい。
 自分で確かめるまでは、どんな情報も不確か。
 鍵を開け、ドアを開けて初めて得られる真実。
 彼女がいてくれれば、それに越したことはない。
 いや、むしろそうであってほしいと願う。
「っ……」
 鍵を開け、ドアノブを強く引く。
 そのすぐ先にある、モノ。
 それをどうしても今すぐ手に入れたくて。
「た――」
 がしゃーーーん
「きゃぁあ!?」
「っ……!」
 ガチャ、とドアが開くのと大きな物音が響くのとは、ほぼ同じだったと思う。
 ……いや、もしかしたら物音のほうが少し早かったか。
 遠くから、くわんくわんという金属が回転するような音が聞こえて、思わず口を一文字に結ぶ。
「…………」
 どうしたものか。
 玄関を開けてまず目に入ったのは、いつもと違う様子の自宅だった。
 普段ならば真っ暗でひと気がないのに、今日に限ってはそうじゃない。
 俺が点けるよりも前に、玄関の電気が点いていた。
 柔らかなオレンジ色の光。
 ここからゆっくりと廊下の中ほどまで伸びていて、普段感じることのない安らぎのようなモノを感じた。
 ……のは、一瞬。
 それはすぐに、大きな音と彼女の悲鳴とでかき消された。
「…………」
「……うぅ。痛い……」
 廊下を進み、角を曲がってすぐ正面にあるキッチンが見えたとき。
 へたん、と床に座り込んだまま指先を押さえている彼女の姿が見えた。
「……平気?」
「っえ!? あ……えぇ!? う、きょうさっ……え、今ですかっ?」
「ん?」
「や……ごめんなさいっ! あの……鍵が開いたの、気付かなくて」
「いや、いいよ別に。それより、怪我した?」
「あ、いえっ! 違うんです。ここを片付けてたら、バランスが崩れて……」
 床に膝をついて彼女を見ると、慌てた様子で手を振った。
 指先。
 ほんのり赤くなっている右の指先は、先ほど彼女が押さえていた場所。
「っ……あ」
「……痛くない?」
 迷うことなく躊躇せず、すんなりと手が出た。
 彼女の手を取り、もう片手で撫でる。
 細い、華奢な指。
 小さくて、温かくて、いかにも自分とは違うモノなんだと実感する。
「……だいじょぶです」
「そう? ならいいけど」
 おずおずと伸ばされたもう片方の手が、添えられると同時に指を抜き取られた。
 温もりが消え、つい開いたままの手を握り締める。
「ありがとうございます」
「いや、何もしてないよ」
「そんなことっ……! ……嬉しい」
 えへへ、と笑った彼女の頬がわずかに赤くなっているように見えて、思わず頬が緩んだ。
 かわいいな。
 素直にそう思うようになったのは、いつごろからだっただろう。
 困ったような顔、泣いている顔、は沢山見た。
 だが、こうしてそれはそれは柔らかく微笑まれると、どきりとする。
 思わず――……こうして、手が伸びる。
「……ぁ……」
 頬に触れると、また彼女の温もりが得られた。
 温かく、柔らかく、ほのかに甘い香りがする。
「…………」
「…………」
 まっすぐ見つめたままでいたら、こくん、と小さく彼女の喉元が動いたのが見えた。
 包むように両手を頬に当て、ゆっくりと顔を近づける。
 距離が縮まるに従って、彼女の瞳がわずかに丸くなった。
 顔に影が落ちる。
 鼻先が……付く、距離。
「っ……」
 だが、そこで不意に止まった。
 すぐここにある、唇。
 なのに……触れられる自信がない。
「……支度、できてる?」
「え……? ……っ……あ、はい。大丈夫です」
 声が掠れたのは、それなりのことをしようと身体が先走りかけた証拠。
 ふ、と距離を開けてから囁くと、顔を真っ赤にした彼女がこくこくとうなずいた。
 わずかに潤んだ瞳が目に入り、喉が鳴ると同時に視線を逸らす。
 ――……離れろ。
 言うことを聞きそうにない身体を無理矢理立ち上がらせ、床を踏んで呼吸を整えてから彼女に手のひらを差し伸べる。
「立てる?」
「……あ……。ありがとうございます」
 一瞬瞳を丸くした彼女が、にっこり笑って手を取ってくれた。
 心なしか、先ほどよりも熱い手のひら。
 握り締めると、かすかに震えているようにも感じる。
「それじゃあ……出ようか」
 本当は、違うことを言いそうになった。
 彼女がここにいてくれるのは嬉しいし、だからこそもっとふたりきりの時間をすごしたいとも思う。
 だが……そうじゃない。
 今日、どうしても行きたい場所があったから、彼女をここへ呼んだんだから。
「はいっ」
「……っ……」
 すんなりうなずいてくれた彼女に、思わず言葉に詰まる。
 素直で、優しくて。
 俺にはもったいないかもしれない。
「……え?」
「いや……なんか、ごめん」
「? どうしてですか?」
「……うん」
 華奢な手を握ると、なんとも間抜けな言葉が出た。
 なんか、ってなんだ。なんか、って。
 我ながら先を考えてなさすぎて、正直恥ずかしい。
 咄嗟に謝ってしまったのは、彼女が――……キス待ちをしてくれているように見えたから。
 なのに、それを中断した自分。
 わかっていたのに、しなかった。
 意気地がないのか、それとも……。
「え?」
「…………いや、なんでも」
「?」
 靴を履くとき、離れた手を彼女の頭に乗せると、ゆっくり撫でるように動いた。
 クセ、だったのかもしれない。
 もしかしたら、前までの俺は……なんてことも、ふと浮かんだ。


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