今日はいわば、俺のために用意されたような場。
テーブルには沢山の手料理が並び、誰もかれもが笑みを浮かべている。
涙はない。怒りもない。
あるのはただ、平穏で温かな空気。
……葉月ちゃん、がんばってくれたんだな。
「…………っ」
ふと、料理を眺めながらグラスを持った手が止まる。
なぜそう思ったのか、正直わからなかった。
……どうして俺は、真っ先に葉月ちゃんが作ったと思ったんだろう。
この家には、お袋さんだっている。
だから当然、お袋さんと葉月ちゃん、ふたりで協力して作ったかもしれないのに。
もしくは、羽織ちゃんが予め支度しておいてくれたのかもしれないのに。
……なのに、だ。
なのに俺は、葉月ちゃんをねぎらっていた。
あたかも、この家の実情を知っていたかのように。
「………………」
「祐恭さん……?」
「え?」
「どうしたんですか?」
「……あ……いや。なんでもない」
ひどく疲れた顔でもしていたのか。
隣の彼女がちょんちょんと腕をつついたかと思いきや、眉を寄せてひどく心配そうな顔を見せた。
自分が自分に戸惑ってどうする。
記憶はひとつ。
他人のモノじゃない、自分自身のモノなんだから怖いはずがない。当然だ。
俺が記憶を取り戻せば、恐らく誰もが喜んでくれるだろう。
……そのはず、なんだが。
「…………」
どこかでそれに抵抗を示す自分がいるのも確か。
記憶がすべて戻ったとき、今の俺はどうなるんだろう。
上書きされるのか。
消えてなくなるのか。
……たまらないな。
まさか、自身のことでこんな悩みを持つなどとは。
世界中どこを探しても、俺くらいのモノだろう。
「んー……さてーとぉ。それじゃ、そろそろ私たちは失礼するわ」
ほぅ、と息をついてビールの缶をテーブルへ置いたお袋さんが、にんまりと笑みを浮かべた。
その顔はどこか孝之にも似ていて、改めて親子なんだなと思ってしまう。
「祐恭君は、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
なんなら泊まっていきなさい。
さらりと聞こえた小さな言葉にどう返事をしていいのかわからず、さりげなく耳に入らなかったことにさせてもらう。
以前までの――……そう。
ふたりにとっての俺は、そういうヤツだったんだろうか。
そこまで認めてもらえていたのか、それとも既成事実として捻り取ってしまったのかは、わからない。
……だが。
「…………」
冷茶のグラスに口をつけながらふと隣を見ると、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべている彼女がいて。
表情に曇りもなければ戸惑いもない。
だが……だからこそ正直不安でもあり怖い部分でもある。
キスより先。
未だ手を伸ばしていない場所へ行き着いたとき、彼女がどんな反応をするのか。
……素直に怖い、と思う。
彼女の顔が歪むんじゃないか。
戸惑われ、恐れられ、軽蔑されるんじゃないか。
そんな人じゃなかった。
この、彼女の唇からそう突き放されるんじゃないか。
考えすぎかもしれないが、どうしても嫌な考えばかりが先回りをする。
足止めをする。
枷になる。
……まぁもっとも、今はまだそのときでないのが事実。
及ぼうとしてもできない間柄だとわかっているから、望みはしない。
まだ、数日。
以前までの関係がどうだったのかはわかる気もするが、それはそれ。
俺であって俺でない、自身と彼女との関係。
……だから、違う。
今の俺は、彼女にそこまで許されている人間ではない。
少なくとも――……あのとき。
強引にもぎ取った口づけを抵抗されなかったのは、正直安堵している部分でもある。
「……それじゃあ、そろそろ俺も……」
「えっ!」
お袋さんと親父さんが揃って席を立ってしばらくしてから口にすると、それはそれは驚いたように彼女が俺を振り返った。
今まで、葉月ちゃんとテレビを見ながら話に興じていただけに、正直こちらも驚く。
「もう結構いい時間だし」
「そんな……っ……あ、でもあの、確かに……明日の予定とか……」
「いや、明日は午後から休みなんだけど」
「じ、じゃあっ……!」
身体ごとこちらに向き直った彼女は、一生懸命言葉を探しているようにも見えた。
そこまでして引き止めてもらえるとは思わなかったからか、後ろ髪引かれるというよりもっと大きな形で気持ちが揺れる。
「…………」
「…………」
困ったような顔をして、じっと見つめてくる彼女。
そんな顔をされれば、どうしたって自分に都合いい方向へ考えが向かい始める。
許されてるのか、と。
もしかしたら、求めてもらえているのか、と。
「まだいーだろ? どうせお前、明日も暇なんじゃねぇの?」
なんとなく間が重たくて口が開かずにいたら、さらりと目の前に座っていた孝之がグラスを傾けながら口にした。
「それは……まぁ、別に」
「だろ? なら、いりゃイイじゃん」
空いたグラスをテーブルへ置き、こちらを指差す姿。
半分目が据わっているが、いつものコイツらしいといえばらしいワケで。
「……いてもいいかな?」
「もちろんですよっ!」
念のためにというより、もっと自然に彼女へ視線が向いたが、呟いてすぐ何度もうなずいてからほっとしたような顔をした。
途端、どきりとする。ガラにもなく。
その顔が、あまりにも安堵そのもので。
よかった。
まるでそう言ってもらえたように見えて、身体の奥が反応する。
彼女に好きだと告げ、彼女の想いを聞き、こうしてともにいられるようになった現在。
それでもまだ、どこかで不安定な自分がいる。
本当に俺を受け入れてもらえたのか、と。
俺でいいのか、と。
そのせいか、彼女にそう言ってもらえることで、徐々に徐々に肯定感が増すんだと、このごろになってようやく気付いた。
俺のすべてを左右するのは、彼女。
そう思って、間違いない。
「…………」
ほわん、と柔らかな笑みを浮かべて葉月ちゃんと話している横顔を見ながら、わずかながら自分も表情が緩んだ。
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