「あー。やっぱイルカは賢いな」
「え」
「……なんだよ」
「ううん。なんでもない」
イルカショーが終わったあとで聞こえた、満足げな声。
思わずびっくりしてそっちを見ると、目が合った途端瞳を細めて『文句あんのか』とばかりにお兄ちゃんに見られた。
……もしかして、お兄ちゃんってイルカが好きなのかな。
葉月がくすくす笑いながら『上手だったね』とうなずくと、それに対して彼がまた話し始めたのを聞いて、疑問が確信に変わる。
そうだったんだ。……意外。
でも、お陰で理由がわかった。
お兄ちゃんが、水族館へ足繁く通う理由が。
「……っし。んじゃ行くか」
「ん。あ、羽織たちも一緒に行かない?」
「え?」
「……だから、なんでコイツらを誘うんだよ。お前は」
「だって、みんなで行ったほうが……」
「ったく」
通路にいっぱいだった人たちが徐々にはけたのを見て立ち上がったお兄ちゃんが、葉月のひとことで肩をすくめた。
でも、ひとこと文句を言っただけで、それ以上は何も言わなくて。
葉月はそんなお兄ちゃんに対して、『ありがとう』って言ってたけれど。
「ダブルデートね」
「っ……そう、だね」
嬉しそうに笑った葉月に、思わず目が丸くなる。
……うん。でも、ホント。
ダブルデート、だ。
こんなふうに、ほかの誰かと一緒にデートするなんていつ振りだろう。
…………水族館かぁ。
去年、絵里としーちゃんと一緒に行ったシーパラダイスは、そういえばダブルじゃなくてトリプルだったんだなぁって、ふと頭に浮かんだ。
「この下にね、海老とかサメとかに触れるプールがあるの。……あと、ヒトデもいたかな?」
「あ、それテレビで見たよ。コレくらいのサメでしょ?」
「そうそう」
葉月と喋ってたら、自然と男女で別れた。
私たちの前をお兄ちゃんと祐恭さんが歩いて、先に階段を下る。
でも――……その後ろ姿を見ながら、ゆっくりと……静かに、足が止まった。
「……羽織?」
「……私……祐恭さんに、ひどいことしたの」
声をかけてくれた葉月を見ることができず、視線を落としたまま小さく呟く。
誰かに聞いてほしかった。
そして、叱ってほしかった。
そんなんじゃダメだって。罰が当たるって。
そう、強く言ってもらいたかった。
「比べてばっかりだったの、今日。前はこんなふうにしてくれた、でも今は違う……って。……そんなのばっかりだったの」
情けない自分。ひどい自分。
葉月の手を掴むと、思わず唇を噛んでいた。
「ちょっと座ろっか」
優しく手を引いてくれた葉月が、少し戻ってイルカプールのそばにあるベンチへ先に腰かけた。
つられるように座り、ゆっくりと彼女を見る。
……優しい顔。
祐恭さんと同じ、私を包んでくれるような雰囲気がある。
「羽織は、瀬尋先生に何かを求めてるの?」
「……かもしれない」
「前の瀬尋先生に戻ってほしい?」
「ううん、別に……戻ってほしいわけじゃない……と思ってたの。思い出してほしいのはあるけれど……でも……」
私は、もう1度同じように好きになってほしかったんだろうか。
同じように、愛してもらいたかったんだろうか。
……そんなつもりなかった。
そんなふうに思わなかった。
ただ、もう1度彼に好きになってもらいたい。
それだけの思いで動いていたはずなのに……それが叶った途端、変わったのかな。
……だとしたら、なんて欲深い人間なんだろう。
「羽織はもう1度瀬尋先生と付き合うっていうのがどういうことか、わかってる?」
「え……? どういうこと、か……?」
いつもと同じ、優しい顔で見つめられて、小さく喉が動いた。
…………わかってなかったんだ、私は。
ただ、彼に好きになってもらえれば救われる、って。
自分がひとりぼっちじゃなくなる、って。
自分のことしか考えてなくて、彼のことなんて……考えてなかったんだ。
だから、自分勝手なことしか浮かばないんだと思う。
……私は、もう1度彼と付き合うということがどういうことなのか、何も理解していなかった。
「瀬尋先生は、瀬尋先生なんだよ。前と同じようになってほしいっていうのは、難しいよね。瀬尋先生は『前』を知らないから」
「っ……」
「瀬尋先生は、羽織の欲しい言葉だけくれる人じゃないよね? ……欲しい言葉だけくれる人なら満足?」
「それは……ううん、満足できないと思う。だって……そんなのって変でしょ?」
一瞬考えたあとで首を横に振ると、葉月が小さく笑ってからうなずいた。
優しい顔。
何も言わなかったけれど、そうだねって言ってくれたような気がする。
「ねぇ、羽織。今の瀬尋先生のいいところって、どこかな?」
「え?」
わずかに首をかしげた葉月が、小さく笑った。
……祐恭さんの、いいところ。
「…………」
一緒にいられるようになってまだほんの少ししか経っていないけれど、でも――……思い浮かべていたら、自然と笑みが浮かんだ。
「……沢山笑うところ……かな。いたずらっぽい顔じゃなくて、ただ優しいの。それにね、ときどき照れたりして……とっても優しく笑うんだよ」
――……そう。
真っ先に浮かんだのは、沢山笑ってくれるところだった。
優しいのは、前と同じ。
でも、前に比べて私の前で彼が沢山笑ってくれることが多くなった気がする。
……ただただ、優しい笑み。
それこそ、どきりとするような眼差しで。
「じゃあ、羽織はどう?」
「え?」
「誰だって、多少なりとも毎日変化していくものでしょう?」
「……うん」
「私とたーくんもね、同じように見えるかもしれないけれど、昨日までの私たちとはちょっと違うんだよ」
「……え? 何かあったの?」
「ふふ。……内緒」
「えー? なあに? 気になるなぁ」
不意に聞こえた言葉で彼女を見ると、くすっと笑ってから楽しそうに『内緒』ともう1度呟いた。
その顔はなんだかとても楽しそうで、それでいて……誇らしげで。
葉月らしくない表情に見えたけれど、でもそれを見て『そっかぁ』とも思えた。
「相手を変えることはできないの。でも、人と接して“自分で”気付いたとき、初めて変わることができるんだよ」
「っ……」
「相手を変えることはできないけれど、自分が変わることはできるよね?」
「……そ……れは……」
「まったく変わらない人なんて居ないよね? 瀬尋先生も変わった。でも羽織だって変わった。だけど――……それでも、今の瀬尋先生に惹かれたから、もう1度付き合うことになったんでしょう?」
「……うん」
「瀬尋先生の中に、以前までの彼を求めるのはちょっと違うよね。同じだけど同じじゃない。瀬尋先生は、今の羽織を見て好きになったんだから」
「っ……」
ね、と続けた葉月が、笑った。
今の、私。
……この私を見て、彼は私を好きになってくれた。
確かにそう。きっと、ううん、そうに違いない。
だって、彼は前までの私を知らないんだから。
「…………」
彼の中にある私は、ただ、お兄ちゃんの妹だっていう情報しかなかった。
なのに、それでも私を好きになってくれた。
想ってくれた。
そばにいることを、許してくれた。
それは――……今の私を、見てくれたから。
今の私で、判断してくれたから。
……あんなに泣いたのに。
あんなに、筋違いのことを言ったりしたのに。
拒んだのに。
離れたのに。
……傷つけたのに。
なのに――……私を、彼は……許して、認めてくれたんだ。
「以前までの瀬尋先生を求めるな、とは言わない。でも、人は変わるものだってこと……それだけ覚えていたら間違いないんじゃないかな?」
「私…………私、もう……比べないようにする」
優しい葉月の眼差しを受けたままでいたら、ぽつりと唇が動いた。
だって……わかった、の。
葉月の言葉で、“気付いた”の。
今の私にできること。
今の私が、これからしなきゃいけないこと。
“目標”
それが、自分の中で決まった。
「急にはできないかもしれないけれど、でも、だって……祐恭さんは……っ……今の私を見て、もう1度好きになってくれたんだもん」
今の彼が知っている私が、私。
だから、私が覚えている『彼』は、今の“彼”とすべてイコールにはならなくて当然なんだ。
……少しずつ、増えていけばいい。
彼の中の私がそうであるように、私の中の今の彼に関することが。
最初から好きになっていいかな?
――……あの日。
エレベーターで彼に言われた言葉どおり、私たちなりの関係を始めればいいんだ。
……ううん、そうしなきゃいけないんだ。
何もかも、最初から。
それは、彼だけじゃなく、私も最初からという意味に違いないから。
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